さて、鈴木大拙の本に

『日本的霊性』という著作があります。

  

インドで発祥し、中国を経由した禅が、

日本で大輪に花開き、

なぜ、文化特性として根づき、実ったのか、

親鸞や浄土真宗などの本質にも触れながら、

興味深い議論を展開しています。

 

その中で、鈴木大拙は、

歴史的に、機が熟した結果、

過去に育ってなかった日本的霊性が、

鎌倉時代に、萌芽したと語ります。

大地遊離的な貴族ではない、

関東武士団の励起する、

鎌倉という「大地性」の時代に、

硬い岩盤を砕いて、それが現れ出たのであると。

 

しかし、この点について、

当スペースでは、別の考えを持っています。

日本的霊性の淵源は、

縄文の時代に、日本の古層文化の中に、

既にあったと考えているわけです。

 

縄文文化は、

(それ自体は、多様な文化ではありますが)

火のような野生の精神であると直観するからです。

ここでは、火は、暗喩であると同時に、実在です。

彼らの土器がそれを示すように。

 

この野生の、火のような精神性は、

文化的・時代的には、

大陸からやって来た、新しい「匠の文化」に飲まれ、

歴史の中では一掃され、

表面的には、姿を見えなくしました。

 

しかし、真に精神的なものとは、

表向きの文化から消えても、

いつの時代でも、

雑多な土着・漂流的文化の中で、命脈を保つものです。

 

つまり、縄文的な火の精神は、

弥生時代以降に、日本人の精神の中で、

充分に生きられていない生の要素、

「やり残した仕事」「未完了の体験」となったわけです。

(日本の裏の神である、不動明王が、

火の神であるのは、偶然ではないのです)

そして、縄文的な火の精神は、

時代の流れの中で、地下に潜り、

 

葛藤し、混淆し、練られ、

鎌倉時代に、再び、

自己の形式(スタイル)を見出し、

地上に姿を現したのだと、考えられるのです。

 

禅や浄土宗という、

大陸由来の仏教の形式を借りつつも、

それらを超過するような、

豊饒な意味と力を持って、

現れたのだと考えられるのです。

 

そのため、日本の禅や親鸞に見出されるものは、

仏教の単なるバージョンアップというものではなく、

それらを刷新するような、

別種の根源的なものとして、現れて来たともいえるのです。

 

取り繕われた律令文化の仮面を裂いて

本来の野生の火の精神としての、

実存の気風を、新しい形式の中で、

表現するものだったのです。

 

おそらく、本人たちは、特に自覚することもなく、

深い、野生の大地の声を聴く中で

自然な形で、それを行なったと考えられるのです。



※気づきや野生、変性意識状態(ASC)への

より総合的な方法論については、拙著↓
入門ガイド
および、
『砂絵Ⅰ 現代的エクスタシィの技法 心理学的手法による意識変容』
をご覧下さい。

 


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