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気づきと変性意識の技法 基礎編
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→「英雄の旅」とは
→体験的心理療法
→NLP 普及・効果・課題
→禅と日本的霊性
→野生と自然
【PART3 Advanced】
気づきと変性意識の技法 応用編
→変性意識状態(ASC)の活用
→願望と創造性の技法
→その他のエッセイ
【PART4 当スペース関係】
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→セッションで得られる効果
→なぜ、ゲシュタルトなのか
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夢見
「感覚の速度」。拡張された身体は、通常の身体感覚よりも速い、感覚の速度を持ちます。拡張された身体は、夢見の身体です。
自分の〈感覚の極点〉をイメージしたり、感じたりすること。そこに夢見の力が帯電し、結晶していきます。
魔法入門。ある意味、魔法は存在します。むしろ注目すべきは、リアルな「日常性」という幻想。それはひとつのゲームに過ぎません。それ以外はすべて魔法です。
物語的身体、音楽的身体、神話的身体、そして、アニメ的身体の背後にも、普遍的な「夢見の身体」が存在していると考えられます。
変性意識状態(ASC)を扱うのもスキルとなります。スキルが上達すると、より多様で深いリアリティを得られるようになります。シャーマニズムの伝統はそのことを教えてくれます。
体験を編集すること、夢を編集すること。心理学的な方法論により、そのようなことが可能になります。
「虹の彼方へ」ではなく「虹の彼方から」。実は、そこが重要かつ困難であったりもします。
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『20世紀少年』という映画がありました。
近未来を描いた漫画原作の映画ですが、
その中に、
「ともだちランド」という施設が登場します。
それは、
謎の指導者「ともだち」による、
一種の矯正施設なわけですが、
その中には、
さらにボーナス・ステージとして、
ヴァーチャル・アトラクションというものも、
存在しています。
そこで、人は、
頭に電極をつけられて、
仮想現実の世界に、
送り込まれることになるのです。
送り込まれる仮想世界とは、
不思議なことに、
謎の「ともだち」が、
子供の頃に生きて、
体験していた、
そのままの世界なのです。
そこにあるのは、
「ともだち」や、
その友人たちが経験していた、
過去の出来事の世界なのです。
そこには、
変わることなく、
かつての過去の出来事そのものが、
再現されているのです。
さて、実は、
私たちの夢の世界も、
この「ともだちランド」に、
似たところがあります。
夢の表面的な部分を取り除いて、
夢の深い部分に入っていくと、
そこには、
私たちの体験した過去の出来事が、
何ひとつ変わることなく、
存在しているのです。
そのため、
夢の世界にアプローチして、
そこに介入することは、
私たちの自分史を作っている、
過去の出来事そのものを、
書き換えることにもなっていくのです。
私たちというものは、
自分の歴史(過去経験した出来事)の上に、
成り立っているものです。
今の私たちの行動は、
過去の出来事の影響(結果)として、
存在しているのです。
そのため、
過去の出来事そのものを、
書き換えるということは、
今の私たちの基底にあるプログラムを、
書き換えることにもなるのです。
そうすると、
(未来の)私たちも、
変わってしまうことになるのです。
実際、このように、
過去を書き換えることは、
可能なのです。
それは、なにも、
夢の素材を利用しなくとも、
可能なことなのです。
そして、そのことは、
さまざまな側面で、
過去の出来事に縛られている、
私たちの人生を変える(一変させる)、
大きなきっかけに、
なっていくのです。
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あなたは、夜見た夢を、
よく覚えているでしょうか?
また、自分の見た夢を、
よく理解できているでしょうか?
夢の世界は、
私たちの「心の全体」(機能の総体、魂)が、
よく表現されているものです。
夢の世界のメッセージは、
私たちのその時の人生に対する、
レポート・アドバイス・指摘でもあるのです。
そこには、
私たちの運命を予期・暗示する、
多様な智慧が含まれています。
そのため、
伝統的な社会の多くでは、
夢のお告げを丁重に扱い、
尊重してきたのです。
しかし、
私たち現代人の多くは、
夢のメッセージを聴きとる術(スベ)を、
失ってしまっています。
このこと自体が、
私たちの「魂の喪失」を、
示しているのです。
なので、私たちが、
夢のメッセージを理解したり、
夢と交流するスキルを増していくと、
私たちは、自分の魂の広大なひろがり、
その叡智と深さを、
より理解することが、
できるようになっていきます。
その創造力の無尽蔵の秘密を、
利用できるようにもなっていきます。
映画監督デヴィッド・リンチは、
作品の中でも、よく夢を使いますし、
生活の中での夢のヒントについても、
よく言及しています。
夢をよく知り、馴染んでいる人は、
多く創造的な人々です。
ゲシュタルト・コーチング・アプローチでは、
夢を理解し、活かし、交流するスキルを磨くことで、
私たちの人生そのものの運航に、
深いレベルで介入していくことになるのです。
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さて、
ネイティブ・アメリカンの、
メディスン・マン(シャーマン)は、
自分たちのことを、
しばしば、パイプに喩えます。
自分たちは、
通り道であり、
その中を通って、
異界の精霊的な力に働いてもらう、
という意味合いからです。
こちら側の世界と、
向こう側の世界とをつなぐ、
パイプ(役)というわけです。
そして、
メディスン(不思議の力)とは、
自分の力で、
何か行なうものではなく、
聖なる何ものかによって、
働いて来る力である、
ということなのです。
そして、
その力に働いてもらうためには、
自己の心身が浄められ、
澄んでいて、
鞘のように堅固な空洞、
パイプのようでなければならない、
というわけなのです。
そのため、
彼らは、聖なるパイプを持ち、
そのことに絶えず、
思いを巡らせているわけなのです。
ところで、
このような知見は、
変性意識状態(ASC)と、
それに関係するエネルギーや、
精神集中を扱う際に、
大変、参考となる考え方なのです。
◆フォーカスとフロー体験
例えば、
特異な集中力状態である、
フロー体験においては、
私たちは、
その行為を為し、統御しているのが、
あたかも自分ではないかのような、
奇妙な感覚を持ちます。
自意識ではない、
エネルギーの流れの内に、
行動が統御されていくのです。
そして、
普段では、行なえないような、
高いレベルでのパフォーマンスが、
達成されるのです。
それは、ある意味では、
私たちの内にある、
高い階層のシステムが、
作動した結果であるとも、
いえるのかも知れません。
→「聖霊」の階層、あるいはメタ・プログラマー
「自意識は消失するが、
いつもより自分が強くなったように感じる。
時間の感覚はゆがみ、
何時間もがたった一分に感じられる。
人の全存在が
肉体と精神のすべての機能に伸ばし広げられる」
M.チクセントミハイ『フロー体験入門』大森弘監訳(世界思想社)
また、その瞬間においては、
ひとつのベクトルのように、
目的へのフォーカスによって、
エネルギーが集中されているわけですが、
その体験の内側において、
意識は澄みきり、
まるで拡大するかのように、
行為の全存在に、
透過しているのです。
まさに、
目的に向かう中において、
パイプのように、
澄み切った空洞があり、
その堅固な通り道の中を、
強度のエネルギーが、
貫いていくかのようです。
行為の主体として重要なことは、
自意識で、
あれこれ行動操作しようとすることではなく、
パイプのような空洞として、
ある種の無心の中で、
エネルギーと情報の自発的な流れが、
自由に活動展開できる場を、
貸し与えていく、
ということなのです。
そして、その際には、
安定した、
堅固な空洞であることが、
何よりも、必要なことなのです。
場の枠組みが、
フラフラしていては、
膨大かつ強力なエネルギーを、
流すことはできないからです。
堅固なベクトル的なパイプになり、
かつ、無心のままに、
目的にフォーカスしていることが、
必要なわけです。
それが、
シャーマンにおける、
戦士的なあり様の、
ひとつの重要な側面なのです。
そのような取り組みの枠組みによって、
フロー体験的な集中力や、
それによる、
創造性豊かなアウトプットというものを、
産み出していくことができるのです。
◆夢見の技法 儀式・フォーカス・変性意識
さて、
拙著『砂絵Ⅰ: 現代的エクスタシィの技法』においては、
「夢見の技法」と題して、
フロー体験のような精神集中や、
意識の均衡状態をつくり出すことで、
私たちの内側から、
豊かな創造性を引き出す技法について、
さまざまに検討しました。
→内容紹介『砂絵Ⅰ: 現代的エクスタシィの技法 心理学的手法による意識変容』
その際に、
取り組みの中において、
堅固な儀式的な構造が、
必要な旨を見ました。
それは、
さきほどまで見て来たような、
「パイプ」的な意味合いから見て、
そうなのです。
堅牢な儀式的な構造が、
私たちを、堅固なパイプに変え、
変性意識的なエネルギーや情報を、
流れやすくするからなのです。
そして、
それはまた、
芸術的な創造(創作)などに関係づけていえば、
その「形式性」が、
その儀式的な役割や、
パイプ的な役割を果たしていく、
ということでもあるのです。
前回、
ロートレアモンについて、
さまざまに見てみましたが、
彼が、並外れた形で、
心の遠い宇宙を探索できた理由も、
作品形式という堅固な儀式的な構造と、
それに支えられた変性意識状態とが、
あったからなわけでした。
→ロートレアモンと変性意識状態
◆聖なるパイプの喩えとともに
さて、以上、
これまで見てきたことは、
「聖なるパイプ」の喩えとは、
シャーマンだけの特殊な問題に、
限定されるものではなく、
普段の私たちにとっても、
利用可能な、
重要なスキル・方法論であることを、
意味している、
ということなのです。
日々、このような、
聖なるパイプに思いを巡らせ、
堅牢な形式性、
儀式的構造による精神集中を、
意識していくことで、
私たちの心のエネルギーの流れは、
より、的を得た力強さと、
情報空間の拡がりを、
持っていくことに、
なるものなのです。
※気づきやシャーマニズム、変性意識状態(ASC)への
さて、前回、
創造と夢見の技法ということで、
目的とするアウトプットに対して、
心身の内容(感情・感覚)を、投影することにより、
私たちの奥底にある創造過程(夢の力)が、
活発化して来る事態について、
取り上げました。
→「創造と夢見の技法 NLP・ゲシュタルト・夢見 その2」
この状態を、
感覚的に理解し、意識的なスキルとするには、
逆パターンの事例から、
体感・類推するのが分かりやすいと思われます。
つまり、私たちが、
アート(音楽、映画、物語、絵画)等の、
創作物に触れた際に、
自分の内側に惹き起こされる、
感情や衝動、感覚的なイメージについて、
意識的になることです。
私たちが、なぜ、
赤の他人の作った創作物に、
強く惹かれ、
過度な思い入れを持つのかと言えば、
それは、心理学的には、
「投影」によるものです。
自分が持っているが、
普段は解離している、
大切な心理的な因子を、
その対象物に見出して、
強く惹かれるというわけです。
「見出す」といっても、
実際に、そこに、
在るわけでもないものを、
勝手に、そこに、
見出す(映し出す)だけの話です。
恋愛と同じく、
「勝手な想い」です。
また、しかし、
そうはいっても、
或る創作物が、
世の一定量の人々の、
投影の受け皿として働くには、
それなりの受け皿の要件(因子)があります。
最大公約数的な要素を、
持っていなくてはならないのです。
(これも、恋愛の場合と同じです)
それは、
創作物の、テーマの普遍性や、
そのジャンルの美的形式における、
適応性と新奇性のバランスなど、
さまざまな要素が考えられます。
このこと自体は、大変、
興味深いテーマではありますが、
別の機会に譲りましょう。
ところで、さて、さきに、
他人の創作物に投影される、
「勝手な想い」について触れました。
実は、
この「勝手な想い」の深い部分に、
棲息しているのが、
私たちの夢の力なのです。
(この「夢」の内実については、
拙著『砂絵Ⅰ: 現代的エクスタシィの技法 心理学的手法による意識変容』を、
ご覧下さい)
そして、
当スペースのアプローチでは、
私たちは、
他人の創作物に投影した想いから、
自分の夢の力を取り出さなければ、
ならないのです。
そうでないと、
「自分自身の夢の力」を展開して、
自分自身の人生を、
創造的に生きていていくことが、
できないからです。
他人の表象世界の中に、
閉じ込められて、
隷属的(不自由)になってしまうからです。
「勝手な想い」を、
自分の意識と、
つなげてあげる必要があるのです。
そのことで、
私たちの中に、
エネルギーの増幅が生まれ、
強い動機づけが生まれるのです。
そして、その際には、
狩人が、
狩った動物の皮や肉を、
余計な傷つけを避けて、
綺麗に剥ぎ取るように、
私たちも、
他人の創作物から、
自分の夢の力を、
綺麗に剥ぎ取り、
切り分けないといけないのです。
◆エクササイズ
そのためには、
自分の「体験」について、
切り分けるかのように、
書き出し、
アウトプットしていくことが、
必要です。
これが、
エクササイズです。
批評のように、
その作品について書くのではなく、
「自分は、こう感じた」
「自分の中で生じたイメージはこうだ」と、
自分の体験として、
「生きた何物か」を書き取り、
アウトプットしていくのです。
言葉は、制限が多いので、
絵や落書きなどの方が、
やりやすいでしょう。
とにかく、自由に、
書きなぐっていくのです。
色や線を置いてみるのです。
そして、その感覚を、
〈塊〉〈イメージ〉として、
外在化させていくのです。
自分自身の「夢の力」の要素として、
対象化していくのです。
そして、
心に響くものや、
惹きつけるものに対して、
数多く、そのような作業(エクササイズ)をしていくと、
段々と、自分の夢の力も、
〈実体性〉を獲得していきます。
そして、
そのように、外在化された、
自分の夢の力というものは、
大きな現実的なパワーをもって、
人生を牽引することにもなっていくのです。
(それらを日々、
見返すことを、おすすめします)
そのため、
「勝手な想い」にこだわって
探求と追跡をすることは、
より核心的で、充実した、
夢の力の獲得に、
最終的に、
私たちを導くことにもなるのです。
それは、後から、
人生を振り返ってみた場合、
明瞭な線として、
浮かび上がって来る類いの事柄なのです。
◆サイケデリック・ビートルズの恩寵
さて、当スペースが、
変性意識状態(ASC)や、
人間の能力・意識の拡張といった、
テーマに焦点化するきっかけも、
元はと言えば、
そのような投影によって引き起こされた、
夢の力の活性化にあったのです。
ビートルズ Beatles といえば、
1960年代のポップ・ミュージックを一新し、
現在のポップ・ミュージックの祖形を創ったバンドですが、
カウンター・カルチャーの思潮と、
同時代として、同期したこともあり、
その中期の音楽は、
いわゆるサイケデリック・ロックでした。
筆者自身が、それを知ったのは、
随分と後の時代であり、
「サイケデリック Psychedelic (意識拡張的)」
という言葉さえ、
周りの誰も、説明できないような時代でした。
しかしながら、中学生の筆者は、
(何の経験値も、環境も持たないにも関わらず)
サイケデリック・ビートルズの背後にある、
〈何か〉を、心理的投影を通して、
嗅ぎつけたのでした。
それは、それまで、
人生にまったく想像していなかったような、
途方もなく眩い、
輝く生の状態(姿)でした。
ほとんど子どもであった筆者の、
日常意識の背後に、
どんな夢の力が、
鉱物的な変性意識状態(ASC)があって、
サイケデリック・ビートルズの 電撃的表象によって、
活性化し、
閃光的なイメージを成したのであろうかと、
少し不思議な気もします。
しかし、その後、
「勝手な想い」や、
その幻想的なイメージにこだわり、
さまざまな追求をしていくことで、
結果的に、
眩い変性意識状態(ASC)を数多く体験し、
「サイケデリック」な実在を、
まざまざと理解することにもなったのでした。
そして、今、
その並外れた光量の、
豊穣で創造的な世界を得るための、
具体的な方法論を、
他の人々とシェアできるという僥倖を、
得ているわけなのです。
それは、元はと言えば、
サイケデリック・ビートルズが持っていた、
何らかの因子に、
子どもの筆者が、夢の力を投影し、
物事に目覚めたことがきっかけなのでした。
その不思議な共振によるものだったのです。
そして、これは、
見聞した限り、
筆者一人に起きたことではなく、
多くの人々に起こったことでもあったのです。
そして、
そのような創作物を創れるということは、
実に素晴らしいことだと思うのです。
◆「自分の」夢の力を生きる
さて、
自分の夢の力を生きることは、
人生に、眩い彩りと動機づけを、
もたらすものです。
ところで、先進国の中で、
日本人の「幸福度」が大変低い調査結果については、
以前よりさまざまな指摘がありました。
その要因のひとつに、
日本人が、「他人の(価値観による)人生」を、
生きてしまっているということが、
挙げられます。
もともと、横並び社会であり、
他人の目や、他人の承認に、
重きをおく社会ではありますが、
他人に主権を与えてしまうような生き方は、
人を無力化させるものです。
それは、
自分の人生を、
自分のコントロールの外へ、
置くことだからです。
自分から、
選択と自由を奪うものだからです。
自分で、自分の人生を、
コントロールできている時、
人は、充実した人生を、
生きているということができるのです。
パールズの、
有名な「ゲシュタルトの祈り」は、
そのことを、ぶっきらぼうなタッチで、
告げています。
「私は私のことをやり、
あなたはあなたのことをやる。
私は、あなたの期待に応えるために、
この世界にいるのではない。
そしてあなたも、私の期待に応えるために、
この世界にいるのではない。
あなたはあなた、私は私。
もし私たちが出会えるとするならば、
それは素晴らしいことだ。
もしそうでないならば、
それは、いたしかたないことだ」
この言葉を引き受ける時、
私たちは、
より健全な現実の息吹に、
触れられていると言えるでしょう。
その上で、
自分の心の底から湧いて来る、
自分の夢の力を、
生きていくことができるのです。
それは、使命にも似た、
宇宙の深い内実に根ざした、
人生となっていくのです。
さて、今回は、
他人の創作物の中に、
投影を通して現れて来る、
夢の力について、
取り上げてみました。
自分の好きな物を取り上げて、
その夢の力を取り出すエクササイズを、
ぜひとも、
実践してみていただければと思います。
そのことからだけでも、
人生というものは、
確実に変わっていくものだからです。
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「NLP(神経言語プログラミング)・ゲシュタルト・夢見」と題して、
これらの各技法が扱う、
心の領域が、地続きを成して、
つながっている様子を見ました。
今回、ここでは、広く、
人生で結果(アウトカム、アウトプット)を生み出す、
創造と具現化の技法について、
考えてみたいと思います。
◆夢の創造過程と身体感覚
さて、
拙著『砂絵Ⅰ: 現代的エクスタシィの技法 心理学的手法による意識変容』の、
「夢見の技法」の中では、
私たちを貫く創造的な夢の力を
どうやって利用すればよいかについて、
さまざまに検討しました。
そして、その際に、
メルロ=ポンティの
「画家は、
その身体を世界に貸すことによって、
世界を絵に変える」
『眼と精神』木田元他訳(みすず書房)
という言葉を引いて、
私たちが、
心身を、世界に投影して、
物事を、暗黙知的に把握していく事態について、
見ました。
そして、この、
対象物(目的)と、投影した身体が、
内的につながっていくという情報回路(通路)の中で、
強い夢(無意識の創造性)の力も、
引き出されて来ることについて、
見ました。
そして、
その夢の力を組織化して、
強度なアウトプット(成果物)として、
外在化・現実化していく方法について、
検討しました。
さて、ところで、
このような夢の力を、
活かしていく方法論というものは、
人生上、生活上の願望を、
具現化する中においても、
決定的な重要な事柄でもあるのです。
というのも、
普段においても(また正念場においても)、
私たちを真に駆動する力(渇望)とは、
夢の創造的過程の沸騰に、
よるものだからです。
そのため、
人生上の、具現化したい目的を持っていて、
それを、「絶対に達成したい」という場合には、
自分の身体感覚を、
センサー(検知器)のように使ってみて、
その目的内容を精査してみると良いのです。
その目的の姿(像)を、
身体的によく感じてみて、
(そこに心身を投影してみて)
その姿(像)と、自分の心の奥底との間に、
夢の力が流れているかどうかを、
確かめていくのです。
その目的の姿と、
夢の力の定かならぬ誘因とが、
強く惹きあうような事態を、
はっきりとした〈実在〉として、
エネルギー的に感じ取れるのであれば、
それは目的の方向性としては、
間違っていないということなのです。
もし、どこかに違和感や、
内的な不十分さを感じるのであれば、
その目的内容に、
どこかにおかしなところが、
あるということです。
その場合は、
諸々を再検討しないといけません。
◆組織化・焦点化して、身体的につかむ
さて、私たちが、
何かを創造していくに際して、
鍵となるのは、
私たちの意識過程、思考過程(拡散的・収束的)だけでなく、
その背後で渦巻き、脈動している、
夢(無意識)の創造過程となります。
それが、
私たちの人生の使命(ミッション)を、
創り出します。
人生の「違い」を生み出すのです。
そのため、
そこにおいては、
夢の力と関わる、身体感覚(身体性)の存在が、
とりわけ重要となるのです。
自分の身体感覚の投影を、
サーチライトのように使って、
対象物(目的、欲しいアウトプット)とつながることで、
私たちは、
自己の創造力の発現を、
動機づけの面でも、組成の面でも、
容易くすることができるのです。
また、以前、
NLPを有効に活かすための、
「現場の情報空間」について、
触れました。
その際も必要なのは、
現場の膨大な情報空間に、
「身体的」に、同調・同期しつつ、
統御・利用していくということなのです。
ここでも、
私たちの身体感覚が、
素地(前提)として重要となるのです。
さて、そのように、
私たちは、
自分の「身体感覚」を、
意図に利用していくことで、
無意識の夢の力を導き、組織化し、
焦点化したアウトプットを、
創り出していくことができるのです。
そのことを通して、
欲しい結果(アウトカム)を、
手に入れることができるのです。
※気づきや統合、変性意識状態(ASC)への
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さて、一見したところの、
NLP(神経言語プログラミング)の魅力は、
自分の内的状態(感覚、感情)を、
コントロールすることによって、
人生そのものを、
コントロールできるようになる、
というコンセプトにあります。
特に、
私たちの内的状態(感覚、感情)というものは、
生まれつきのものや、
過去の経験によってプログラムされた、
自分では、どうすることもできないものだと、
一般には、考えられているからです。
NLPでは、
それら私たちの内的体験に対して、
あたかも、
コンピューターのプログラムを修正するように、
書き換えてしまう、
もしくは、機械の作動を変えるように、
改変してしまう、
かのようなイメージがあり、
(どこかSF的で)
人生に新しい選択肢を、
もたらすように見えるのです。
また、
他者とのラポール(つながり、信頼)を築いたり、
影響を与えたり、
もしくは、他者の内的感覚・状態を推察したりと、
人間関係においても、
新しいコントロールを持ち込むもののように、
見えるわけです。
さて、
このことについていえば、
実際のところ、
軽微なレベルでの、
プログラム修正ということでしたら、
NLPの技法でも、
充分、有効に働きます。
感覚的な固着や、
習慣的な反復による課題でしたら、
パターンを中断し、
その状態を壊していくことで、
新しい流動性を創り出し、
それらを改変していくことができるのです。
それらは、日々、
応用・活用していける事柄です。
そのため、
意欲的に人生を変えていこうとする人には、
使っていくことが望ましいテクニックとも、
なっているのです。
それだけでも、
怠惰な人々との、
違いを創り出すことができるものです。
しかしながら、
少し層が深く、
困っている類いの心理的要素の、
プログラム修正というものは、
既存のNLPテクニックでは、
少し難しいのです。
というのも、人の心や感覚は、
元来、他からの影響によって、
変わることがないようにと、
メタ・プログラムされているものだからです。
NLPテクニックでは、
変化を引き起こす、
その深いメタ・プログラミングの層まで、
侵入することが、
なかなかできないのです。
深いメタ・プログラミングの層は、
より無意識の層、
自然成長的な層、大地性の層、
メタ・プログラマーの層であり、
表層的な意識の層とは、
タイプ(階層)が違うものだからです。
そこに「コンタクト(接触)」するのが、
難しいのです。
両者の違いは、
日常意識と、夢の世界の違いを、
考えてみると、よくわかると思います。
◆ゲシュタルト療法 ―気づき・霊感・行動
ゲシュタルト療法のアプローチは、
意識と無意識の、
両面からのアプローチです。
気づきの技法という面では、
意識的に、
感覚や感情をとらえていくのですが、
この感覚や感情に、
集中的な交流を深めていく過程で、
人は、だんだんと軽微な変性意識状態(ASC)に、
入っていくこととなるのです。
この状態が、いわば、
日常意識と夢の世界との交流を、
つくり出して(可能にして)いくのです。
強い感情の動きが起こり、
深い内的状態のプログラムが、
表層に、浮上してきます。
そこで、
それらのプログラムを、
意識(気づき)と交流させていくことで、
そのプログラムの改変を、
行なうことができるのです。
これが、
ゲシュタルト・アプローチが、
NLPテクニックでは行なえない、
深い層でのプログラム改変を、
行なえる理由なのです。
クライアントの方も、
自分の意識状態が変わり、
深いレベルの心に、
コンタクト(接触)していることは、
明瞭に体感できるのです。
その状態の中で、
新しい行動選択への可能性を、
閃光のように、気づいていくのです。
そして、
セッションにおいて、
別の新しい自己表現を、
色々と試してみることで、
自分の人生が、
その境界(限界)を拡大していく事態を、
鮮明に実感できるのです。
フリッツ・パールズは言います。
「『気づく』ことは、
クライエントに自分は感じることができるのだ、
動くことができるのだ、
考えることができるのだということを
自覚させることになる。
『気づく』ということは、
知的で意識的なことではない。
言葉や記憶による『~であった』という状態から、
まさに今しつつある経験へのシフトである。
『気づく』ことは意識に何かを投じてくれる。」
「『気づき』は常に、現在に起こるものであり、
行動への可能性をひらくものである。
決まりきったことや習慣は学習された機能であり、
それを変えるには
常に新しい気づきが与えられることが必要である。
何かを変えるには別の方法や考え、
ふるまいの可能性がなければ
変えようということすら考えられない。
『気づき』がなければ
新しい選択の可能性すら思い付かない。
『気づき』と『コンタクト』と『現在』は、
一つのことの違った側面であり、
自己を現実視するプロセスの違った側面である。」
(パールズ『ゲシュタルト療法』倉戸ヨシヤ訳、ナカニシヤ出版)
このような気づきが、
軽微な変性意識状態(ASC)の中で、
起こって来るのです。
(この言葉が、
ベイトソンの三次学習と響きあうのが
わかると思います)
それは、通常の日常生活では、
決して経験しないタイプの、
深い気づき(目覚め)の体験であり、
人生そのものの拡大をもたらす、
新たな経験領域の獲得となっていくのです。
ところで、
このようなゲシュタルト療法の体験の層と、
NLPの軽微な体験の層とは、
現実的には、
地続きとなっています。
そのため、
実際のセッションの中では、
これらの各領域を、
自在に行き来することにより、
自分の内的体験を編集したり、
デザインしていくことができるのです。
NLPとゲシュタルト療法を、
うまく統合的にミックスさせていくことにより、
より巧妙で、自在なアプローチを、
創り出していくことができるのです。
◆夢見の技法 ―アウトプットと世界と関わること
さて、
拙著『砂絵Ⅰ: 現代的エクスタシィの技法 心理学的手法による意識変容』では、
「夢見の技法」と題して、
意識的なプロセスと、
無意識的な夢の湧出プロセスとを、
均衡させる創造的な気づきの技法について、
取り上げました。
いわば、日常意識と夢の世界とを、
地続きで交流・生成させて、
組織化していく技法ともいうべきものです。
そのことにより、
より拡充した現実世界の地平を、
創り出していく取り組みです。
それは、
意識の有り様であると同時に、
生命あるものが、自発的にそうであるように、
何かをアウトプット(外在化・外へ出力)させていく、
プロセスでもあります。
ところで、
拙著に詳しく記しましたが、
私たちが、
何かをアウトプットするときは、
世界の対象物に集中するとともに、
心身の無意識的な内容を投影して、
そこに、何ものかを、
生み落としていきます。
外的世界の対象物や、
それによって引き起こされる心理像から、
アウトプットの流れが自然に生まれ、
生長していくのです。
この集中的な、心理的な投影が、
自己の内側から、
一閃のように、
アウトプットするものを、
引っ張り出して来るのです。
そのため、
アウトプットすることは、
それを行なっている当人にとっても、
無意識の未知なるものと、
出遭う体験となるのです。
自分の無意識にあるものを、
本当に知っている人などいないからです。
また、
アウトプットが無意識な投影に導かれる一方で、
意識的な態度としては、
世界に関わっていく集中的な在り方です。
アウトプットすることは、
より深いコミットメントで、
世界や他者と関わる在り方ともいえるのです。
そして、ここでも、
私たちは、
日常意識と夢の世界(無意識的投影)との交錯に、
触れることになるのです。
これが、
アウトプットを経由した場合の、
夢見の技法であり、
私たちの創造力や世界体験を拡大するとともに、
新しい自己発見の機会とも、
なるものなのです。
◆NLP・ゲシュタルト・夢見
さて、
これら、NLP、ゲシュタルト療法、夢見の技法もまた、
体験領域の層においては、
地続きで、つながっているものです。
これらを有機的に連携させて、
デザイン的に組織化することで、
より新しい拡充された現実の層を、
実現しようというのが、
当スペースの、アプローチ方法と、
なっているのです。
つづき ↓
※気づきや統合、変性意識状態(ASC)への
→ゲシュタルト療法【実践・技法編】
→ゲシュタルト療法【応用編】
→「セッション(ワーク)の実際」
【PART2 Standard】
気づきと変性意識の技法 基礎編
→変性意識状態(ASC)とは
→「英雄の旅」とは
→体験的心理療法
→NLP 普及・効果・課題
→禅と日本的霊性
→野生と自然
【PART3 Advanced】
気づきと変性意識の技法 上級編
→変性意識状態(ASC)の活用
→願望と創造性の技法
→その他のエッセイ
【PART4 当スペース関係】
→フリー・ゲシュタルトについて
→セッションで得られる効果
→なぜ、ゲシュタルトなのか
→メニュー/料金
→著作紹介
→メルマガ登録
→お問い合わせ
→『砂絵Ⅰ: 現代的エクスタシィの技法 心理学的手法による意識変容』より
(夏の朝…)
夏の朝
嵐すぎ
われるよう
澄みきる
大気のあつさ
海べり
見わたす
真青のあつみ
反射する
目痛い
まぶしさ
砂浜の
鳶たちの点影
啼き声
高く
風ない浜の
照りかえす
陽の
烈しさ
散らばる流木に
歩みの足もと
砂のめり
躯のふしぶし
透きとおす
暑さのうねり
光はらんだ
目路のかなたに
あと刻む
砂のつらなり
陽の奥に
昏い喪失の
わずかに鎮まり
遠く波だつ
野生の
どよめき
重い
ひずむよう
あわいを
聴いていく
…………
岬をめぐる
晴れた入江
鳥影うごく
空の高さ
護岸工事の
かたい重機音
路面の
黒く艶めき
行きあたる
路地に
暑気の
とどまり
褪せた案内に
古蹟をみとめ
石の路を
登っていく
人いない古道の
樹々の繁り
細まる山径を
ながくぬけ
旧蹟の碑
ちいさな展望台に
たどりつく
見渡される
遥かな湾
照りかえす
かがみのよう
しずかな
海
さざなみの
皺のよう
ゆらめき
陽の
凝集する
反射の
白
褶曲する
湾岸のむこう
巨巌の
黒く霞み
浜にたどった
足どりを
さがしている
…………
雨に
うたれていた
夜じゅう
肌つたう
水滴のながれ
せまい窪地に
うずくまり
嵐の来
うちつくす
雨のはげしさ
生である
緊い圧搾に
雨のそこい
漂白されるよう
うたれていた
……………
陽の射す
真黒な翳らい
暑さむせる
籠りのゆらめき
生樹の気の
匂いつよさ
燐のふるよう
視像ちらつき
這いのびる樹々の
清冽ないぶきに
毛孔梳く
浄まりのささり
岬まく
高い山道を
登っている
いただき向かう
蔭ふかい径
分岐をかさね
みなれぬ草の実
見つけている
太古のけはいの
肉底くいこむ
生のはえぎわ
猛ける緑樹の
根をくぐり
草叢の奥
しらずに
藪に迷いこむ
昏い山蔭めぐる
夏草の繁茂
執拗にからむ
悪い蔓の毛ぶかさ
ぬかるむ土の
異臭の泥黒さ
見晴らしもとめ
急峻なけもの径を
渇くよう
あがっていく
苔むす倒木を
跨ぎこえ
巨木の交う
秘かな暗緑の森陰
ぬけていく
見あげる
高い樹冠に
葉蔭ひらき
覗く
濃緑の聳え
鬱蒼の山嶺
射しこむ
陽の
烈しさ
ささめきひしめく暑熱の
白昼のしずまりに
凝視きしみ
砕き
伐りだされる
青空の
原石
ないものの奥に
眩みの
一点
澄んでいく
…………
よせる
潮の泡
洞窟の口あらい
碧の窪み
浪のあかるさ
底うつる
礁の
緑青
(…白熱のよう……)
…………
灌木のびる
巌の小径
四肢で樹枝つかみ
棘だつ草藪を
降りていく
岬をめぐる
昼の山径
綿ちらす
背のある野の草
波うつ
羊歯の葉群れ
巨大な杉の樹生の
翳らいに
陰鬱な林立ぬけ
見おろされる
麓の建物
廃れた白い工場
谿かかる
大きな鉄橋に
かすかにきこえる
役場の
拡声放送
朽ちたバス停に
ふた昔前の
昭和の広告がある
灯りのない
コンビニ酒屋に
埃りをかぶる
土産物たち
草藪ぬけた
熱い余燼に
うつし身の
わずかに凄み
指先に
注視するよう
光が
よせている
……………
………
土地をはなれる
列車に見る
午後の入江
燦燦と
ひたすあかるみに
黒い巌々の
奇岩の姿
見つめる
砂浜の
遥かに
つらなり
澄みきる
大気のあつさに
海べり
見わたす
真青のあつみ
反射する
目痛い
まぶしさ
水平線の
彩り透ける
碧翠に
鉱石のよう
硬い
恍惚
きこえる
詠唱の
かすかな歌声
儀式の終わりに
樹々の下
露営をたたみ
雨の痕
濡れた敷布を
ぬぐっている
道具をしばり
ゴミをひろい
囲んだ火のあとに
土を戻していく
撒かれる
祈りの言葉
のぼっていく
水底の泡だち
いくすじもの水沫に
身うちの
さざめき
透きとおり
像をなす
けばだち
飛沫
過ぎさった
車内の音声に
遅れて気づく
担ぎあげる荷物の
なれた重さ
乗換駅に
山気はただよい
人いない階段を
あがっていく
→『砂絵Ⅰ: 現代的エクスタシィの技法 心理学的手法による意識変容』より
(春の蒼…)
春の蒼
くらい
薄墨のよう
朝まだき
雪頂く巌の
遠い峰々
あおぐ麓の
大気の
澄みきり
霜凍る
寒さの
きびしさ
肌をそばだつ
樹陰に
黒ずむ径を
降りていく
葉枝にふれる
かすかな
鳥声
黙だすよう
しずんだ樹皮の
かわく匂い
蔭にうかぶ
荒れた岩の
ひえたけはい
繁みかかる
樹々の下を
ぬけていく
遥かに見おろす
谿底の
ほそい流れ
不眠によせる
夜の潜伏を
まどろむよう
たどっていく
…………
夜の峰々に
浮かぶ
黒い稜線
越える峠の
たかい草藪に
忍ぶよう
径を
追っている
照らす
月明かりに
刻まれた
何者かの
足痕
澄んだ藍色の
流れる底
夜の指さきに
なぞられる
獣の
掻ききず
草叢の
ふかい繁みを
延々と
つけていく
跡をさぐり
糞をみとめ
毛のおちた
ぬた場を
たしかめていく
冷えた土の
わずかの紊れ
そよぐ草木の
夜風にきえる
匂い
痕のあるじを
追ううちに
あるじの
分身に
なっていく
かるい枯葉を踏む
急坂の小径
丈高い草枝の
その奥に
まじかなけはい
嗅ぎつけ
過ぎた像を
粘るよう
黒闇に
見凝めていく
湿った土くれの
黴の臭い
霜の割れる
かすかな繊音
かじる樹の芽の
ひろがる苦さ
波うち震える
月の光りを
毛深くまとい
地を這う何者かの
ひそめる
息づかいに
なっていく
照らされる山林の
奥まる胎内に
駆られるよう
攀じてゆき
山峡に
根太く
曝される
まさかりのよう
夜気の群れ
肉のからだの
あかるく膨らみはじめ
背骨をのぼる
樹液の
まばゆさ
狭くなる
いそがれる山径の
産道のよう
険しいさきに
ひしめき
凝集する
繁茂の
息ぐるしい
光点
はいりこみ
痕なくきえ
肉厚いひろがりの
ましろな
暑熱に
なっていく
………
…………
薄墨のよう
くらい
朝まだき
雪の峰々の
遠いつらなり
黒い麓の
凛冽なけはいに
大気の蒼の
かたくさえ
樹々の黙だしに
寒さの
きびしさ
仄白い
根方の傷に
夜になくした
痕跡
見つけている
霜のくだけた
水の匂い
枝さきの
つめたい葉脈に
生を濃くする
夜の疾駆を
透かしている
音なくあがる
たかい羽ばたき
森蔭に
肌を梳くよう
いぶきの
醒め
岩間に翳す
ちいさな花弁の
晴れた面ざし
奥処に
澄みきる
予兆の
葉群れ
径々に
やがてくる
陽のかわきを
嗅いでいく
→『砂絵Ⅰ: 現代的エクスタシィの技法 心理学的手法による意識変容』より
(雪粒の…)
雪粒の
風疾さ
指あたる
ふぶきの
唸り
捲き風の
肉擦るよう
熱うばい
視界を紊れる
粉塵の
ぶ厚さ
雪しろく
舗道を
埋まり
緊めるよう
群がる
埋葬の
冬凍土
降るものの
白と白のあわい
ふと吹きぬけ
夜の奥に
嘲けりのよう
透ける
光の痕
けぶれるさきを
射るよう
見入っていく
………
影ない
白い路面
駅むかう
ながい通り
壊れた看板の
転がり
靴ひたす
氷の泥濘
濡れた足先の
凍えに
くらい渇きが
澱むよう
沈んでいる
たどりついた
漂着の
下層の
ふき溜まり
垢じみた
労役の
うす汚れた
空無を
ぬけていく
かつて眺望した
境涯をはなれ
底辺の
塵のよう
穢土を
降りている
懐かしい様式の
昭和のビルの
つらなり
壁面の
かがみのよう
濡れて
見透かすさきに
知らなかった
夭折を
憶いだす
橋梁の下の
吹きこむよう
真黒い
排口
雪に撓まる
樹々のしなだれを
穴のよう
ぬけていく
………
山峡の
きえかけた径を
わけていく
つづく雨は
傾斜きつい
ぬかるむ古道で
雪となる
見あげる巨木の
高い枝々
風捲きあげる
粉塵の
紊れた舞い
濡れる樹皮に
ふぶきの塊まりの
吹きつけて
瞬くまに
樹林を覆う
ましろな
酷烈
埋まる小径に
峠の
ながい迂廻を
たどっていく
けぶれる視界を
踏みまよい
とだえた標を
さがしている
降りしきる
山路にうかぶ
飢餓のよう
息づき
しみる氷片の
もげるよう
水ささり
雪の渓流
白い苔の巌々に
胎動する
かすかの疼き
うつし身の
剥がれ
透かされ
裸にされ
肉の身の
奥に
ふと
羽根のよう
火の
臨在
生のあえぎの
いそがれて
発熱する
凝視の
脈くらむよう
あかるさに
視えない
陽光が
濃くなっていく
巨岩に
妊み
膨らむ
生の胚
樹林の氷柱に
吹きぬけるよう
眼ざしの
雫し
しろい小径に
焼けどのよう
靴あと
つけていく
…………
街道沿いの
公園
まばらに立つ
旧蹟の碑
ひとけない
雪の残りに
芝生はねる
寒雀
覆うよう
巨きな樹木の
生い繁り
古くに組まれた
敷石を
降りている
樹間の籠りに
湿った草木の匂い
濡れた石組み
ひろがる池に
とおい飛石を
眺めている
逃れた
生のあわい
散らばる
苔の岩たち
死者と生者を
わかつもの
ひえた地面の
冴えた昏がりに
冬陽の
かすかに燦ざめき
肉の身の奥を
不壊のよう
ささえる
しらない白日
かわく肌のした
苛々と
はやまり
覚めていく
発芽のよう
微熱を
注視するよう
あつめていく
(蜂の音…)
蜂の音
夏野の
つらなり
点々と
雫する
花さき
匂い
すばやく宙切る
黒の描線
塗りこむ
大気の暑さに
さざめく
陽光
ちりちりと
ひたすあかるみの
燦々と
視覚くらみ
白日の奥
ひかりさしぬく
野の径に
暗鬱の
一滴
さまよわせている
首つたう
汗のひとすじ
恃んだ肉の
莢のようしない
きつい土手を
ぬけるよう
這いあがる
藪の根のちかく
斥候のよう
身をひそめ
地熱に濃くなる
茎のあいだに
草の青みを
見入るよう
嗅いでいく
…………
夏岳の麓
遠く見る
なだらかな山裾
古びた廃線の
黒い高架
国道をはなれ
雨痕かわく
朽ちた集落を
ぬけていく
ひとけない山蔭の
饐えた小径
枝かたい藪を
わけいり
遺棄された畑を
見おろしている
土もろい勾配に
延びる山径
樹林のさきに
尾根の後背が
息づいている
………
見渡す
峠のつらなり
とおい山峡に
流れる銀の
ひとすじ
緑濃い
急峻な岩間に
うねった樹根
指をかけ
高みからおしかかる
巨きな岩盤
攀じている
憑かれた四肢の
胆汁の
かなしみ
角ばった石の径に
損耗した
肉の重みを
擦るよう
運んでいく
頂きちかくの
正午の
しずまり
照りかえし
凝集する
陽のあつさ
とりつく岩々の
白いめまいのよう
かすみ
真昼のそこを
焦げつくよう
透けていく
けぶれる
塵埃
陽の射す
石のさきざき
岩肌に
飛沫する
火傷のよう
午の痕
高くまみえる
山塊の
見あげる
峻嶺に
巌々に
崖をこえ
凝視ふみいる
空の奥
澄みきった碧の震度に
知らない記憶を
たどっている
だから
風の
故意のしずまり
くらい囀づり
灌木のあいだに
かたい陽ざしの
照りかえし
ひらけた岩場の
擦過する
無音のふるえに
なっている
足を切る
低樹の小枝
尾根づたいに
斜面ゆき
大気の厚みに
腱のうずきを
ぬけていく
かれついた白昼に
まばゆいものの
不意の
まぢかさ
視つめている
見遥かす
峰々のつらなり
かぐろい峡谷の
古代の鬱然
躯の奥に
尾根むこうの
遠い芯
つながり
梳けるよう
在りかを
さぐっていく
……………
蜂の音
夏野の
つらなり
葉群れうつ
黒の描線
塗りこむ
大気の暑さに
白日の
蜜のよう
陽光
風ない小径に
樹々のあいだ
積乱雲のましろを
おっている
岩盤むきだす
昏い威容
いそがれる
径ゆきに
巨岩の群れの
野生の
あらがい
樹間の
群生うつり
ぬけていく
草叢ひそむ
青や白の
ちいさな花弁
身のうちに
濃くなる
陰画のよう
黒薊
視野をかすめる
またたく
翅音
しずまり
待機する
肉さやけさに
痛みのおく繁茂する
光のけはい
見つめていく
※新サイト・ページ(増補版)はコチラ↓
https://freegestalt.net/other/bookcontents/booksand1/
…………………………………………………………
ここでは、拙著の紹介をしたいと思います。
※現在、特価中です。
『砂絵Ⅰ: 現代的エクスタシィの技法 心理学的手法による意識変容』
(電子版 or 書籍版)
※kindle無料アプリは、コチラ
本書の内容やテーマは、
サイトの記載と一部重なるものですが、
より深く遠大な、
トランスパーソナル(超個)な事柄まで含めて、
心の全体性の探求と実践法が、
描かれています。
サイトの内容が顕教的だとすると、
本書では、より密教的な側面までも含めて、
多次元的なリアリティが解説されています。
各種の方法論(ゲシュタルト療法、夢見の技法、野生の(気づきの)技法、英雄の旅、人格変容の行きて帰りし旅等)や、
変性意識体験(人生回顧体験、クンダリニー体験、聖地体験の事例等)について、
実体験を踏まえた考察がめぐらされています。
現代の世間一般に知られるものより、
深くリアルなレベルで、
変性意識や意識拡張の実態、
トランスパーソナル(超個)的な次元の様相、
人格変容のプロセス、
存在の未知の状態(エクスタシィ)、
人生と宇宙の彼方について、
知りたい方にとっては、
ご参考いただける内容となっています。
日本語で書かれたこの手の書籍で、
実体験に即して、ここまで彼方のことを、
精緻に書き記したものも少ないないので、
この人生〔魂〕の謎を解いていきたいと、
真摯に考えられている方にとっては、
生涯に渡って、役立てていただける内容と、
なってます。
以下は、本文からの抜粋です。
『砂絵Ⅰ 現代的エクスタシィの技法 心理学的手法による意識変容』
はじめに
本書は、心理療法や変性意識状態を素材として、私たちの心が持つ、多様な可能性について考察を行なったものである。副題の「現代的エクスタシィの技法」とは、エリアーデの著書『シャーマニズム』の副題『エクスタシィの古代的技法』より来ている。本書に、心理学的なアプローチによる、エクスタシィ(意識拡張)の技法を見出そうという目論見があるからである。そのため、本書においては、意識の変異した状態や、無意識の自律的な機能を中心に、私たちの心が持つさまざまな能力について検討が行なわれている。そして、自然的な創造性が、私たちを導いていく精神の諸領域についても、その展望を見ている。本書を貫く主題は、気づき、変性意識状態(ASC)、心身の拡充的な統合といったものである。
第一部と第二部では、「気づきの技法」と題して、心理療法の一流派であるゲシュタルト療法を取り上げている。ゲシュタルト療法は、現在では人間性心理学に分類される、心理療法の流派であるが、その原理や効果の実態を見ると、治療目的の心理療法だけに限定されない多様な要素を持つものだからである。また、その実際のセッション体験は、私たちの心の持つ能力や可能性について、さまざまな事柄を教えてくれるものだからである。ゲシュタルト療法は、健康な人が、自己の心を探索し、創造力や才能を発掘する技法として、効果を望める面が強いのである。それゆえ、流派の創始者パールズは、ゲシュタルト療法の原理が持つ普遍性を強調するために、自身をゲシュタルト療法の創始者ではなく、再発見者にすぎないと表現したが、それも、あながち言い過ぎともいえない面があるのである。ゲシュタルト療法の実践が持つ原理は、禅をはじめ、世界の瞑想技法とも多くの共通点を持つものなのである。また特に、実践のなかで育って来る、気づきawarenessの能力は、重要な要素となっているものである。その能力は、精神を探求する諸流派の方法論と呼応しつつ、治癒効果にとどまらない、意識拡張の可能性について、さまざまな事柄を、私たちに教えてくれるのである。実際のところ、ゲシュタルト療法を、古今東西にある気づきの技法に、心理学的技法を加えた方法論として見るという、別の見方をすることも可能なのである。そのように見ると、さまざまな介入技法を持つ、ゲシュタルト療法の利点も見えやすくなって来るのである。そのため、本書のゲシュタルト療法についての記述は、必ずしも、教科書的な解説に準じない面や、心理療法としての注意点を省いている面もあるが、それは、そのような本書の狙いのためである。本書では、意識や心身の能力を拡大する、気づきの技法として、ゲシュタルト療法の可能性を検討しているのである。
第三部では、変性意識状態Altered States of
Consciousnessを取り上げて、その体験のさまざまな様相を見ている。変性意識状態とは、意識の変異した状態であるが、それは、普段の日常意識では、あまり知ることのできない、さまざまな体験領域について教えてくれるものである。ここでは、具体的な事例を交えつつ、そのような意識状態の諸相について見ている。
第四部では、夢見の技法と題して、夢を取り扱う、さまざまな方法を取り上げている。夢は、無意識(潜在意識)の自律的な智慧であり、私たちの意識に、必要な情報をもたらす生体機能である。また、その夢に対して、相応しい表現を、生活の中で与えていくことは、私たちの心身に拡充をもたらす、重要な方法論となっているのである。
第五部では、私たちの自然的な(野生的な)能力を回復するという観点から、さまざまな具体的技法を、取り上げている。それらは、潜在能力の開拓や、生きる力の獲得という面からも、有効な実践技法となっているのである。
第六部では、以上のまとめとして、心理学的な人格変容を通した、私たちの意識拡張の内実について見ている。神話的なモデルなどを参照しつつ、私たちに、存在の拡充をもたらす実践のあり方を検討している。
目次
はじめに
第一部 気づきの技法Ⅰ ゲシュタルト療法 基礎編
第一章 ゲシュタルト療法とは
第二章 気づきの3つの領域
第三章 ゲシュタルトの形成と破壊のサイクル
第四章 未完了の体験
第五章 複数の自我
第六章 葛藤
第七章 心身一元論的・全体論的アプローチ
(コラム)
・ライヒとボディワーク系心理療法
第二部 気づきの技法Ⅱ ゲシュタルト療法 実践編
第一章 セッションの原理・過程・効果
第二章 エンプティ・チェア(空の椅子)の技法
第三章 心身一元論的アプローチ
第四章 夢をあつかうワーク
第五章 心理的統合の姿
(補遺)
・セッションにおける通過儀礼とコミュニタス
(コラム)
・アウトプットとゲシュタルト療法
・存在力について
第三部 変性意識状態の諸相
第一章 変性意識状態とは
第二章 呼吸法を使った変性意識状態
第三章 人生回顧体験
第四章 蛇の火について
第五章 大地の共振
(コラム)
・残像としての世界 映画『マトリックス』の暗喩
第四部 夢見の技法
・夢見とは
・気づきと夢見
・心理療法と夢見
・夢見における集中状態
・創作的形式の利用
・創作過程とシャーマニズム的構造
・創作の体験過程
・体験の増幅と凝集
・明晰夢の利用
第五部 野生と自然
第一章 シャーマニズム的な姿勢
第二章 野生の気づき
第三章 狩猟的感覚
第四章 裸足の歩み
第五章 底うち体験と潜在力の発現
第六章 戦士の道と平和の道
第七章 伝統的シャーマニズムについて
第八章 道化の創造性
第九章 アウトサイダー・アートと永遠なる回帰
第六部 行きて帰りし旅
第一章 心理学的に見た変容のプロセス
第二章 英雄の旅
第三章 野生的エクスタシィの技法
参考文献
~~~~~~~~~~本文より~~~~~~~~~~
1.玉ねぎの皮むき
………………………………………………
さて、オーセンティック・セルフ(本来の自己)とは、ゲシュタルト療法の中では、自己表現に関する階層モデルの中で使われている概念(仮説)である。それは、きわめてシンプルな仮説である。モデルの図柄としては、同心円状の輪(層)が、ひとつの核を中心にひろがっている円形図表である(五層一核)。その中心の核にあるのが、オーセンティック・セルフと言われるものである。五つの層(レイヤー) の外側には、決まり文句の層、役割演技の層といったような、私たちの、日常的で表面的な、自己表現の階層があるのである。その下に若干葛藤を含んだ層(行き詰まりの層)が存在し、五層の一番内側(奥)の層には、爆発の層というものがあり、これが、真正な自己表現の階層となっているのである。そして、その下に、原初的で、情動的な、オーセンティック・セルフ(本来の自己)というものがあるのである。つまり、オーセンティック・セルフとは、そこに潜在していると仮定される、自律的で生なエネルギー、感情エネルギーを指しているだけなのである。そして、この奥深い核のエネルギーから、自発的な奔流として、充分表現的に生きられることを、ゲシュタルト療法では目指すのである。一番深い心情から、統合的に生きられている充実的な在り方を目指すのである。そして、人が、自己一致して、肚の底から湧いてくる自分の本心を表明できている時、また、それを味わいつつ、その感情(欲求)で、他者と関わることができている時、人は本来の自分(オーセンティック・セルフ)を生きているといえるのである。
また、実感レベルでいうと、葛藤や、未完了の体験によって被われている心というものは、奥底にある深い感情(欲求)に、自分でも充分接触できていないし、自由に表現もできないという、不全な感覚を持っているものである。そのため、ワーク(セッション)によって、この外皮のような防壁が薄くなり、葛藤がなくなっていくと、私たちの、本来の感情(欲求)が、心の底から、湧き水のよう速やかに、直接流れ出すようになって来るのである。それは、生きる上での大いなる歓び、エクスタシィ(生の充溢)とも感じられるのである。そのため、その状態を獲得するために、人格システムの硬化をなくし、人格の肯定的・積極的能力を高めていくことが、ゲシュタルト療法の、日々の取り組みとなるのである。
ところで、長年、ゲシュタルト療法を続けていくと、人生の大きな妨げ(制限・苦痛)となっていたような、葛藤や人格の外皮は、消失していくものである。ゲシュタルト療法においては、未完了の体験がなくなると、それらに妨げられることなく、「今ここを十全に体験できるようになる」と言われる。つまり、感情的なノイズや、歪んだ自意識に妨げられることなく、今ここの体験(感覚、感情、欲求)をありのままに体験できるようになるというのである。そして実際、そのような状態は、おおよそ達成されて来るのである。
(つづく)
~~~~~~~~~~本文より~~~~~~~~~~
◆人生回顧体験
民間伝承などではよく、人は死ぬ直前に、「自分の全人生を、走馬燈のように回顧する」といわれる。人生回顧(ライフ・レビュー)体験とは、そのような体験のことである。この現象は、臨死体験者の事例報告が収集されるようになってから、そのような現象が、比較的高い頻度で起こっていることが、確認されるようになったことでもある。臨死体験研究のケネス・リング博士によって作られた測定指標の中でも、臨死体験を構成する特徴的な要素として、一項目が採られているものである。
さて、過去に見られたさまざまな事例からすると、この体験は、突発的な事故などの、何かしらの生命危機に際して、遭遇しがちな体験となっているものである。しかし、実際に瀕死状態にならずとも、その危機を判断することの中でも起こるようなので、緊急時における、何らかのリミッター解除が原因となっているのかもしれないのである。筆者の場合は、特に急な事故でもなく、普段の生活の中で、この変性意識状態に入っていったのである。しかし、多くの事例を仔細に見ると、危機的状況による過度な内的圧力(ストレス)が、そのきっかけになることが考えられたので、筆者にあっても、何らかの過度な圧力が、その原因になったと類推されたのである。
◆体験内容
さて、その体験は、普通に街を歩く中で、突然、訪れたものであった。当然そのような出来事が、自分の身に起こることなど予期していなかったのである。そして、起こった後も、それをどうとらえてよいのか、苦慮したのである。その体験が起きた時は、気分の悪さを抱えながらも、普段どおりに市街を歩いていただけであった。
…………………………………
…………………………………………
重苦しい気分で、通りを歩いている。
暗い感情が波のように、心身の内を行き来するのがわかる。
煮つまるような息苦しさ。
あてどない、先の見えない苦痛に、想いをめぐらせていた、とある瞬間、
ある絶望感が、ひときわ大きく、
塊のようにこみ上げて来たのである。
内部で苦痛が昂まり、過度に凝集し、限界に迫るかのようである。
自分の内側で、何かが、完全にいき詰まり、
行き場を失ったのを感じたのである。
その時、
固形のような感情の塊が、たどり着いた、
後頭部の底で、
「砕け散る」のを、
感じたのである。
物体で打たれたような衝撃を感じ、
視像の中を、
透明なベールが、左右に開いていく姿を、
知覚したのである。
内的な視覚の層が、
ひらいていく姿だったのかもしれない。
奇妙な知覚状態に、
入っていったのである…
見ると、
随分と下方に、
遠くに(数十メートル先に)、
「何か」があるのが見えたのである。
何かクシャッと、
縮れたもののようである。
よく見てみると、
そこにあったのは、
(いたのは)
数日前の「私」であった。
正確にいうと、
「私」という、
その瞬間の自意識の塊、
その風景とともに、
その瞬間の人生を、
「生きている私」
がいたのである。
たとえば、
今、私たちは、
この瞬間に、
この人生を生きている。
この瞬間に見える風景。
この瞬間に近くにいる人々。
この瞬間に聞こえる音たち。
この瞬間に嗅ぐ匂い。
この瞬間に感じている肉体の感覚。
この瞬間の気分。
この瞬間の心配や希望や思惑。
この瞬間の「私」という自意識。
これらすべての出来事が融け合って、
固有のゲシュタルトとして、
この瞬間の「私」という経験となっている。
さて、その時、
そこに見たものは、
それまでの過去の人生、
過去の出来事とともにある、
そのような、
瞬間の「私」の、
つらなりであった
各瞬間の、
無数の「私」たちの、
膨大なつらなりである。
それらが時系列にそって、
そこに存在していたのである。
瞬間とは、
微分的な区分によって、
無限に存在しうるものである。
そのため、そこにあったのも、
瞬間瞬間の膨大な「私」たちが、
紐のように、
無数につらなっている姿であった。
それは、
遠くから見ると、
出来事の瞬間ごとのフィルム、
もしくはファイルが、
時系列にそって、
映画のシーンように、
沢山並んでいる光景であった。
そして、
そのフィルムの中に入っていくと、
映画の場面の中に入り込むように、
その時の「私」そのものに、
なってしまうのであった。
その時の「現在」、
その瞬間を生きている「私」自身に、
戻ってしまうのであった。
その瞬間の「私」を、
ふたたび体験できるのである。
主観として得られた、
過去の「私」の情報のすべてが、
そこにあったのである。
………………………
そして、それを見ているこちら側の意識は、透視的な気づきをもって、言葉にならない、無数の洞察を、閃光のように得ていたのであった。そして、この時即座に言語化されて、理解されたわけではなかったが、この風景の姿から、直観的に把握されたものとして、いくつかのアイディアを得たのであった。
その内容を論点によって切り分けると、おおよそ以下のようなものになる。これは後に、体験を反芻する中で、言語化され、整理された要素である。
(つづく)
~~~~~~~~~~本文より~~~~~~~~~~
第四章 蛇の火について
……………………………………
◆白光
「…」
「……」
「…………」
「やって来る」
「やって来る」
「やって来る」
「噴出の」
「来襲の」
「白色の」
「閃光」
「ロケット噴射のよう」
「凄まじい速度で」
「白熱し」
「貫き」
「横ぎる」
「未知の」
「まばゆさ」
…………………………………………
……………………………
………………………
「凄まじい閃光が」
「一瞬に」
「走破する」
「宇宙的な」
「超自然の」
「火柱のよう」
「巨大な」
「白の」
「延焼」
……………………………
………………………
………………
「霊肉を」
「物心を」
「昼夜を」
「透過し」
「貫き」
「蹂躙する」
「急襲する」
「謎の」
「まぶしい」
「獰猛」
「存在の」
「芯を」
「焼きはらい」
「彗星のよう」
「彼方へ」
「拉し去る」
「まばゆさの」
「弾道」
「けばだつよう」
「遥かに」
「恍惚する」
「白の」
「君臨」
………………
……………
…………
………
(中略)
それは、一種のエネルギー的体験であり、俗にヨーガでいう、クンダリニー体験と呼ばれるものに分類されるであろう出来事であった。尾骶骨あたりにつながるどこかの亜空間からか、物質と精神を透過する、凄まじくまばゆいエネルギーが噴出して来たのである。謎めいた、稲妻のような白色のエネルギーである。それが肉体と意識を透きとおし、未知の宇宙的状態をもたらす、ある種の極限意識的・変性意識的な様相を呈したのである。
後になって思い返してみると、たしかに予兆となる現象はいくつかあったのである。しかし、当然ながら、このような事態につながるとは、予期していなかったのである。そして、体験直後のしばらくは、あたかも放射能に焼かれたかのように、奇妙な熱感が、心身にこびりつき、とれない状態であった。そこには何かしら、物質と意識の両域をひとつにしたような、変性意識的で、微細なエネルギーの余燼があったのである。
しかし、実際のところ、この体験がより怖ろしい影響を持ちだすのは、この体験より後の、長い歳月を通してであった。その影響とは、日々の生活の中で、間歇的に訪れてくる、奇妙なエネルギーの浸潤ともいうべき体験であった。ゴーピ・クリシュナの著作にあるような、苦痛きわまる、困難な体験だったのである。
(つづく)
~~~~~~~~~~本文より~~~~~~~~~~
◆大地の共振
古来より聖地と呼ばれる場所があり、人々の生活になんらかの意味を持っていたことは、歴史的な遺跡や文献などからも、うかがい知れるところである。近年でも、俗にパワースポットなどと呼ばれる場所があり、かつての聖地の通俗版として機能していることがうかがえるのである。これらの事柄から考えると、場所や土地に関連づいた、何らかの効能が、昔から存在していたことが類推されるのである。
その原理は、よくわからないが、仮に推論すると、ひとつには、催眠的な効果などがある。たとえば、その場所が、伝承や信仰などと関連した象徴(トリガー)となっており、人がその場所を訪れると、一種の催眠的効果が惹き起こされる可能性などである。身体に聖痕が顕れる信徒などがいるが、そのような原理に基づいた、変性意識状態である。ただ、その場合は、その場所にまつわる何らかの信念に、当人が影響を受けていたり、惹起される効能(体験)に関する情報が、事前に当人にプログラムされていることが必要である。
また、別の可能性としては、純粋に物理的なエネルギー作用である。何らかの磁気的・エネルギー的作用が、そこに存在しているのである。現代の科学では、まだ検出されていないが、未知の成分が存在しており、それらが作用しているというわけである。気功の思想領域などで想定されている内容であり、将来的には、何かの検知が得られる可能性もあるのである。
さて、筆者は、ある見知らぬはじめての土地で、まったく予備知識もなかったにもかかわらず、ある種の変性意識状態、エネルギー的な体験を持つことになったのである。ここでは、その事例について見ていきたい。
ちなみに何らかの事前的なプログラムの有無についていえば、その土地は、情報もなく、突然行くことになった土地であった。かつ、その特定の場所についていえば、旅の途中で偶然知り、行き当たった場所であった。つまり、事前の情報は、皆無だったのである。さて、その時は、ほとんど観光として、そのあたりの土地土地をめぐっていたのであるが、ある場所を訪れた帰り道に、とある古い史跡のことを耳にしたのである。その周辺に来て、そのような場所があることを、偶然知ったのであった。
………………………………………………………………
その場所は、予想に反して、小さな山であり、樹林も少しある静かな所であった。
古く長い石段を登り、小高い史跡のあたり一帯を、散策してみることにしたのである。
とある高台のような場所にたどり着いた時、普段はそんなことをしないのだが、何気なく手をかざして、その場を肉体的に感じてみようとしたのである。するとその時、かすかにチクリと、何かの感覚が一瞬よぎったのである。
普段そのようなことはしないので、気のせいだと思い、あまり気にもとめずに、散策をそのままつづけたのであった。ひと通り、あたりも見終わり、帰り際にすることもなくなったのであるが、その時、ふとさっきの感覚が何であったのかが気になったのである。そのため、さきほどの場所に戻り、その感覚をたしかめることにしたのである。最初の場所に行き、そのあたりの方向に、(目立たぬよう)掌を向けてみたのである。その正確な方向と位置をさぐってみたのである。
すると、
見知らぬ若い女性に、声をかけられたのである。
向こうの方に、旧来の祠があるのだという。
いまの祠は、後の時代につくられたものだという。
こちらだと、その女性が早足に行ってしまった方向に、慌ててついていくと、
案内してくれた、その樹々の葉繁みの向こうに、
たしかに、古い巨石群(磐座)があったのである。
(つづく)
~~~~~~~~~~本文より~~~~~~~~~~
二、気づきと夢見
まず、はじめに、ここでは、「意識的に夢を見る」ということについて考えてみたい。意識的に夢を見ることは、夢の力を取り出し、外在化させるために、最も直接的な方法のひとつだからである。しかし、意識的に夢を見ることは、常識的に考えてみても分かるように、そんなに簡単なことではないのである。その状態は、白日夢と近似した状態ではあるものの、逆説的な要素を含んでいるからである。そもそも、日常意識とは、夢を見ていない状態のことを指しているからである。そのため、その状態は、ある面、日常意識と夢とを、同時に(多重的に)実現することを意味するのである。その点で、これは、心理学的に考えられた幻視の技法ともいえるものである。
さて、夢はそもそも、自律的に奔流する野生の心の機能である。その表現も、日常的現実から見ると、非論理的、非因果的なものである。一方、日常意識は、無意識の奔流する情報を濾過・組織化し、因果的に、秩序づける働きである。夢の表現は、象徴的で暗示的、暗喩的で重層的である。一方、日常意識は、明確で明示的、論理的で単線的である。両者はある面、対極的なあり様をしているのである。そのため、両者を同時に働かせるようにするためには、両者の力が相殺しないように、両者の情報の流れを、上手く均衡させる(メタ的な)気づきawarenessの機能が、重要となるのである。気づきの力が、夢見の状態をつくり出し、保持・統御するための要となるのである。つまり、具体的には、気づきの中で、意識の焦点を緩め(拡げ)、夢の流入を導き、調節を行なっていくのである。普段でも、私たちは意識のふと緩んだ瞬間に、さまざまな空想や夢を見ているものである。それをより組織的に行なうということなのである。そのため、これは喩えると、夢の湧出と意識の集中とが、均衡(共振)する心の状態を意図的つくり出すことともいえるのである。その状態を、気づきのフレーム枠の中で、堅固に統制・保持することなのである。特に日常意識は、合意的現実を基盤として、心に自在に閃くものにフィルターをかけて、抑圧しがちである。日常意識と夢の湧出を均衡させるためには、変性意識状態を取り入れつつも、日常意識が、ある種の可動域(許容量)を柔軟に拡げていくことが求められるのである。これは慣れと訓練的な事柄であると同時に、習熟が可能な事柄でもあるのである。瞑想のように、心をじっくり注視する中でも修練が可能であるし、また、心理療法のセッションの中でも、鍛えることが可能な事柄である。また、この後に見るように、競技的な身体技法や、創作的プロセスの中でも磨いていくことが、可能な技能となっているのである。そして、この夢見の統制状態に慣れて来ると、外部領域と交わる、生活のあらゆる場面で、そのエッセンスを、知覚的霊感(創造性)として活かすことができるようになっていくのである。
(つづく)
~~~~~~~~~~本文より~~~~~~~~~~
第二章 野生の気づき
ここでは、「野生の気づき」のあり方について考えてみたい。さて、通常、現代の私たちが、A地点からB地点に行くという場合、B地点に何らかの目的があって移動するのが普通である。そして、そのあいだの移動距離(時間)というものは、目的地に較べて、不要な行程(過程)とされており、価値のないものと見なされているものである。そのため、この行程を省略するための交通手段が、高い価値を有しているのである。たとえば、速度のはやい飛行機や特急車両などが高額である理由である。そこでは、行程にかかる距離と時間が、金で買われているのである。これが、私たちの、普段の価値観における、目的地(目的)志向であり、過程(プロセス)や時間に対する考え方である。
ところで一方、野生の自然の世界とは、忍びあいの世界である。動物たちは、いつ自分が、天敵や捕食者に襲われるか分からない世界で生きている。一瞬たりとも、気(気づき)の抜けない世界である。また逆に、いつ食べ物や獲物が、目の前に現れる(チャンス)か分からない世界でもある。その意味でも、一瞬たりとも、気の抜けない世界である。自分が、捕食者として獲物を狩った瞬間に、今度は自分が獲物として捕食者に狩られてしまうという、そんな容赦ない世界である。生き延びていくためには、無際限な、瞬間瞬間の気づきが、必要な世界である。気づきの欠如は、すなわち、自らの死につながるからである。つまり、野生の世界では、気づきの持続が、イコール生きることなのである。たとえ、A地点からB地点に移動するにしても、省略してよい無駄な時間などは、一瞬も存在しないのである。すべての瞬間が、可能性であり、危険であり、魅惑であり、在ることのかけがえのない目的なのである。すべての瞬間が、生命の充満した時間なのである。
さて、現代の私たちの(人間)世界と野生の世界との、過程のとらえ方、気づきの働かせ方を記したが、いったいどちらが、生きることの豊かさの近くにいるであろうか。生命の深さと濃密さに通じているであろうか。それは、過酷ではあるが、野生の世界であろう。
私たちの現代社会においても、危機的なサバイバル状況では、動物のような野生の気づきが必要となるのである。現に今でも、世界では、厳しい政治状況などによって、野生の気づきをもって、生きざるをえない人々がいるのである。
さて、本書では、このような野生の気づきのあり方に、ありうべき気づきの働かせ方、過程と時間のとらえ方を、生を透徹させる可能性を見ているのである。瞬間瞬間、サバイバル的に、野生の気づきをもって、未知の経験に開かれてあること。瞬間瞬間、能動的に、創造的体験に開かれてあること。できあいの言葉や観念で世界に膜をかけて、ものを見ないようにするのではなく、そのような人間的ゲームの外に出て、俊敏な気づきの力で、野生の創造過程を垣間見ること。そこに、私たちが、自然本来の創造性を生きる鍵があると考えているのである。
(つづく)
~~~~~~~~~~本文より~~~~~~~~~~
第一章 心理学的に見た変容のプロセス
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ところで、禅については、青原禅師の有名な話が、一般にも知られている。禅の深化のプロセスを説いた話である。禅をはじめる前は、人が見るのは「山は山である」という、ただの普段の風景である。しかし、禅のプロセスが深化すると、風景の自明性は失われ、「山は山ではない」となる。世界は流動化し、確かなものはなくなるのである。意味から解放された空なる世界である。そして、さらに、禅が深化すると、ふたたび「山は山である」となると言われる。世界は、経過したプロセスのすべてを統合濃縮して、それ自身に回帰していくのである。宇宙の重層的な濃密であると同時に、何の変哲もない、今ここの、乾いた風景に回帰するのである。ゴミはゴミであり、糞は糞である。それは、すべてを含むもの(場所)であり、完璧であり、それはそれで良いのである。
さて、体験的心理療法の変容プロセスも、ほぼ似たプロセスをたどっていくのである。フェーズ3においては、その最後に、旅のプロセスのすべてが重層的に反芻され、今ここに回帰して来ることとなる。旅をはじめる前の、苦悩の風景がふたたび戻って来るのである。そして、レンズの焦点が合うかのように、数十年前の風景と感覚が、今ここの透徹した風景と重なり合うのである。すると、風景はそれ自身となることによって(ゲシュタルトが完了するかのように)、すべての意味と内実が、流砂のように脱落していくのである。軽い枠だけを残して、風景は、中空になっていくのである。存在は解放され、抜け出され、無がやって来るのである。後には、今ここに渦巻く息吹と、笑いだけが残るのである。
(つづく)
~~~~~~~~~~本文より~~~~~~~~~~
第二章 英雄の旅
…………………………………………………
…通常、自分を完全に善(天使)と見なす者は、他者を完全に悪(悪魔)と見なすものである。善悪が、逆の場合も同様である。また、抑圧が強いと、他者に投影される姿形も、激しくなりがちである。ポイントは、主体の抑圧内容と分裂の程度なのである。そして、私たち(英雄)を殺すほどのパワーを、悪しき力が持っている場合、そのパワーは、私たち(英雄)の抑圧と分裂がつくり出した力なのである。心理学的に見れば、その悪しき力と交流するプロセスは、自我主体がその分裂した力を回復(再統合)するプロセスだと見なせるのである。そのことは、旧来の自我の危機や解体(死)と引き換えにしたとしても、最終的には望ましいことなのである。その悪しき力(自己の半面)を統合できた時に、私たちは、いくらか心の全体性を回復し、自我の刷新と、異界的な新しい力を、我が物とすることになるからである。
ところで、昭和の時代、テレビのヒーロー番組では、主人公の出自が、悪の組織であるという設定がよくあったものである。ヒーローが持っている並外れた力の由来は、悪の獰猛な力なのである。これは、悪の力が、私たちの日常的現実を超えた、超人間的な、過剰な力であることを神話的に示しているのである。またこれは、普段、私たちが、反社会的な、アウトロー的な力に魅惑される理由でもある。そこには、日常的現実に収まらない、生の過剰的な力が表象されているからである。悪の神話学の法則である。そして、その悪の力の中で、さらに目覚めて、その力を奪い返す(盗み取る)というトリックスター的な、超出的な飛躍(変換)が、英雄の方程式なのである。ヒーローたちが、悪の組織から裏切り者と呼ばれていた理由である。また、単なる凡庸な善の世界にも同化できない理由である。しかし、その変換プロセスを通して、英雄(私たち)は、善悪を含み超えた、自己の深い全体性を育てていくのである。そして、孤絶した、自由で軽やかな個的超越を獲得していくのである。
(つづく)
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◆変容の原理
では、生の変容過程(行きて帰りし旅)とは、どのような原理や構造を、その深層に持っているのであろうか。それを見ていきたい。前章では、英雄の旅とゲシュタルト療法のセッションが、類似した体験過程を持つことについて見てみた。また、第三部においては、ブレスワークとゲシュタルト療法のセッションが、深層において、共通の体験過程を持っていることについて触れた。ここからも類推されるように、生の全体性を指向する変容プロセスには、根っこのところで、同種の体験過程があるようなのである。それは、何度か引いた、次のようなプロセスである。
「たいていの場合、ホロトロピック(※全体指向的)な体験は、オルガスム曲線を描き、感情のもり上がりとともに、身体的兆候が現れ、それが絶頂期を迎え、突如の解決に導くといった経路をたどる」 (グロフ、前掲書 ※引用者)
中心にある原理は、生体の、絶頂へと向かう自律的な解放運動と、本然性回復のプロセスなのである。それは、短期的にも長期的にも、未完了のゲシュタルトの表出(充足)のプロセスとなっているのである。その絶頂を目指す運動にともなって、エネルギーの緊張と解放が生じ、未全なゲシュタルトに対する意識化のプロセスが起こって来るのである。
そして、この過程については、どのような視点(意識と無意識、時間的長短)から、プロセス全体を見るかによって、見えるモデルが違って来るのである。無意識の力の浮上と、意識への浸食を中心にプロセスを見ると、ブレスワーク(短期的過程)や、心理的変容のフェーズ(長期的過程)が見えて来る。一方、無意識と格闘する意識の統合過程を中心に、プロセスを見ると、ゲシュタルト療法のセッション(短期的過程)や、英雄の旅(長期的過程)の形態が見えて来るのである。どこに視点を置いて、プロセス全体を見るかによって、参照する変容モデルも変わって来るのである。しかし、全体としての運動の姿を見てみると、絶頂を目指すオルガスム曲線のようなベクトルが見えて来るのである。それは、前にも触れたように、自発的な異物解消と本然性回復の、生命生理的プロセスなのである。
特に、このオルガスム曲線のプロセスは、行きて帰りし旅の「行き」の部分、つまり異界的彼方へ向かう局面においてよく当てはまるのである。グロフ博士は、次のような観察を、各所で指摘している。つまり、ブレスワークの体験過程においては、生体の中で、あたかも自動的にスキャン(走査)がはじまり、不具合箇所が見つけ出され、その問題が自然に解消されていくようであると。おそらく、これと同様の形で、人生の長期的なプロセスにおいても、私たちの無意識の力は、未完了のゲシュタルトを、意識の前景(図)に押し出して来て、それらを解消するようにと、私たちに促して来るのである。そのことで、より自由な生命の流動性を獲得できるようにと、未完了な心理課題を解消する絶頂的表出(意識化)へと、私たちを追い込んで来るのである。ただし、このオルガスムのプロセスは、たった一回の絶頂で、すべてが解放されてしまうほど、単純な構造にはなっていない。そのため、終局的な解放を目指して、異物のような未完のゲシュタルトを解除する小さな絶頂を、人生で幾度も繰り返していくこととなるのである。
また、ブレスワークのセッションの中では、さまざまな身体症状や激しい情動が溢れて来て、私たちの意識を圧倒して来るものである。それと同じように、人生の長い過程においても、無意識の力は、私たちの意識の前面に、ときどきの解消すべきテーマ(障害、課題)を現わして来るのである。心理的な投影を介して、実在の人物や事件の姿を借りて、それらを現わして来たりするのである。そして、私たちを怖れさせたり戦わせたり、魅惑したり愛させたりしながらも、終局的なゴールへ向かって追い込んで来ることになるのである。無意識が活性化すると、私たちは、それらの像たちにも感応(感染)しやすくなるからである。そのようにして、普段の人生の、長期的なプロセスにおいても、私たちは、悲喜交々や激しい愛憎体験を通して、解放へのオルガスム曲線を、その果てまで辿ることになるのである。
さてまた、オルガスム曲線モデルにおいては焦点が当たらない、旅の「帰り」の部分、往還の「還」の部分を含めて考えると、この行きて帰りし旅には、さらに、どのようなプロセス(モデル)が見えてくるだろうか。そこにおいては、(オルガスム曲線と重なって)生命における成長と結実、拡張と収縮のサイクルが見えて来るのである。つまり「食と性の宇宙リズム」(三木成夫)である。このリズムにおいては、拡張(成長繁茂・春夏)と収縮(開花結実・秋冬)のサイクルが、繰りかえし反復されている。「行き」である拡張においては、成長繁茂のプロセスが、若さのようにオルガスム的解放を求めて、果てまで行くことを目指すのである。生命が、潜在力の十全な解放をめざして、冒険のよう果てまで行くことを目指すのである。一方、「帰り」である収縮においては、開花結実のプロセスが、世界との交感・交合を、収穫や果実として、凝集・凝固することを目指すのである。これは、普段から、私たちがよく目にする、自然界の原理的な姿なのである。
さて、このようにして見ると、私たちの人生に現れる変容過程が、オルガスム曲線を描きつつも、拡張と収縮、成長と結実を、季節のように繰りかえす、生命の普遍的な相貌と重なって来るのである。
ところで、この探索における実践上のポイントについていえば、ここでもまた、主体的な姿勢として肝要なのは、気づきと好奇心を持ちつつ、このプロセスを「果てまで」行ききってみようと試みることなのである。その生長を、果てまで展開し尽くしてみようとすることなのである。そのことで、私たちは、神話英雄のように、生命の未踏の領域に到達し、焼尽するような変容を通して、こちら側に還って来ることができるのである。
そして、また、そのように見ると、この旅の果てにあるものが、食と性の接点、個と類をつなぐ点としての絶頂、つまり、愛と交換の地点であるというのは、興味深い事柄でもある。そこにおいて、私たちは自らを超出しつつ、存在を二重化し、自己と他者、生と死、昼と夜とがひとつになるような存在に変貌するからである。
(つづく)
~~~~~~~~~~本文より~~~~~~~~~~
◆気づきの未来
……………………………
ところで、ゲシュタルト療法の解説の中では、私たちが普段、心身や内的なものを投影して、外部の現実を見ていることについて触れた。その意味で、私たちの「現実」とは、自身の心が映し出したものであるともいえるのである。つまり、この点においても、私たちは、昼間の生活の中で、一種の夢を見ている状態にあるということなのである。ただ、この夢は、他者の夢とも混じりあった、集合的で混濁した夢(悪夢)でもある。その中で、私たちは、日々、人生のさまざまな判断を行ない、行動を起こしているのである。しかし、自分の夢に対して、より鋭い気づきが働かせられるようになると、この昼間の夢の中においても、より醒めた気づきの力を働かせられるようになるのである。昼の混濁した夢のただ中で「これは夢(悪夢)だ」と感じ取れるようになるのである。昼夜を超えた気づきの修練は、私たちの洞察力を、より透徹したものに変えてくれるのである。
ところで、昼間の生活の中で飛び交い、入り混じっている夢の力は、集合的なものの陰画や、抑圧された欲求の投影ばかりとはかぎらないのである。また合意的現実の内容ばかりでもないのである。私たちの魂の奥処からは、宇宙的な創造の大波が、狂気の智慧が、稲妻(トリックスター)のように、時々に寄せて来ているのである。そして、それらに対しても、習熟により、すばやい気づきを働かせて、その流れに乗り込むことができるようになるのである。喩えると、夜の夢の中で、自分の掌を見つけだすように、昼間の生活においても、時々に必要な「掌」を見つけだし、そこにひそむ夢の来訪や、渦巻く振動性のエネルギーを、相応しい在り方(音色)で活かせるようになっていくのである。いわば夢見のトラッキングである。そして、そのことを通じて、あたかも緩やかになった瞬間に入り込むように、痕跡と残像の向こう側にある、より奔放な生の戯れに、忍び寄りつつ、生きられるようになるのである。それは、私たちのこのざらついた現実を、砂絵のように極彩色な、創造性の息吹に変えてくれるのである。
(つづく)
→ゲシュタルト療法【基礎編】
→ゲシュタルト療法【実践・技法編】
→ゲシュタルト療法【応用編】
→「セッション(ワーク)の実際」
【PART2 Standard】
気づきと変性意識の技法 基礎編
→変性意識状態(ASC)とは
→「英雄の旅」とは
→体験的心理療法
→NLP 普及・効果・課題
→禅と日本的霊性
→野生と自然
【PART3 Advanced】
気づきと変性意識の技法 上級編
→変性意識状態(ASC)の活用
→願望と創造性の技法
→その他のエッセイ
【PART4 当スペース関係】
→フリー・ゲシュタルトについて
→セッションで得られる効果
→なぜ、ゲシュタルトなのか
→メニュー/料金
→著作紹介
→メルマガ登録
→お問い合わせ
まったく別のところで、
似たようなエピソードに行き当たると、
その背後にある、
普遍的な共通原理について、
思いを馳せることとなります。
伝記的なドキュメンタリー映画を見ていて、
直接的には、関係のない2人に共通している。
あるエピソードに気づいて、
興味深く感じた記憶があります。
「彼が、会場に着く(いる)とすぐわかるんだ。
音(演奏)が聞こえたからね」
と、友人たちが語る挿話です。
その2人とは、
ジミ・ヘンドリックスと、
ジョン・コルトレーンです。
彼らは、片時も、
ライブ会場の控え室でも、
演奏をやめなかったのです。
コルトレーンについては、
ライブの前に、すでにライブ1本分くらい、
吹いてしまうという、
エピソードもありました。
同時代(60年代)を生きた、
彼らは、ともに、黒人であり、
霊感に満ちた即興演奏を旨とし、
その卓越した創造力で、
それぞれのジャンル(ロック、ジャズ)の、
変革者となった人物です。
彼らは、なぜ、片時も、
演奏をやめなかったのか。
拙著の中では、
「夢見の技法」と題して、
私たちの人生を貫く、
夢の力とその扱い方について、
取り上げています。
2人はなぜ、
演奏をやめなかったのか。
筆者は、それを、
演奏を通す中で、
彼らを貫いていく、
電流のような夢の力のせいだと、
考えています。
演奏を通す中で、
メッセージのように、
現れてくる、
〈何か〉をつかみ、
具現化し、完了するために、
演奏(創造)するしかなかったのです。
彼らが、ともに燃え尽きた者の、
印象を与えるのは、
彼らを、内側から焼いた、
高圧電流のような、
強烈な夢の力(熱)を、
私たちも感じるからです。
芸術において、
ある内的な意味の単位とは、
自律的な生命をもって現れ、
完了されていきます。
演奏なりも、
音楽の自律的生命の、
この十全な発現をもって、
意味のまとまりとして、
完了されます。
その内的なプロセスは、
ホロトロピック・ブリージングの際に見た、
「オルガスム曲線」と同様です。
また、ゲシュタルト療法でいえば、
現れてきた未完了な感情を、
表現し、完了するプロセスと
同様の事柄です。
コルトレーンや、
ヘンドリックスは、
普段から、そのような、
たえず現れてくる
強度の夢の力に、
貫かれていたのでしょう。
それを、
完了させていくためには、
演奏し、表現し、
模索し、創造するしかなかったのでしょう。
アウトサイダー・アートについて触れたところで、
それらのある種、
非人間的な無尽蔵の力について、
書きました。
それは、容赦ない、
根源的なエネルギーです。
コルトレーンや、
ヘンドリックスは、
そのような根源的なエネルギーに、
より近く、生きていたのでしょう。
また、ある意味、
彼らのたえざる演奏・創造的実践が、
彼らを、その近くに生きることを、
可能にしたともいえるのでしょう。
彼らのエピソードは、
深い創造性と夢見の技法について
考える際に、さまざまなヒントを、
与えてくれるのです。
※気づきや統合、変性意識状態(ASC)への
【第一部 ゲシュタルト療法関連】
【第二部 気づきと変性意識】
【第四部 当スペース関係】
→著作紹介
Adolf Wolfli (1864-1930)
アウトサイダー・アートには、
さまざまな魅力があります。
その魅力を語る、決定的なロジックがないにも関わらず、
多くの人が、そこに強い魅力を感じているようでもあるので、
アウトサイダー・アートには、
私たちの精神に、独自に働きかける、
要素があるのだと思われます。
筆者にとって、
アウトサイダー・アートの魅力とは、
まず第一に、植物や昆虫のような、
原初の自然を予感させる、
その無尽蔵さにあります。
とりわけ、その夢魔のような、
尽きることない「反復性」です。
同じ作品内における形態の反復もそうですし、
同じ(ような)作品を、
何千枚何万枚も作り続ける
無尽蔵の反復エネルギーです。
一種、非人間的なエネルギー、
抑制のない徹底的なエネルギーを、
感じる点です。
実は、それこそ、
私たちを駆り立て、突き抜ける、
「夢見の力」の特性と考えられるからです。
そのため、アウトサイダー・アートの
反復性・回帰性に触れていると、
私たちは、一種、変性意識状態な別種の意識を、
まざまざと感じさせられる気になります。
夢魔のような変性意識(ASC)に、
巻き込まれていくのです。
かつて、ハイデガーは、
ニーチェの永劫回帰の思想を、
「等しきものの永遠なる回帰」と、
呼びました。
ニーチェの永劫回帰の思想とは、
この今ここの出来事が、この瞬間が、
まったく変わらぬ姿で、
永遠に回帰するという、
夢魔のような、容赦ない存在肯定の思想です。
(そのため、ニーチェは、
ツァラトゥストラに、
「救済」とは、過去の「そうあった」を、
「私がそう欲した」に変えることだと語らせたのです。
私たちが、永劫回帰を生き抜くには、
変わらない、今ここを追い抜くくらいの、
肯定の強度が必要となるわけです)
アウトサイダー・アートの或る部分には、
「等しきものの永遠なる回帰」と似た、
生の厳粛な肯定性、無尽蔵さがあるのです。
さて、魅力の第二の点として、
「徹底的な直接性」という要素があります。
これは、植物的・昆虫的な無尽蔵さ、
その絶対的な肯定性とも重なりますが、
文化に飼いならされていない、
剥き出しの直接性と無尽蔵さを、
感じさせられる点です。
生(なま)の沸騰の感覚です。
創造性の根底にある、
容赦ない〈自然〉の直接性を、
感じさせられる点です。
そして、上記の二つを通して、
私たちは、不思議な〈郷愁〉に導かれます。
それは、幼児の、
物心つくかつかない頃に感じていた世界のようです。
現在でも、私たちは、
このような、生の基底部の感覚を、
生の原型の姿として、
どこかに持っているような気がするのです。
アウトサイダー・アートの世界は、
そのようなことを、
私たちに感じさせてくれるのです。
※気づきや統合、変性意識状態(ASC)への
自己実現を促進する、潜在意識と心理療法の活用について
【内容の目次】
さて、ここでは、基本的な、心理学的な見方(心のモデル)をご説明することで、当スペースのアプローチが位置している文脈(コンテクスト)と、その方法論の特徴についての解説にしたいと思います。
①心の構造モデル
「心が、どのようなものであるか」についての究極的な理解(解答)は、今現在、人類は持っていません。
さまざまな心の病(精神疾患)と言われるものがありますが、その適切な治療法を見出すことさえ人類はできていないからです。(心の構造とその働きがよくわかっていないということです。厚生労働省の統計において、日本では毎年約十万人の精神疾患をもった方が増え続けています。対処する方法論が分からないからです)
そのため、ここで取り上げる仮説も、当然、究極的なものではありませんが、心理学学説全体の傾向と、筆者自身がさまざまな現場での検証(実践)を通じて、一定の実効性があると考えている構造モデルとなります。
➁氷山モデル
心が「氷山」のようである、というような話を聞いたことがあるかもしれません。これは、S・フロイトが創始した「精神分析 psychoanalysis」などが広めた、心の構造のイメージです。
人間の心に、私たちがよく知る、この「意識」以外に、広大な「潜在意識」「無意識」が存在しているという考えによるものです。この一般に「潜在意識」「無意識」の内容(中身)についても各流派によって、考え方はバラバラで天と地ほどの違いがあります。
さて、私たちのこの自覚的な意識は、「潜在意識」の上に少し出た「顕在意識」であるということです。これを「日常意識」と呼びます。
氷山は、その巨大な大きさのほとんどを海面の下にひそめていて、ほんの一部分を海面の上に出しています。私たちの心も同じだというわけです。そして、私たちの本当に深い欲求、願望、欲望は、顕在意識の届かない深い領域に存在していて、私たちはそれらに衝き動かされながら、生きているというわけなのです。
その深い欲求は、忘れ去られた過去の出来事に由来したり、私たちの知らない先天的な要素に由来を持っているものだったりしているわけです。
いずれにせよ、私たちのよく知る「これが自分だ」と思っているこの顕在意識(日常意識)は、心の全体の中では、氷山の一角でしかないというわけなのです。そして、私たちは、私たち自身の真の本性については、自分でもあまりよく知らないということなのです。
そのため、精神分析などの無意識(潜在意識)を重視する流派は、人間の主体性などあてにならないものであると考えているわけです。また、そのように考える深層心理学の流れでは、「夢」というものは私たちの潜在意識の表現であると考えられています。各流派によって、夢の解釈方法や位置づけは変わりますが、大まかにはそのように考えられています。つまり、私たちは、「夢」を通して、自分の潜在意識と出会っているのです。
③変性意識状態(ASC)の存在
さて、他に「そもそも、意識とは何か」という問題があるのですが、これも大問題であり、一旦定義を保留しておきます。ただ、この場合の「意識」とは、この顕在意識だけを指すのではなく、潜在意識も含めた意識の本質的要素と考えておいていただければと思います。日常意識のことではありません。
というのも、ここで取り上げる変性意識状態(ASC)とは、意識の本質について、私たちに不可思議な謎を突きつけてくる興味深い意識状態であるからです。変性意識状態とは、(別に一章とっていますが)この「日常意識」状態以外のさまざまな意識状態を意味している言葉です。
→変性意識状態(ASC)とは何か
さて、変性意識状態(ASC)とは、私たちのこの日常意識以外の各種の意識状態を指しています。具体的には、瞑想状態、催眠状態、シャーマニズムにおけるトランス状態、夢、ドラッグによるサイケデリック(意識拡張)状態、宗教的な神秘体験などなどです。
例えば、スポーツ選手(アスリート)などがその最高のプレイの中で入っていくといわれる、ゾーン ZONEという状態、言葉を聞いたことがないでしょうか? プレイ中に「ボールが止まって見える」というような、高度に覚醒した意識状態のことです。これは、心理学では、フロー体験(flow experience)と呼ばれる現象であり、変性意識状態(ASC)の一種と考えてよいものです。
→フロー体験とは何か フロー状態 ZONEについて
上の図で、「拡張された非日常的意識」としたものは、フロー体験やトランスパーソナル(超人格/超個)的体験のように、比較的統合された超意識的な変性意識状態(ASC)を指しています。そのため、日常意識の上に割り付けました。しかし、一方、変性意識状態(ASC)そのものは、定義にもあるように、もっと漠然とした多様な形態を持つものです。
※トランスパーソナル(超人格/超個)的体験とは、(その名の通り)個人性や自我の感覚を超えてしまうような、一種、超越的な体験を指します。
ところで、実は、私たちは普段から、さまざまな機会に(程度の強弱はありますが)変性意識状態に入り込んでもいるのです。なんら特別なものではないのです。しかし、社会的にその状態の存在がきちんと認識されていないため、そのことをあまり真面目に考えようとしないだけなのです。しかし、一方、人によっては、強い変性意識状態(ASC)によって、人生が一変してしまう経験を持つ人も多く存在しているのです(自己実現で有名な心理学者、A.マズローが重視した「至高体験 peak-experience 」などもそのような変性意識状態の一種です)。
→マズロー「至高体験 peak-experience 」の効能と自己実現
さて、そんな変性意識状態(ASC)ですが、この変性意識状態(ASC)に自覚的に親しみ、慣れてくると、「日常意識」「顕在意識」以外の広大な潜在意識の世界に、少しずつ、知見と経験が深まっていくということが起こりはじめます。
そこに、実は、人生の秘密を解き明かす(解放する)鍵も含まれているのです。心理療法、特に、ゲシュタルト療法のような体験的心理療法は、実践の中で深い変性意識状態(ASC)に入っていくことも多いので、その感覚がだんだんと磨かれていくこととなるのです。
※グロフ博士のLSD体験と時代背景 インタビュー動画↓
http://hive.ntticc.or.jp/contents/interview/grof
④さまざまなアプローチ手法と心の対象領域
さて、顕在意識、日常意識、潜在意識と、私たちの心の構造モデルの仮説について見てきました。
ところで、普段、私たちが体験したり学んだりしている、さまざまな心を扱う技法、(つまり、セラピー、カウンセリング、コーチングなど)のことですが、この心のモデルに即して言うと、各手法はそれぞれ、心の或る特定領域に関わる(アプローチする)方法論だと区分けすることができるのです。
つまり、コーチングや、カウンセリング(ロジャーズ系)は、基本的にクライアントの方の顕在意識や日常意識に働きかけていく技法だといえます。心理療法の中でも、行動主義的なアプローチは、(クライアントの方の無意識を元々想定していないのでこういう定義は不本意でしょうが)顕在意識や日常意識に、働きかけていく技法だといえます。
一方、深層心理学系の心理療法や催眠療法などは、クライアントの方の顕在意識に働きかけると同時に、潜在意識にも働きかけていく技法だといえます。そして、そこに力動的なダイナミックな働きを想定しているのです。
下部の方に、精神医学の領域をプロットしました。この領域は、投薬などの症状の抑制が主なアプローチとなっています。積極的な技法的介入で、クライアントの方に働きかけるということは行ないません。
上の図で、「拡張された、非日常的(超)意識」とした、比較的統合された変性意識状態(ASC)は、伝統的には宗教的な領域が受け持ってきました。少なくとも、近代社会では、その存在について無知であったり、懐疑的であるため、それらを直接扱う技法も存在していません。
しかし、60年代のサイケデリック(意識拡張)の研究や運動以来、その点の理解も少しずつ進んできました。人格の個人性を超えた領域をあつかうトランスパーソナル(超個的)心理学などは、近代の心理学モデルと伝統的な宗教モデルとを統合しようとした試みだったといえます。
たとえば、下の図「ウィルバーのモデル」とは、心理学的にはやや非正統的なトランスパーソナル心理学の有名な理論家ウィルバーが唱えた「意識のスペクトル」モデルです。
ウィルバーは、世界のさまざまな心理療法や宗教をタイプ分けするにあたって、各流派が「何を、自己の真の主体として、見なし、同一化しているか」「何を、真の主体(実在)と見なしているのか」という「主体の範囲・要素」の違いによって、各心理療法をマッピング(位置づけ)していきました。
精神分析系の多くの心理療法は、「影」という潜在意識を、「自我」の内に統合するという理論を持っています。ゲシュタルト療法は、実存的・ケンタウロス的領域に位置づけられています。「肉体」という潜在意識も統合していくことを目指している流派だからです。そこでは、自我と肉体を統合した「心身一元論的な自己」が、真の主体だと考えられているというわけです。
⑤当スペースの統合的アプローチ 流れる虹のマインドフルネス
さて、当スペースは、精神分析由来のゲシュタルト療法という心身一元論的アプローチを使う面からも、また「気づき awareness 」を重視する点からも、クライアントの方の顕在意識と潜在意識に同時に働きかけるアプローチとなっています。また、セッションの中で現れる変性意識状態(ASC)を利用する視点からも、クライアントの方の無尽蔵な潜在意識を活かすアプローチとなっているのです。特に「拡張された非日常的意識」「トランスパーソナル(超個的)な意識」などの変性意識状態(ASC)を統合的に扱えるという点については、当スペースの他にない特徴となっています。これは、筆者自身の個人的経験からもたらされた重要なポイントです。
というのも、ゲシュタルト療法を実践していたケン・ウィルバーなども指摘するように、心身一元論的なゲシュタルト療法的な「統合」を深く進めていくと、私たちの中にごく自然に、(個人性を超えた)トランスパーソナルな体験領域が開いていくことになるからです。実は、ここは、地続きの形で存在しているのです。
ところで、よく勘違いされる点ですが、成熟され統合された体験の中では、トランスパーソナル(超個的)な意識と個的な実存(意識)は決して排除しあうものではありません。トランスパーソナル(超個的)な意識は、個的状態を透過するように現れてくるのです。それらは併存しているのです。決して、非現実な、宙に浮くような状態ではなく、しっかりと地に足が着いた状態であると同時に、高次の本質的な次元(価値)が透過するよう現れて出ているのです。それが統合されたトランスパーソナル状態というものです。
これについても、ウィルバーは、未熟な前個〔プレパーソナル〕と成熟した超個〔トランスパーソナル〕の区別ということでたびたび言及しています。そのため、一定の心理的統合の後には、トランスパーソナル(超個的)な体験を深めれば深めるほど、それを統合すれば統合するほど、私たちはより「個」としての在り方や充電を鮮烈で豊かなものにできるのです。
それを、当スペースでは、状態的にも、技法的にも、仮に「流れる虹のマインドフルネス」と総称的に呼んでいるわけです。それは、普段の自我の中に、トランスパーソナルな「青空のような広がり」を感じとれるような状態です。〈青空の通り道〉ができるような感覚です。そのようなスキルや状態を身につけることで、私たちは、「流れる虹のような」彩り鮮やかなリアリティや創造性を手に入れることができるのです。
【ブックガイド】
ゲシュタルト療法については、基礎から実践までをまとめた総合的解説、
拙著『ゲシュタルト療法 自由と創造のための変容技法』をご覧下さい。
気づきや変性意識状態(ASC)を含めたより総合的な方法論については、拙著↓
入門ガイド『気づきと変性意識の技法:流れる虹のマインドフルネス』
および、深遠な変性意識状態(ASC)事例も含んだ
『砂絵Ⅰ 現代的エクスタシィの技法 心理学的手法による意識変容』
をご覧下さい。
↓動画「【図解】心の構造モデルと心理変容のポイント」
↓動画解説 「変性意識状態(ASC)とは何か その可能性と効果の実際」
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- 自己肯定感
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- 英雄の旅
- 葛藤解決
- 表現する
- 覚醒
- 身体性
- 野生
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- 願望の具現化・達成