フリー・ゲシュタルトな気づき

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創造性開発

キース・ジャレットの、覚醒と熱望


さて、前回、
G・I・グルジェフのいう、
自己想起self-rememberingを取り上げ、
気づきawarenessと、
そのあるべき姿について、
考えてみました。
気づきawarenessと自己想起self-remembering

今回は、
その続きで
気づきawarenessや、
自己想起self-remembering、
覚醒awakenessについて、
また少し見ていきたいと思います。

ところで、
グルジェフ Gurdjieff については、
ミュージシャンの中に、
信奉者が多いのですが、
特に、
ピアニストのキース・ジャレットや、
キング・クリムゾンのロバート・フリップなど、
即興演奏を重視するミュージシャンに、
その信奉者が多いことは、
注目すべきことでもあります。

実は、それは、
即興表現というものに内在した、
必然的な事態でもあるからです。

さて、
ところで、
世の優れた即興演奏の中には、
あたかも、
その演奏(音楽)が、
慣性的な時間に逆らい、
時間の流れに逆行して、
今ここの空間を切り拓き、
時空を創出するかのような印象を、
受けるものがあります。

その音楽の中で、
私たちは、
時間の水平的な流れに対して
(私たちは普段それに流されているわけですが)
あたかも、その上に立つかのように、
垂直的な在り方をするかのようにも、
感じられたりするものです。

存在(時間)を対象化する、
「存在論的な印象」を、
受けるのです。

存在論的な感覚も、
存在に対して、
あたかも、
その上位に立つかのような、
メタ的な、
垂直的な印象を与えるものだからです。

かつて、批評家の間章が、
エリック・ドルフィー Eric Dolphyに
感じ取ったのも、
おそらく、
そのような垂直的な印象だと、
考えられます。

ドルフィーの軽やかさは、
反慣性的で、
反重力的な性質のものです。

そして、これは、
自己想起self-rememberingの持つ、
覚醒感awakenessと、
即興演奏との、
ある種の親和性でも、
あるのです。

今回は、
そのような親和性を、
明確な方法論として位置づけている、
キース・ジャレットKeith Jarrettの言葉を引いて、
この内実を、
見ていきたいと思います。

その著書『インナービューズ』(山下邦彦訳、太田出版)
における、彼の言葉は、
とても示唆に富んでいます。

そこで、
ジャレットは、
気づきや覚醒、熱望(欲望)、
演奏や経験について、
大変興味深い考えや洞察を、
数々示しているのです。

そこで、
彼が語っている覚醒awakeness
というのは、
当然、自己想起self-rememberingに近い、
存在論的な状態のことを、
指していると思われます。

それは、
前回引いた、
タート博士の言葉によれば、
「ある種の透明さ」
「その瞬間の現実に、
より敏感で、
より存在しているという感じ」
としても、
表現されているようなものです。

「人々が
『感じること、見ること、聞くこと』を
初めて試みる時、
彼らは、しばしば、
ある種の微妙な透明さ―
その瞬間の現実に、
より敏感で、
より存在しているという感じ―
を体験する。
それは、
合意的意識では味わうことができず、
また、事実、
言葉では適切に述べることができない、
そういう種類の透明さである。」
(タート『覚醒のメカニズム』〔原題:waking up〕
吉田豊訳、コスモス・ライブラリー)

さて、
キース・ジャレットは語ります。

「実は、ぼく自身、
自分のことを音楽家だというふうには、
考えていない。
どういうことかって言うと、
ぼくは自分の演奏を聴いていて
ほんとうは音楽が問題なのではない
ということがよくわかるんだ。
ぼくにとって、音楽というのは、
目覚めた状態、覚醒したawake状態に
自分を置き、
その知覚、意識awareness、覚醒awakenessを
認知し続けることに
かかわったものなんだ。」

「ぼくにとって、音楽のすべての形式は、
それ自体は、なんの意味もない。
その音楽を演奏している人間が
覚醒した状態にいるからこそ
(仮面の表情の奥で覚醒しているからこそ)、
その音楽は意味を持ってくるんだ。
演奏している人間が覚醒しているなら、
その人間の演奏するあらゆる音楽が
重要になってくる。
この覚醒こそ、最も重要なものなんだ。」

「自分を覚醒した状態にするための
ひとつの方法は、
できるだけ自然のままので、
自発的な状態でいることだ。
きみが自発的な状態でいれば、
自分のくだらないアイディアと
良いアイディアの区別が
よく聞こえてくる。
なにもかも準備した状態では、
そのような経験を持つことは
けっしてないだろう。」

「ぼくにとって、“欲望(want)”というのは、
覚醒した状態、目覚めた状態にいることであり、
きれいな音を出すとか、
耳に心地よい快適な音を出すとか
ということではない。」

「ミニマリズムによって弾かれる1音と、
覚醒した状態にある誰かによって
弾かれる1音との間には、
信じられないほどの違いがある。
覚醒した状態にある人間は、
眠った状態におちいりたくない。
かれはそのひとつの音を、
可能な限りのあらゆる方法で弾いて、
覚醒した状態を
持続するよう努力するだろう。
この時彼は、聴衆から
緊張を取り除こうとしているのではない。
むしろ、緊張の存在に
気がつくようにしているのだ。」

「とにかく、
彼は音楽を聞くためにやって来たのだから、
ぼくは音楽で対処する。
『きみにはある期待がある』
これはぼくが彼に語りかけているわけ。
『きみは期待している。
しかし、その期待は
過去にもとづいているもので、
現在にもとづいたものではない。
きみがそういう期待をもっていることを
否定はしない。   
でもぼくは期待以上のものをあげよう。
きみに“ 今”をあげよう。
きみが自分の期待をのぞきこむことのできる
鏡をあげよう』」

「こういったことが、
ぼく自身、
自分のことを音楽家だというふうには、
考えていないという理由なんだ。
(たとえばトリックのようなものは)
音楽上の興味としてはあるかもしれない。
しかし、人生はまた別のものだ。
ぼくはなんとか
その中間に位置したいと思っている。
ぼくはたしかに音楽をやっているけれど、
それは音楽的理由だけのために
やっているのではない、ということなんだ。
でも、ぼくはこういうことを
教えようとしているのではない。
経験しようとしているんだ。
この経験こそが、
コミュニケーションだ。」

「自分が何を弾いているのかということも
たしかに重要だけれど、
もっと重要なことは、
『これはどこから来ているのか?』
『今、こう弾きたいという衝動は
どこから来たのか?』
ということだ。」
(前掲書)


さて、以上、
キース・ジャレットの言葉を
見てみましたが、
通常の音楽家とは、
演奏に求めている事柄が、
少し違うことが分かるかと
思われます。

また、
グルジェフについても、
決して、生半可な理解で、
言及しているのではないことも、
分かります。

そして、
このような彼の言葉が、
彼の音楽を聴くに際して、
(多くの場合そうであるように)
邪魔にならないばかりか、
かえって、
覚醒的awakenessなものにする、
という点も、
興味深いことであるのです。



※気づきや、変性意識状 態(ASC)への
より総合的な方法論については、拙著↓
『砂絵Ⅰ 現代的エクスタシィの技法』
をご覧下さい。


 

【PART1 Basic】ゲシュタルト療法
ゲシュタルト療法【基礎編】
ゲシュタルト療法【実践・技法編】
ゲシュタルト療法【応用編】
「セッション(ワーク)の実際」

【PART2 Standard】
気づきと変性意識の技法 基礎編
変性意識状態(ASC)とは
「英雄の旅」とは
体験的心理療法
NLP 普及・効果・課題
禅と日本的霊性
野生と自然

【PART3 Advanced】
気づきと変性意識の技法 上級編
変性意識状態(ASC)の活用
願望と創造性の技法
その他のエッセイ

【PART4 当スペース関係】
フリー・ゲシュタルトについて
セッションで得られる効果
なぜ、ゲシュタルトなのか
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アイデンティティの極致としての至高体験

さて、前回、
自己実現に影響する、
至高体験peak-experienceの
さまざまな特性について、
見てみました。
「至高経験」の効能と、自己実現

今回は、
アイデンティティ(自己同一性)の、
極致として現れる、
至高体験の姿について、
見てみたいと思います。

通常、私たちは、
「自分とは、誰であるのか」と、
自己の存在/体験について、
つねに、確信と不確信の間を、
揺れ動いています。

それは、
私たちの日常意識や自我が、
構造的に持っている不十分さを、
反映しているためと、
考えられます。

しかし、
至高体験(至高経験)peak-experienceにおいては、
その構造的欠陥が、
いっとき、消し去られます。

マズローは述べています。

「人びとが至高経験におかれているとき、
最も同一性identityを経験し、
現実の自己に近づいており、
最も個有の状態である
というのがわたくしの感じなので、
これは純粋、無垢のデータを提供してくれる
とくに重要な源泉であると思われるのである。」
(『完全なる人間』上田吉一訳、誠信書房)

それらを描写する、
マズローの言葉を、
いくつかまた、
拾っていってみましょう。

「至高経験にある人は、
他の場合以上に精神の統一
(合一、全体、一体)を感ずる。
かれはまた(観察者から見ても)
いろいろのかたちで
(以下に述べるように)
一段と統合しているようにみえる。
たとえば、分離分裂が少なく、
自分に対して闘うことよりも
むしろ平和な状態にあり、
経験する自己と
観る自己との間にずれが少なく、
かれのすべての部分的機能が
たがいに巧妙に、
齟齬なく体制化せられ、
それが集中的、調和的、効率的である、など。
以下、統合および
その基礎となる条件について、
違った観点から述べてゆきたい。」

「かれが一段と純粋で
単一の存在になるにつれ、
世界と渾然一体と
深くつながることができるようになり、
以前には自己でないものとも
融合するようになる。
たとえば、愛人は、
たがいに緊密になって、
二人の人間というよりはむしろ一体となり、
我―汝の一元論は可能になり、
創造者は創造している作品と一つになる。(中略)
つまり、同一性identity、自立性autonomy、
自我性selffoodの最高度の到達は、
同時にみずからそれ自体を超越し、
自己を超えてすすむのである。
その際、個人は
比較的無我になることができる。」

「至高経験における個人は、
普通、自分がその力の絶頂にいると
感じられるのであって、
すべてのかれの能力は、
最善かつ最高度に
発揮せられているのである。
ロジャーズはいみじくもいっている。
かれは『完全に機能するfull-functioning』のを感ずると。
かれは、他のときと比べて、
知性を感じ、認知力に優れ、
才気に富み、力強く、
好意的であることを感ずる。
かれは最善の状態にあり、
調子をかため、
最高の状態におかれている。(中略)
かれはもはや自分と闘い、
自分を抑えようとして
無駄な努力を重ねようとはしない。(中略)
普通の状態では、
われわれの能力の一部は行為に用いられ、
また一部は、この能力を抑えるために費やされる。
ところがいまや、
浪費するところがないのである。」
(前掲書)

ちなみに、
このような葛藤の消滅感などは、
ゲシュタルト療法のセッション後に
私たちが、しばしば感じる、
強烈な高揚感の、
重要な原理・構造的理由でもあるのです。

続けて、
彼の言葉を見ていくと…

「完全に機能するfull-functioningという状態を、
わずかばかり違った面から見ると、
人が最善の状態にあるときは、
労せずに容易にはたらくということである。
他日努力し、緊張し、苦闘したことがらも、
その場合、なんの努力も、骨折りも、
苦労もなしに
『おのずと生ずるcomes of itself 』のである。
それとともに、
すべてのことが『ぴったりとclicks 』と、
あるいは『整然is in the groove 』と、
あるいは『力いっぱい in overdrive 』に
おこなわれるとき、
よどみなく、易々と、労せずして、
完全にはたらく状態は、
往々優美感や洗練された外観を
呈するといっても
過言ではないのである。」

「ある人は、至高経験においては、
他の場合以上に、自分を
活動や認知の責任ある能動的、
創造的主体であると感ずるのである。
かれは、
(人に動かされたり、決定されたりする
無力で、依存的、受動的で、弱々しく、
隷属的であるよりは)
根本的に運動の主体であり、
自己決定者であると感ずる。
自分は自制して、
責任を完全にはたし、
断固とした決意と、
他の場合にみられないような
『自由な意志 free will 』でもって、
自己の運命を開拓している、
と感ずるのである。

「かれはいまや次の状態から
極めて自由な立場におかれている。
つまり、障害、抑制、
警戒心、恐怖、疑惑、
統制、遠慮、自己批判、制止である。」

「かれは自発的で、表現に富み、
天真爛漫に振舞う。
(悪意がなく、純朴で、正直、率直、
純真で、あどけなく、飾り気もなく、
開放的で、気どらない)
また自然で(単純で、滑脱、敏活で、
素直、誠実で、とり繕わず、
特定の意味からいっても素朴で、実直)
こだわりがなく、
自己を自由に表出する
(自動的で、直情的、反射的、
『本能的』で、天衣無縫、
自己意識がなく、虚心、無自覚)
のである。」

「かれは、したがって、
特定の意味からして『創造的』である。
かれの認識や行為は、
強い自信や確信に支えられて、
その本質が問題性をもった場面、
あるいは問題でない場面に対し、
『彼岸out there』の立場乃至要請から、(中略)
つくりあげてゆくことが
できるのである。(中略)
当意即妙、
無より生ずるもので、
予想できるものでなく、
新奇で斬新な、
陳腐でも通り一ぺんでもない、
教わることのない
非慣習的のものである。」

「このことはすべて、
独自性、個性、特異性の極致にある
ということができる。(中略)
至高経験の際には
ことさら純粋に異るのである。(中略)
至高経験においては、
かれらのひととなりは
一層顕著になるのである。」

「至高経験においては、
個人は最もいまここhere-nowの存在であり、
いろいろの意味からして、
過去や未来から最も自由であり、
経験に対して最も
『開かれているall there』。」

「いまや、人はより一段と
純粋に精神的なものとなり、
世界の法則のもとに生きる
世界内存在の意味は薄れるのである。
つまり、かれは相違があるかぎりでは、
非精神的な法則よりも、
精神内法則によって
決定される点が多くなるのである。」

「至高経験において、
人は動機をもたなくなる。
(あるいは欲しないようになる)
とりわけ、欠乏動機の見地から見て
そうである。
この同じ理論領域において、
最高の、最もまともな同一性identityを、
無為、無欲、無私として、換言すれば、
普通の欲求や衝動を超越したものとしてとらえても、
同様である。
かれはまさにかれである。
喜びは達せられたのであり、
喜びを求める努力は一時的な終わりを
とげているのである。」

「至高経験を伝える表現方法や伝達方法は、
詩的、神秘的、叙事詩的になりやすい。」

「すべての至高経験は、
デーヴィド・エム・レヴィの意味における
『行為の完了 completions-of-the-act 』として、
あるいはゲシタルト心理学者のいう閉鎖closureとして、
ライヒ学派の例でいえば、完全なるオーガズムの型として、
あるいはまた全体的解発、カタルシス、
カルミネーション、クライマックス、
成就、空虚、終結として、
効果的に理解できるかもしれない。」

「ある種の遊戯性は、
B価値をもっていると
わたくしは非常に強く感ずるのである。(中略)
重要なことは、それが至高経験に際して
最も多く報告されていることであり、
(人の内面からも、外界から見られるところからも)
また、報告している人以外の研究者によっても
見られることである。(中略)
このB遊戯性を述べることは非常にむずかしいが、
たしかになんらかの敵意を超えた、
宇宙的で神のような、
よいユーモアの特性をもつものである。
これは容易に、幸福の喜び、
みち溢れる陽気さ、
あるいは愉しさと呼ぶことができよう。」

「人びとは、至高経験の間およびその後で、
著しく幸福、幸運、恩寵を感ずる。
『わたくしは分不相応だ』というのが
珍しくない反応である。
至高経験は企図せられるものでも、
計画にしたがってもたらされるものでもでもない。
それらは偶然におこるものである。
われわれは
『喜びでもっておどろく surprise by joy 』
のである。
思いもよらないという不意の驚きの反応、
快よい『知ることのショック shock of recognition』は
非常に多いのである。」
(前掲書)


…………………………………………

さて、
アイデンティティの極致としての、
至高体験の姿について、
さまざまに見てみましたが、
この姿は、
個を超出する要素を持ち、
自己同一性(アイデンティティ)ということを、
考える中では、
ある意味、
両義的な要素ともなるわけです。

マズローは、
それを「逆説」と呼び、
以下のように語っています。

「同一性identityの目標とするところ
(自己実現、自立性、個性化、
ホルネイの現実自己、真実性等)は、
同時に、それ自体究極の目標であるとともに、
また、過渡的な目標、経路のならわし、
同一性identityの超越にいたる行路の一段階
であるように思われる。
このことは、
そのはたらきがそれ自体を消してゆく、
ということもできる。」

このような洞察が、
後に、マズローの研究を、
自己実現のテーマから、
自己超越のテーマへと、
移させたことがわかります。

つまり、
私たちは、
究極の自己を求めるがゆえに、
図らずも、
自己を失っていく(超え出ていく)
というプロセスを、
たどっていくことになるのです。

そして、しかし、
その結果、
自己を失う(超え出る)がゆえに、
私たちは、
再び、真の自己を発見(逢着)していく、
といったことにも、
なっていくわけなのです。

そして、その点が、
至高体験が、
私たちの自己同一性identityが持つ、
不確実感を、
克服する要素にも、
なっているわけなのです。

そして、
このあたりの事情は、
変性意識状態(ASC)をめぐる、
さまざまな体験領域においても、
同様に、
重要な問題となって来る事柄でも、
あるのです。

変性意識状態(ASC)においては、
私たちの見知った日常意識が、
さまざまに相対化されて(超え出られて)いくからです。

そのため、
心理変容と変性意識状態(ASC)を扱った、
拙著『砂絵Ⅰ: 現代的エクスタシィの技法』においても、
これらの事柄は、
重要なテーマ(行きて帰りし旅)として、
焦点化されて来ることになったのでした。
内容紹介『砂絵Ⅰ: 現代的エクスタシィの技法』



Abraham-Maslow


【PART1 Basic】ゲシュタルト療法
ゲシュタルト療法【基礎編】
ゲシュタルト療法【実践・技法編】
ゲシュタルト療法【応用編】
「セッション(ワーク)の実際」

【PART2 Standard】
気づきと変性意識の技法 基礎編
変性意識状態(ASC)とは
「英雄の旅」とは
体験的心理療法
NLP 普及・効果・課題
禅と日本的霊性
野生と自然

【PART3 Advanced】
気づきと変性意識の技法 上級編
変性意識状態(ASC)の活用
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「至高体験」の効能と、自己実現


さて、前回、
いささか使い古された感のある、
マズローの自己実現self-actualization
という概念を取り上げ、
それが、
下位の欲求実現のあとにのみ、
ピラミッドの頂点のように、
現れるわけではないことについて、
見てみました。
「完全なる体験」の因子と、マズロー

今回は、
マズローの、別の有名な概念である、
至高体験peak-experience
について取り上げ、
その瞬間的な体験が、
自己実現に作用する、その構造的関係を、
見ていきたいと思います。


◆自己実現の再定義

ところで、
マズロー自身は、
通俗的なイメージにあるような、
「自己実現のモデル」が、
積み木のような静的なモデルとして、
とらえられてしまうことを、
危惧してもいました。

そして、
さまざまな形で、
人生に現れる、
至高体験(至高経験)peak-experienceの体験が、
人の自己実現を、
促進していく要素を持つことについて、
自己実現の再定義として、
記しています。

「換言すると、
だれでも何らかの至高経験においては、
自己実現する個人に見られる特徴を
多く示すのである。
つまり、しばらくの間、
かれらは自己実現者になるのである。
われわれは望むなら、
一過性の性格変化と考えてよいのであって、
情緒―認識―表現状態はまるで違う。
これらは
かれの最も幸福で感動的な瞬間であるばかりでなく、
また最高の成熟、個性化、充実の瞬間―
一言でいえば、
かれのもっとも健康な瞬間―でもある。」

「このことは、
われわれがその静的、類型学的欠陥を一掃し、
極くわずかの人びとが六〇歳になって入ることのできる
悉無律all-or-noneの神殿としないように、
自己実現を再規定することを可能にする。
われわれはこれを挿話として、
あるいは人を奮起させる事柄として、
規定することができるのである。
そこでは、人の力はとくに有効に、
また非常に快的なかたちでもって結集されるだろうし、
かれは一層統合せられ、分裂が少なく、
経験に開かれ、特異的で、
まったくのところ表現豊かで、
自発的で、完全に機能し、
創造に富み、ユーモラスで自我超越的で、
自己の低次欲求より独立する
等々になるのである。
かれはこれらの挿話において、
真に自己自身になり、
完全にかれの可能性を実現し、
かれの生命の核心に接するようになるのである。」

「われわれが
自己実現する人びとと呼んで区別するものは、
平均人よりもはるかに何度も、
又強く、完全に、
これらの挿話的事態が生ずると
みられることである。
このことは、
自己実現が悉無律的な事柄ではなく、
むしろ程度や頻度の問題であり、
したがって、適当な研究手段に乗せ得ることを
示すのである。
われわれはもはや、
大部分の時間、自己を充実できる極くわずかの被験者を
研究することに限られる必要はない。
理論的にいって、少なくとも、
自己実現の挿話としてどのような生活歴を
研究してもよいのである。」
(『完全なる人間』上田吉一訳、誠信書房)

ここでは、
至高体験(至高経験)と、
自己実現との関係、
また、至高体験が、
自己実現に作用するあり様が、
語られています。


◆マズローの狙うところ

ところで、
マズローは、今では、
自己実現や至高体験などの概念で、
知られていますが、
彼の研究の元々の来歴は、
精神分析のような、
欠乏deficiencyした欲求(動機)によってのみ、
構成される人間像というものに、
彼が違和感を感じたからでした。
そこからでは、
創造的な人間像が、
まったく描けないからでした。

人間の存在状態の、
多様な帯域を網羅するには、
観察される、
肯定的で、創造的な要素も、
加えることが必要だと考えたからでした。

そこで、彼は、
欠乏deficiencyを軸とした、
D動機 D-motivation だけで構成される人間像ではなく、
生命 being や生成 becoming の成長欲求を核とした、
B動機 B-motivationというものを、
考えていくようになったのでした。

誰の人生においても、
挿話的に現れる、
創造的で肯定的な体験領域―至高体験や、
また、それらを含む体系として
より包括的な心理学を、
構想するようになったのでした。

彼は語ります。

「これは、
『積極的心理学』あるいは
未来の『予防心理学』に関する一章であって、
完全に機能する健康な人間を取り扱い、
ただ通常の病気である人のみを
取り扱おうとするのではない。
したがって、
「平均人の精神病理学」としての心理学に
対立するものではなく、
それを超え、原理的にいって、
病気も健康も、
また、欠乏も生成も生命も
ともに含める総括的、包括的な体系の中で、
すべてその発見を具体化できるのである。
わたくしは
それを生命心理学Being-psychologyと呼んでいる。
というのは、
それが手段よりもむしろ目的に関係しているからである。
すなわち、最終経験、最終価値、最終認識、
達人people as endsというものに
関与しているためである。
ところがこんにちの心理学の研究するところは、
大抵、所有することよりも所有しないことに、
成就よりも努力に、
満足よりも欲求不満に、
喜びに達したことよりも喜びを求めることに、
そこにあることよりもそこに達しようと努めることに
おかれているのである」
(前掲書)


◆至高体験peak-experienceの諸相

さて、次に、
彼が注目し、事例を収集した、
至高体験(至高経験)peak-experienceについて、
見てみましょう。

通常訳語に使われている、
「至高」という言葉は、
何か宗教的で特別な感じがありますが、
実際は、
身近にあるハイな体験の中でも、
特にその強度が強いものといったものです。

「B愛情B-loveの経験、親としての経験、
神秘的、大洋的、自然的経験、美的認知、創造的瞬間、
治療的あるいは知的洞察、オーガズム経験、
特定の身体運動の成就などにおける
これら基本的な認識事態を、
単一の記述でもって
概括しようとこころみるものである。
これらの、
あるいはこれ以外の最高の幸福と充実の瞬間について、
わたくしは『至高経験』と呼ぼうと思う」(前掲書)

彼が、
至高体験のものとして挙げる、
さまざまな特徴を、
ひろってみましょう。

「B認識B-cognitionでは、
経験乃至対象は、
関係からもあるべき有用性からも、
便宜からも、目的から離れた全体として、
完全な一体として見られやすい。
あたかも宇宙におけるすべてであるかのように、
宇宙と同じ意味での生命のすべてであるかのように
見られるのである。
これは、
大部分の人間の認識経験である
D認識とは対照的である。」

「B認識のあるところ、
認識の対象にはもっぱら、
またすっかり傾倒される。
これは「全体的注意」
―シャハテルもまたそうみている―
と呼んでもよいかもしれない。
ここでわたくしが言おうとしていることは、
魅惑せられること、
あるいはすっかり没頭することの意味に
非常に近いのである。
このような熱中においては、
図は図ばかりになり、
地は事実上消えてしまうか、
少なくとも重視はされない。
それはまるで、当分の間、
図は他のものすべてから切り離されたようであり、
世界が忘れ去られたようでもあり、
暫くの間、認識の対象が
生命のすべてになったかのようである。」

「そのときには、かれは直ちに、
自然がそのまま、
それ自体のために存在するように見ることができ、
決して人間の目的の遊戯場としては
見ないのである」

「わたしが見出したところでは、
自己実現する人間の正常な知覚や、
平均人の時折の至高経験にあっては、
認知はどちらかといえば、
自我超越的、自己滅却的で、
無我であり得ることなのである。
それは、不動、非人格的、無欲、無私で、
求めずして超然たるものである。
自我中心的ではなく、対象中心である。
つまり認知的な経験は、
自我にもとづいているのではなく、
中心点を対象におき
その周辺に形作っていくことができるのである。
それはみずからとかけはなれ、
観察者に頼らない
なんらかの実在を見ているかのようである。
美的経験や愛情経験では、
対象に極度にまで没入し、
『集中する』ので、
まったく実際のところ、
自己は消えてしまうばかりである。」

「至高経験は自己合法性、
自己正当性の瞬間として感ぜられる。
それとともに個有の本質的価値を荷うものである。
つまり、至高経験はそれ自体目的であり、
手段の経験よりも
むしろ目的の経験と呼べるものである。
それは、非常に価値の高い経験であり、
啓発されることが大きいので、
これを正当化しようとすることさえ
その品位と価値を傷つけると
感ぜられるのである。」

「わたくしの研究してきた普通の至高経験では、
すべて時間や空間について
非常に著しい混乱が見られる。
これらの瞬間には、
人は主観的に時間や空間の外に
おかれているというのが正しいであろう」

「至高経験は、
善であり、望ましいばかりで、
決して悪だとか、望ましくないものとしては
経験せられないのである。
経験は本質的に正当なものである。
経験は完全で完成したものであり、
それ以外をなんら必要としない。
経験はそれ自体充分のものである。
本質的に、必然的で不可避のものである。
それはまさにあるべく姿である。
それは畏怖と驚嘆と驚愕と卑下、
それに敬服と高揚と敬虔でもってさえ
反応させれるのである。
この経験に対する人の反応を述べるのに、
神聖ということばも時折使われている。
それは生命の意味からして
喜ばしく、『痛快なものamusing 』である。」

「至高経験においては、
現実そのものの性格をさらに明確に見ることができ、
またその本質が
より深く見透されるものだとの命題を認めたい。」

「至高経験は、
この観点から見ると、
絶対性が強く、それほど相対的ではない。
(中略)それは比較的達観し、
人の利害を超越しているというだけではない。
それらはまた、
みずからは『彼岸』にあるかのように、
人間臭を脱し、
自己の人生を超えて
永続する現実を見つめているかのように、
認知し、反応するのである。」

「至高経験は、純粋の満足、
純粋の表現、純粋の高揚
あるいは喜びと考えてよい。
だがやはり
それは『世上における』ことであるから、
フロイトの『快楽原理』と『現実性原理』の
一種の融合を示すのである。
したがって、それはさらに、
心的機能の高い水準において、
普通の二分法的考え方を
解決した一例ともいえるものである。
したがって、われわれは、
このような経験をもつ人びとには
無意識に対する親近性と開放性、
無意識を比較的おそれないことといった
ある種の『浸透性』が
共通に見出される、と考えてよい。」
(前掲書)


◆至高体験の効能

さて、上記のような、
至高体験が、
人の心理的側面に、
大きな影響を与えることは、
容易に想像することができると思います。

マズローは、
その人格変容(転換)への影響を、
以下のように記します。

「1 至高経験は、厳密な意味で、
徴候symptomsを取り除くという
治療的効果を持つことができ、
また事実もっている。
わたくしは少なくとも、
神秘的経験あるいは大洋的経験をもつ二つの報告
―ひとつは心理学者から、いま一つは人類学者から―
手にしているが、
それらは非常に深いもので、
ある種の神経症的徴候を
その後永久にとり除くほどである。
このような転換経験は、
もちろん人間の歴史においては
数多く記録せられているが、
わたくしの知るかぎりでは
決して心理学者あるいは精神医学者の
注目のまととなってはいないのである。

2 人の自分についての見解を、
健康な方向に変えることができる。

3 他人についての見解や、かれらとの関係を、
さまざまに変えることができる。

4 多少永続的に、世界観なり、その一面なり、
あるいはその部分なりを変えることができる。

5 人間を解放して、
創造性、自発性、表現力、個性を
高めることができる。

6 人は、その経験を
非常に重要で望ましい出来事として記憶し、
それを繰り返そうとする。

7 人は、たとえそれが
冴えない平凡な苦痛の多いものであったり、
不満にみちたものであったりしても、
美、興奮、正直、遊興、善、真、有意義といったものの存在が
示されている以上、
人生は一般に
価値あるものと感じられることが多いのである。」
(前掲書)


……………………………

さて、以上、
マズローの言葉を通して、
自己実現と、
それに影響する至高体験の関係を、
見てみましたが、
その構造的関連が、
理解されたかと思います。

ところで、実際、
至高体験とは、
誰においても、
起こって来るものです。
ここで挙げているような、
極端な形ではなくとも、
もっと穏やかな形で、
多様な姿で存在しています。

そして、
その可能な因子としての心理特性は、
頂点的な体験だけでなく、
日々のさまざまな感覚体験の中に、
混じりこんでいるものなのです。

私たちは、
心理的投影を通して、
ちょっと事件や生活の出来事の中に、
芸術体験やスポーツ体験の中に、
それらの萌芽を、
日々感じ取っているものでもあります。

また、心理療法やその他の、
直に心身を取り扱う実践を重ねていくと、
心身の流動化が、
段々と増していき、
至高体験なども、
より経験しやすくなっていくのです。

拙著『砂絵Ⅰ: 現代的エクスタシィの技法』においては、
心身の流動化や、
変性意識状態(ASC)が、
私たちを導く、
さまざまな生の肯定的様相について、
とり扱ってみました。
内容紹介『砂絵Ⅰ: 現代的エクスタシィの技法』

そして、
実際のところ、
このような創造性が、
自己のうちに、
潜在的に在るものとして、
知っておくことは、
人生の取り組みの中で、
私たちを、
より大きな可能性の中に、
置いていくことでもあるのです。

そのような意味においても、
マズローの視点は、
現在でも、
未だ示唆の多いものと、
いえるのです。



 

【PART1 Basic】ゲシュタルト療法
ゲシュタルト療法【基礎編】
ゲシュタルト療法【実践・技法編】
ゲシュタルト療法【応用編】
「セッション(ワーク)の実際」

【PART2 Standard】
気づきと変性意識の技法 基礎編
変性意識状態(ASC)とは
「英雄の旅」とは
体験的心理療法
NLP 普及・効果・課題
禅と日本的霊性
野生と自然

【PART3 Advanced】
気づきと変性意識の技法 上級編
変性意識状態(ASC)の活用
願望と創造性の技法
その他のエッセイ

【PART4 当スペース関係】
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ホドロフスキー氏とサイコ・シャーマニズム


◆知らされた消息

昔は、
アレハンドロ・ホドロフスキー監督といえば、
ジョン・レノンが惚れ込んだ、
『エル・トポ』や、
その後の『ホーリー・マウンテン』などの、
カルト・ムービーの映画監督として、
有名でした。

その後は、
『サンタ・サングレ』など、
わずかな作品の紹介はありましたが、
長く、その消息を耳にすることもなく、
彼が、活動しているのか、していないのかさえ、
分からない状況でもありました。

(昨今では、
その多様な作品や活動が、
知られる状態となっており、
昔日の状況を思うと、
少し不思議な気持ちにさせられます)

さて、長く、
そのような状態であったため、
自伝として届けられた、
『リアリティのダンス』(青木 健史訳/文遊社)は、
ホドロフスキー氏の、
その間の消息を伝えてくれる、
貴重なドキュメントとなっていたわけです。

そして、その内容は、
『エル・トポ』以前も、以後も、
彼が、実に濃密で、
精力的な活動を、
生涯の探求として
推し進めていたことを、
知らせてくれるものでもあったのです。


◆サイコ・シャーマニズム

さて、
その自伝的な内容ですが、
シュルレアリスム(超現実主義)や、
パニック演劇との関係など、
アート系の活動は、
比較的、予想がつく範囲内での、
内容であったわけですが、
その延長・周辺で、
さまざまな精神的探求の活動も、
同時に推し進めていたというのは、
驚きでもあり、
納得的な事柄でもありました。
(『サンタ・サングレ』は、
心理療法的な物語でした)

そして、
(本物らしき?)カルロス・カスタネダや、
アリカ研究所のオスカー・イチャーソなど、
その関係での、
人々との交流や、その描写も、
とても興味深い内容となっていたのでした。

中でも、
多くの紙数を割いている、
サイコ・シャーマニズム、
サイコ・マジック関連の記述は、
その内容の具体性からも、
方法論的な見地からも、
大変貴重なドキュメントとなっているものです。

当スペースのように、
心理療法や、変性意識状態(ASC)、
シャーマニズムや、創造性開発を、
方法論的なテーマにしている者にとっては、
特に、そうであったわけです。

ところで、
彼のいうシャーマニズムとは、
いわば、
「本物のシャーマニズム」です。

通常、現代社会の中で、
シャーマニズムという言葉が、
方法論的な概念として使われる場合、
 (当スペースなどもそうですが)
多くは、その構造的なモデルを、
利用するために使われているものです。

変性意識状態(ASC)を含んだ、
意識の運動性や、
心理的変容を描くのに、
シャーマニズムのモデルが、
とても有効に働くという、
見地からです。
内容紹介 拙著『砂絵Ⅰ: 現代的エクスタシィの技法』

それは、必ずしも、
伝統社会のシャーマニズムのように、
信念体系(世界観)として、
使われているわけではないのです。

そのような意味では、
ホドロフスキー氏のシャーマニズムは、
本物のシャーマニズムにより近いもの、
もしくは、
本物のシャーマニズムとなっているわけです。

そこでは、精神が、
物質の情報を、
書き換える力を持つことを、

もしくはその区分が無いことを、

前提と(確信)しているものでも、
あるからです。

まさに、
マジック・リアリズム(魔術的現実主義)、
なわけです。

そして、もし、
ホドロフスキー氏の施術が、
事実であるとしたなら、
私たちは、
物質・精神・情報についての、
近代的な世界観を、
少し考え直さなければならない、
というわけなのです。

そのような意味においても、
本の中では、
施術のディテールを、
詳細に、記してくれているので、
その点でも、非常に参考となるものに、
なっているわけです。

そして、
その可否や評価については、
各人が、
さまざまな自分の経験を通して、
検証していくしかないものと、
なっているのです。


◆心と信念の影響範囲

さて、
この最後の点(世界観)についていえば、
前回、取り上げた、
NLPの神経論理レベルの中における、
信念(ビリーフ)などとも、
関係して来る事柄といえます。
NLPニューロ・ロジカル・レベル(神経論理レベル)の効果的な利用法

NLPの、
神経論理レベルにおいては、
「信念」という階層が、
実現可能性(できる)の上に、
位置しています。

このこと(世界観)は、
通常、人は、
信念の内あることのみを、
実現できる、
ということを、
意味しているわけです。

信念が、
人のリアリティの範囲を、
確定していくという、
世界観です。

ところで、
ホドロフスキー氏の、
サイコ・マジックを原案にし、
彼自身も出演した映画、
『Ritual(邦題ホドロフスキーのサイコマジック・ストーリー)』
では、
主人公が、
癒しのために受ける儀式(施術)に対して、
恋人の男が、しきりに、
「信じるな」と、
連呼します。

彼の世界観では、
魔女のような施術者が行なう、
儀式などは、迷信以外の、
何ものでもない、
というところなのでしょう。

そして、
映画の最後は、
主人公の儀式(施術)を妨害して、
台無しにした結果、
その恋人が、
主人公に殺されてしまうという、
結末となっています。
(本当は、この施術の結果として、
主人公の苦痛と妄念は、
取り除かれるはずたったのです)

つまり、
恋人の男は、
「信じない」ことによって、
自らの命を、
落としたともいえるでしょう。

では逆に、
彼が、信じていた世界とは、
果たして、どのような世界だったのでしょう。
主人公や、施術者が、信じる世界より、
彩り豊かな世界だったのでしょうか…


さて、
ホドロフスキー氏の作品や活動は、
この他にも、
非常に多岐に渡っていますが、
そのどれもが、
現代社会を覆う、
私たちの制限的な信念(リミティング・ビリーフ)を超えた、
生や現実の豊かさを、
教えてくれるものとなっているのです。

そのような意味において、
ホドロフスキー氏の世界は、
現代では数少ない、
本物のマジック・リアリズム、
となっているわけなのです。



※気づきや、変性意識状態(ASC)についての、
より総合的な方法論については、拙著↓
『砂絵Ⅰ 現代的エクスタシィの技法』
をご覧下さい。






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クライストと天使的な速度

さて、当サイトでは、
たびたび、フロー体験については
取り上げています。

その体験が、
私たちが、
より拡張された心身状態へ、
移行するための、
分かりやすい類型となっているからです。

実際、そのシステム的な作動性を、
よく理解して、
意識的に、物事に取り組むこととは、
日常生活の中で、
高いパフォーマンス(アウトプット)を、
発揮するのに、
大いに、役立つものでもあるからです。

また、以前には、その関連で、
ベイトソンの学習理論を参照にしつつ、
私たちの日常意識より、
あたかも、上位階層にあるかのような、
心理(意識)システムが、
働く可能性についても、
各種の事例から考えてみました。
「聖霊」の階層、あるいはメタ・プログラマー
映画『攻殻機動隊』ゴーストGhostの変性意識

ある種のフロー的、かつ覚醒的な、
意識拡張の体験過程にあっては、
私たちは、
自己の内なる領域に、
高次の働き(メタ・プログラマー)を感じ取り、
その働きによって、
より拡大された現実を体験したり、
未知なる能力を発揮するかのようである、
ということなわけです。

さて、今回は、
ドイツの作家、
ハインリヒ・フォン・クライストを、
素材にして、
そのような意識拡張の可能性や、
意識進化の姿(物語、神話)について、
少し考えてみたいと思います。

ところで、
クライストの作品は、
とても不思議な作品です。

そこにおいては、
何か得体の知れないものが、
凄まじい速度で、
通過していきます。

過度に結晶したような、
硬質な文体の向こうに、
以前見た、ロートレアモンのように、
にわかに、それとはとらえがたい、
熱狂的な強度や速度、
変性意識的な何かが、
通過していくのです。

焼き尽くすように、
通過していくのです。

そして、私たちは、
それらを読み終わった後に、
その火傷を感じつつ、
「あれは何だったのだろう」
と、思いを巡らせるわけなのです。

ところで、
クライスト本人が、
どのような方法論のうちに、
そのような作品を書いていたのか、
筆者は知らないのですが、
それらが偶然そうなったわけではなく、
(明確な方法論ではないかもしれませんが)
ある種の気づきawarenessのうちにあったのだと、
教えてくれる、素晴らしい文章を、
彼は、残しているのです。

『マリオネット芝居について』
という、或る舞踏家と、
クライストらしき話者とが、
操り人形の舞踏について、
対話するという短編がそれです。

このテーマに関して、
この一編をものしたことから考えても、
クライストが、
そのテーマの重要性について、
明確に意識していたことが、
うかがえます。
これは、
意識の進化と存在を巡る、
とても核心的なテーマでもあるのです。

その物語は、
話者が、或る卓越した舞踏家を、
大衆的な芝居小屋で、
しばしば、見かけており、
そのことで以前から、
興味を持っていたわけなのですが、
機会あって、
彼本人から、
そのことについての、
興味深い智慧の話を聞かされる、
というストーリーになっています。

ところで、
話を聞く中でわかってきたことは、
舞踏家にとって、
人形の舞踏から学ぶことが、
多々あるからである、
というわけだったのです。

人間にはない、優美さが、
そこに宿っている、
ということだったのです。

「人形は絶対に気取らない、
という点が長所なのです。
―というのも気取りというのは、
ご存知のように、たましい(vis motrix)が
どこか運動の重心以外の点にきたときに、
生じるのですからね」(種村季弘訳、河出文庫)

そして、このような気取りや自意識が、
演技において、失策となることを語ります。

「『こうした失策は』とややあって彼はつけ加えた、
『私たちが認識という樹の木の実を
味わってしまったからには、
もう避けられません。
だって楽園の門は閉ざされ、
織天使は私たちの背後に
まわってしまったじゃありませんか。
私たちは世界をぐるりと経めぐる旅に出て、
裏側から、どこかしらにまた
楽園への入口が開いてはすまいかと、
この眼でさがすほかありません。』」(前掲書)

話者は、
舞踏家の意外な見解に対して、
さまざまな疑問をぶつけていくことで、
話は進みます。

「あなたがいかにたくみに
ご自分の逆説の問題を弁じられようと、
人体機構によりは
機械製の関節人形のほうに
はるかに優美が宿りやすいだなんて、
そんなことを私に信じさせようったって
そうはまいりませんよ。
答えて彼の言うには、
その点では人間は
関節人形にまるで及びもつきません。
この領分で物質と太刀打ちできるのは
神だけかもしれません。
ここには円環的世界の両端が
噛み合う点があるのです。
私はますます驚いたが、
この奇妙な主張に対してなんと言えばよいか、
言うべきことばを知らなかった。」(前掲書)

そして、舞踏家は、聖書における、
「あの人間形成の最初の時期をご存じないお方とは、
それから先の時代の、
ましてや人類最後の時代の話は
実際のところできかねますね。」(前掲書)
と、人類の未来の姿まで、匂わすのです。

そして、
話者が、直接、実感した、
過剰な自意識により優美さを失った少年の話や、
舞踏家自身の、
フェンシングで、熊にまったく勝てなかった挿話が、
振り返られた後で、
最後に語られるのです。

「『さて、すばらしき友よ』、C.氏は言った、
『これで私の申し上げることを理解するのに
必要なものはすべてお手許にそろいました。
これでおわかりですね、
有機的世界においては、
反省意識が冥く弱くなればそれだけ、
いよいよ優美がそこに燦然と
かつ圧倒的にあらわれるのです。
―けれどもそれは、
二本の直線が一点の片側で交差すると、
それが無限のなかを通過したあと
突然また反対側にあらわれる、とか、
あるいはまた凹面鏡に映った像が
無限の彼方まで遠ざかったあとで、
突然私たちのすぐ目の前にきている、
とかいうふうにしてなのです。
このように認識が
いわば無限のなかを通過してしまうと、
またしても優美が立ちあらわれて
きかねないのです。
ですから優美は、
意識がまるでないか、
それとも無限の意識があるか、
の人体の双方に、
ということは関節人形か、
神かに、
同時にもっとも純粋に
あらわれるのです。』
『とすると』
私はいささか茫然として言った、
『私たちは無垢の状態に立ち返るためには、
もう一度、認識の樹の木の実を
食べなければならないのですね?』
『さよう』と彼は答えた、
『それが、世界史の最終章なのです』」(前掲書)


…………………………………

さて、このような、
意識の様態(進化)についてのヴィジョンが、
決して神話的なものではなく、
フロー体験や、意識の階層構造への、
検討から見て、
あるレベルで、
実現可能であるということは、
本当のところなのです。

それは、
当スペースでも、
さまざまな実践的な方法論を通して、
テーマとして、
取り扱っているのなのです。
気づきと変性意識の技法 基礎編

そして、それが、
クライストの作品の持つ、
不思議に意識拡張的な速度を、
創り出している一因でも、
あるといえるのです。

そして、
さらにはまた、
そのことは、
クライストのいう、
「裏側に開いている楽園への入口」
という風に、
考えていくことも可能なのです。


※気づきや、変性意識状態(ASC)についての、
より総合的な方法論については、拙著↓
『砂絵Ⅰ 現代的エクスタシィの技法』
をご覧下さい。

 
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【PART1 Basic】ゲシュタルト療法
ゲシュタルト療法【基礎編】
ゲシュタルト療法【実践・技法編】
ゲシュタルト療法【応用編】
「セッション(ワーク)の実際」

【PART2 Standard】
気づきと変性意識の技法 基礎編
変性意識状態(ASC)とは
「英雄の旅」とは
体験的心理療法
NLP 普及・効果・課題
禅と日本的霊性
野生と自然

【PART3 Advanced】
気づきと変性意識の技法 上級編
変性意識状態(ASC)の活用
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ロートレアモンと変性意識状態

さて、前回、
セックス・ピストルズを例にとって、
私たちにとって、可能な、
覚醒のあり様について、
考えてみました。
なぜ、セックス・ピストルズは、頭抜けて覚醒的なのか

また、以前には、
リルケが、
天使的な領域について語ることを素材に、
私たちの変性意識状態(ASC)や、
その意識拡張のあり様について、
見てみました。
リルケの怖るべき天使 〈美〉と変性意識状態

今回は、
それらに関係するテーマで、
ロートレアモン伯爵(本名イジドール・デュカス)を取り上げ、
変性意識状態(ASC)や、
私たちの意識拡張の様態、
自然発生的なシャーマニズム(夢見の技法)などについて、
考えてみたいと思います。

ところで、
ロートレアモンの作品は、
(『マルドロールの歌』『ポエジー』の二作品だけですが)
19世紀後半のフランスに、
忽然と現れ、
文学の歴史の中においても、
非常に、孤絶した、
他に類例を見ない作品となっています。

南米の領事館で働く父のもとに育った子どもが、
思春期を、フランスの寄宿舎で生活した後に、
孤独な夢想のうちに記した作品でもあるので、
社会的文脈を求めるのも、無理な話なのかもしれません。
その作品は、24歳という、彼の早い死の後、
数十年経ってから、
歴史的に発見されたものなのです。

『マルドロールの歌』は、
奇妙な作品です。
孤独と無限を感じさせる宇宙性、
奇怪で美的な暗喩(メタファー)、
夢と渇望、悪と逃走、変身と旅などを主題に、
普通の文学には見当たらない、
不思議な透過性と屈曲を持つとともに、
私たちの心の、
最も深い部分に触れて来る、
天才的な作品となっているのです。

しかし、それでいながら、
その作品が、
どこか非常に遠いところからやって来た印象、
通常の私たちの心の次元を超えた拡がりを、
感じさせるような、
神秘的な性格を有するものと、
なっているのです(※注)。

そして、そのような、
ロートレアモンの作品の謎に対して、
文芸批評的なアプローチでは、
およそ不満足な結果しか得られていない、
と感じるのは、おそらく、
筆者一人だけではないと思われるのです。

しかし、
文芸作品などをあまり読まない、
普通の感性豊かな人(特に若い人)が、
『マルドロールの歌』を読んだ場合でさえ、
強い衝撃を覚えるというのは、
文学的なゲームとは関係のないところで、
この作品が持っている、
ある特殊な性質に、
人が触れるからであると考えられるのです。

そこには、
当スペースが、
テーマとしているような、
変性意識状態(ASC)や、
意識拡張の様態などに関係する、
さまざまな興味深い秘密があると、
考えられるのです。

(※注)世の中には、そのような神秘性を、
読み取れない類いの人間もいて(たとえば、カミュなど)、
ジョルジュ・バタイユも、
その不感症について、意外なものとして、
言及したりしていますが、
字義通りにしかものを読めなかったり、
暗喩的な心理(意識)領域を理解できないということの、
構造的な理由も、
ここで取り上げるテーマと、
関係している事柄ではあるのです。


◆無意識の間近さ

彼の作品は、死後に、発見される形で、
歴史の中に姿を現しましたが、
最初期に、彼を見出した人々が、
その作品を、狂気の人の書であると感じたのは、
ある意味では、正しい直観でした。
フロイトが、登場する前の時代でした。

そして、彼の作品が、
一種、精神病圏の要素を感じさせるというのは、
アウトサイダー・アートとの共通要素からいっても、
妥当であるともいえるのです。

加工されていないような、
ナマな無意識との接触感、
高電圧的で、剥き出しの直接性の感覚は、
世のアウトサイダー・アートと、
大変近い性格を持っているのです。

ところで、
哲学者のガストン・バシュラールは、
彼の作品に見られる、動物的世界との親和性について、
特筆しました。
しかし、その本質的な間近さという点だけをいうなら、
実は、植物や鉱物の世界とも、
充分すぎるほど、近い世界を持っているのです。
以前、LSDセッションにおいて、
鉱物と同一化する人の事例を取り上げました。
『生物都市』と鉱物的な変性意識状態(ASC)

実際、
そのようなLSDセッションにおいては、
鉱物にかぎらず、
さまざまな動物や植物と同一化し、
その圧倒的で緻密な生態を、
通常ではありえない形で、体験する事例が、
数多く存在しています。
そして、それらの報告の多くは、
『マルドロールの歌』における、
アウトサイダー・アート的な手触りと、
類似した性格を、
どこかに感じさせるものでもあるです。

また、ル・クレジオは、
ロートレアモンの言葉に、
未開部族の言語との類縁性を感じ取りました。
その言葉の持つ、原初的な性格を、
指摘したわけです。

これら、アウトサイダー・アートとの近似性や、
動物植物世界との水平的な間近さ、
原初的な世界との類縁性という特性は、
そのまま、当スペースで考える、
シャーマニズム的な要素として、とらえることも、
可能な要素なのであります。

そして、
そのように考えてみると、
ロートレアモンが活動する領域を、
それとなく、囲っていくことも、
できてくるわけなのです。

そうなってくると、
そもそも、私たちが、
ロートレアモンを読む時に真っ先に感じる、
奇妙な眩暈の感覚や、
意識の変容状態が、
何に由来するのかということも、
少し見えて来るわけなのです。

彼が、シャーマニズムと、
変性意識状態(ASC)の土地である、
南米で育ったというのも、
意味深い偶然となって来るわけです。


◆変異した時空の意識

さて、以前、
私たちが、
高度に集中した際に起こる、
特異な意識状態である、
フロー体験について、
取り上げました。
フロー体験とフロー状態について

「…これらの条件が存在する時、
つまり目標が明確で、
迅速なフィートバックがあり、
そしてスキル〔技能〕と
チャレンジ〔挑戦〕のバランスが取れた
ぎりぎりのところで活動している時、
われわれの意識は変わり始める。
そこでは、
集中が焦点を結び、
散漫さは消滅し、
時の経過と自我の感覚を失う。
その代わり、
われわれは行動を
コントロールできているという感覚を得、
世界に全面的に一体化していると感じる。
われわれは、
この体験の特別な状態を
『フロー』と呼ぶことにした」

「目標が明確で、
フィートバックが適切で、
チャレンジとスキルのバランスがとれている時、
注意力は統制されていて、
十分に使われている。
心理的エネルギーに対する
全体的な要求によって、
フローにある人は完全に集中している。
意識には、
考えや不適切な感情をあちこちに散らす余裕はない。
自意識は消失するが、
いつもより自分が強くなったように感じる。
時間の感覚はゆがみ、
何時間もがたった一分に感じられる。
人の全存在が肉体と精神のすべての機能に伸ばし広げられる。
することはなんでも、
それ自体のためにする価値があるようになる。
生きていることはそれ自体を正当化するものになる。
肉体的、心理的エネルギーの調和した集中の中で、
人生はついに非の打ち所のないものになる。」
M.チクセントミハイ『フロー体験入門』大森弘監訳(世界思想社)

この状態においては、
私たちの意識は、
一種の、拡張された状態に、
入っていきます。
そこにおいては、
時空の感覚に変化が起こって来ます。

時空の感覚は流動化し、
時間は速くなったり、遅くなったり、
空間は伸びたり、縮んだりします。
知覚は澄みきり、
ミクロ的な、微小な対象にさえ、
完璧で透徹した注意力が、
行き届くように感じられます。

たとえば、
山で遭難事故に陥った、或る作家は、
その危機の中で、
フロー的な意識に移行した時の状態を、
「そのときの僕なら
三〇歩離れたところから、
松の葉で蚊の目を射抜くことさえ
絶対できたはずであると、
今も確信している」
(シュルタイス『極限への旅』近藤純夫訳、日本教文社)
と表現しています。

ところで、
モーリス・ブランショは、
ロートレアモンの作品の持つ、
その明晰さについて、
言及しました。

しかしながら、
ロートレアモンの持つ明晰さというのは、
単なる論理的に辻褄を合せる明晰性だけではなく、
その背後に、
過度に透徹した意識状態、
フロー的な変性意識状態(ASC)が、
存在していると考えてよいのです。

それが、私たちが、
ロートレアモンを読むときに、

まずは引き込まれていく、
奇妙に歪んだ時空感覚、

夢と覚醒感がないまぜなった、
透視力的な性質の由来に、
なっていると思われるのです。

実際のところ、
フロー体験の研究においては、
創作的活動の中で、
芸術家が没入していく、
さまざまなフロー体験、
意識状態についての事例が、
各種、集められています。

たとえば、カフカなども、
創作している最中に、
シュタイナーのいう、
透視力的な状態に入るように思われると、
彼本人に話したと、
日記に、記しています。

そのように、
創作における、
フロー体験自体は、
多くの人に見られる事例であり、
決して稀なことではないのです。

ただ、それが、
『マルドロールの歌』におけるように、
作品の特別な性格として、
刻印されるということは、
稀有な事例であるのです。


◆天使的狂熱、または拡張された意識

さて、
このようにして見ると、
ロートレアモンが、
偶然的な資質であれ、
多様な意識の可動域を持ち、
さまざまな変性意識状態の諸相を、
流動的に渡っていった痕跡が、
見えて来るのです。

原初的な動植物世界から、
人間世界までの諸領域を、
また、無意識的な深層から、
日常意識までの諸領域を、
流動化した意識の可動域として、
シャーマン的に、旅している構造が、
見えて来るのです。

それが、彼の異様なまでの自由さ、
融通無碍の要因のひとつであると、
考えることもできるのです。

シャーマニズムの基本的な構造とは、
シャーマンが、脱魂(エクスタシィ)して、
魂を異界に飛ばして、
そこから、何か(情報、力)を得て、
こちらに戻って来るという、
往還の形式にあるからです。

ロートレアモンも、
偶然的・変形的なタイプであれ、
アーバン・シャーマニズムとして、
その想像力的な体験領域を通して、
変性意識の諸相を渡り、
その旅程を、作品に、
刻み込んだのだといえるでしょう。
それが、
不思議な奥行きを持つ、
文学では見たこともない、
宇宙的な空間、天使的な空間を、
生んだともいえるのです。

また、一方で、
ロートレアモン本人が、
自分の作品の持つ、天才的な性質を
理解していなかったという点も、
重要な事柄です。

彼の旅程は、
意図的に行なわれたわけではなく、
想像力的な空間を経由することで、
図らずも、変性意識状態の中に入りこみ、
前人未踏の世界(空間・状態)に行き、
その痕跡を閉じ込めることになった、
という次第なのです。

その後、彼が、
『マルドロールの歌』への否定や反動として、
『ポエジー』を書いたことは、
重要な事柄です。

これは、彼が、
後の手紙で述べているような、
善悪の扱い方だけの問題ではなく、
強度な変性意識による異界的体験への、
反動(怖れ)と考える方が、
自然なことでもあるのです。

このような振る舞いは、
精神のバランスをとるためにも、
ある面、必要なことでもあり、
事例(行動、症状)としては、
とてもありがちな事柄なのです。


◆夢見の技法

さて、以上、
話を分かりやすくするために、
いささか細部を誇張(増幅)しましたが、
ロートレアモンの作品を素材に、
創作における、
意識拡張の可能性や様態について、
考えてみました。

ここから、
私たちが学び取れることは、
何でしょうか。

拙著『砂絵Ⅰ: 現代的エクスタシィの技法』では、
「夢見の技法」と題して、
私たちが、ある種の変性意識的な、
意識の均衡状態を利用して、
創造的なアウトプットや、
意識拡張を行なう方法論について、
検討を行ないました。
内容紹介『砂絵Ⅰ: 現代的エクスタシィの技法』

当スペースでは、
ロートレアモンの作品は、
確かに特別なものではありますが、
そこに見られる、
体験領域や、探求方法は、
私たちにって、
閉ざされたものではないと、
考えているわけです。

私たちは、皆、
彼のように、
未知なる夢見の探求を行なうことが、
できると考えているわけなのです。

そのような意味合いにおいて、
彼から霊感を受け、
自分たちの守護神の一人と見なした、
超現実主義者(シュルレアリスト)たちの、
万人に開かれた創造(創作)、
という考え方は、
(その具体的な方法論には、
いささか疑問があるにせよ)
正しい直観であったと、
思われるのです。

ロートレアモンの作品には、
そのようなことを、
人に促す(信じさせる)ような、
創造性の嵐があるのです。


※夢見や創造性(創作)、変性意識状態(ASC)についての、
より総合的な方法論については、拙著↓
『砂絵Ⅰ 現代的エクスタシィの技法』
をご覧下さい。

 
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【PART1 Basic】ゲシュタルト療法
ゲシュタルト療法【基礎編】
ゲシュタルト療法【実践・技法編】
ゲシュタルト療法【応用編】
「セッション(ワーク)の実際」

【PART2 Standard】
気づきと変性意識の技法 基礎編
変性意識状態(ASC)とは
「英雄の旅」とは
体験的心理療法
NLP 普及・効果・課題
禅と日本的霊性
野生と自然

【PART3 Advanced】
気づきと変性意識の技法 上級編
変性意識状態(ASC)の活用
願望と創造性の技法
その他のエッセイ

【PART4 当スペース関係】
フリー・ゲシュタルトについて
セッションで得られる効果
なぜ、ゲシュタルトなのか
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なぜ、セックス・ピストルズは、頭抜けて覚醒的なのか

◆パンク・ロックという事態

さて、
セックス・ピストルズ Sex Pistols といえば、
70年代の後半、イギリスに現れた、
ロック・バンドであり、
パンク・ロックという、
音楽ムーブメントを、
創り出したバンドである、
ということになっています。

しかし、
「パンク・ロック」とは、
後づけ的に見出されたコンセプトであり、
本人たちも意図して、
それを行なったわけではなく、
さまざまな偶然的な要素の結果、
そのようなムーブメントになったということでしか、
ないのです。
(ここでは、イギリスにおける、
その現象に、焦点を当てていきます)

しかしながら、
確かに、
セックス・ピストルズというバンドの、
音楽的構造の中に、
パンク・ロックの本質的要素があったことは、
事実なのです。

そして、
これらの歴史や現象を、
仔細に検討することは、
私たちの表現や創造性を考える上で、
とても、ヒントになることが、
多いのです。


◆見出された「方法論としてのロック」

「パンク・ロック」とは、
何であったのか。
また、何であるのか。

教科書的にいえば、
当時の音楽産業という制度(システム)の中で、
飼いならされてしまった(退屈になった)ロックの、
初期衝動を回復し、
それをストレートに社会に表現した音楽、
という風になっています。

それでは、
ロックの初期衝動とは何か、
それは、
吐き出すような表現欲求である、
とされています。

では、さらに、
その本質が、何であるかと、
もう一歩進めると、
(筆者の考えでは)
それは、
自由を求めて、NOという力であり、
物事(社会であれ、何であれ)を、
否定する力である、
ということです。
より大きな自由を求めて、
隷属を切り捨てる力である、
ともいえます。

昔、ロックが、
反抗的な不良の音楽であったというのは、
そのような意味合いからです。

そして、
パンク・ロックとは、
初期衝動の回復を指向した、
意識的なロック、
「方法論としてのロック」
であるというわけなのです。

ロックが進化の果てに、
再帰的に、
自己のアイデンティティを、
再び見出した方法論が、
パンク・ロックであり、
特に、その後に続いた、
ニューウェーブなわけなのです。

ベイトソンの学習理論的に言えば、
それまでのロックは、
一次学習的に、
ただ「ロックする」
という形の音楽でした。

パンク・ロック/ニューウェーブは、
二次学習が進んで、
「ロックする」ことをロックする。
という音楽になったわけです。
自意識に目覚めた、
方法論的なロックなわけです。

当時の彼らの言葉、
「ロックは死んだ」
「ロックでなければなんでもいい」
でさえ、実は、
その文脈のうちにあったことなのです。

そして、
これ以後のロック・ミュージックの風景の中で、
このようなメタ的な批評性を、
どこかに持っていないと、
鈍感さから逃れられないという、
事態にもなっていったのです。

どんな形であれ、
普通に「ロックすること」の中に、
一抹の欺瞞が入り込むことに、
なったわけです。
しかし、このような再帰性は、
人間社会の全般にいえることでも、
あるのです。
それが、歴史の進展の中で、
ロックにも起こったというだけのことなのです。

後の、90年代初頭にあったロック、
ソニック・ユースやニルヴァーナ、
そして、オアシスでさえ、
そのような批評性の中で、
新たに、ロック的な衝動を活かす方法を、
探っていく中で、
あのようなスタイルを見出していったわけなのです。


◆セックス・ピストルズという集合体(システム)

さて、
そのようなパンク・ロックの
起爆点となったのが、
セックス・ピストルズという、
ある一つのバンドでした。

ところで、パンク・ロックを、
ただの音圧の烈しい過激なロックだと思っている人が、
ピストルズを一聴すると、
聴きやすい普通のロックなので、
意外な感じを受けるものです。

しかし、
音楽の表面的な外形だけではなく、
そこに、感覚的に刻まれている、
強度な内容を理解する人は、
そこにはらまれている壊乱的な要素(精神性)を
見出していくことにもなるわけです。
それも、並外れた、天才的な表現力で、
それが含まれていることに、
気づいていくことにもなるのです。

その点が、
彼らが、当時の歴史を変え、
その後の時代や、現在でさえ、
多くの人々を、
駆動し続けている力でも、
あるわけなのです。

ところで、
セックス・ピストルズといっても、
複数の人間から成る集合体であり、
また、重要なバンド外の関係者が多数おり、
かなり偶然的な要素によって、
ピストルズとして、
成立したものといえます。

そのことが、
これらのシステムを考える上で、
余計に、興味深い事例となっているのです。

壊乱的なバンドというコンセプトは、
マネージャーのマルコム・マクラーレンが、
メンバー集めの段階から、
すでに、企画していたものです。
音楽的な面では、
名曲を書いた、グレン・マトロックが、
その役を引き受けたといえるでしょう。
プロデュースには、
ビートルズのレコーディングも手伝ったことのある、
クリス・トーマスがいました。

そして、ヴォーカルの、
ジョン・ライドン(ジョニー・ロットン)は、
音楽的な素養が、特にあるわけでは、
なかったのですが、
稀代のトリックスターであり、
猿回しの猿のように、
偶然、フロントに立たされたわけですが、
結果的に、
舞台を乗っ取った猿のように、
自在な動きをはじめ、
当初の予想を超えて、
その劇空間を、世間や歴史にひろげていくことにも、
なったのです。

さて、以前、ビートルズにおける、
才能の相補性について触れた際に、
作品の内における、
音楽的な要素と、精神性な要素という、
その両極の属性に触れました。
才能における相補性 NLPとビートルズ

セックス・ピストルズにおいても、
その後のソロ作品を見ると、
その役割分担と、
その性質の違いがよく分かります。

その後のグレン・マトロックは、
確かに、作曲のセンスを、
うかがわせるものがありますが、
一線を超えるような過剰な要素がなく、
どちらかというと、凡庸な作品にとどまっています。
そして、いつしか、表舞台からは、
姿を消したのです。

一方、ジョン・ライドンの、
パブリック・イメージ・リミテッド PIL は、
音楽的には、楽しめる面は少ないですが、
その初期作品においては、
ピストルがもっていた覚醒感が、
確かに、一部存在しているのです。
そして、それが、充分ではないという点が、
色々と考えさせる興味深い論点でもあるわけです。

さて、そのような極性の才能が、
ひとつの作品の中で激突することで、
作品は、その濃密な強度を高めていきます。

そして、特に、
新しい未知の精神性が、
作品の核となる場合には、
芸術的な音楽的造形とは関係ないところで、
あるメンバーの精神性(存在力・息吹)が、
特に、作品の細部に浸透して、
決定的なアレンジ要素となります。
たとえば、
ドアーズにおけるジム・モリスンの存在は、
そのような(意識拡張的な)要素であったわけです。

ピストルズにおける、
ジョン・ライドンの存在も、
そのようなものだったわけです。


◆否定する力と自己刷新 ピストルズの覚醒性

さて、前段に、
ロックの本質的な力とは、
より自由を求めて、
隷属を切り捨てる力であると、
書きました。
それが並外れて実現できている音楽は、
人を感電させ、覚醒させます。

ところで、
真に徹底的な、否定する力は、
まわりの物事だけではなく、
それらによって作られた既存の自己自身にも、
差し向けられていきます。
否定の力は、
周りを否定すると同時に、
既存の自己をも否定し、
たえず未知のものに向かって、
自己を投げ出していくかのような局面を、
創り出すことにもなっていくのです。
それは、
自己超出的な側面を、
持つことにもなるのです。

それは、
スリリングである同時に、
危うい状態です。

そして、
セックス・ピストルズの音楽には、
確かに、そのような、
ギリギリの限界的要素があるのです。

疾駆する速度感で、
ただ一人、先陣を切って、
(他のバンドは追従しただけです)
未知に直面し、
未知を切り拓いていくような、
過熱するような、
ヒリヒリした心象風景が、
その作品には刻まれているのです。

それが、彼らの作品が、
今でも、頭抜けて覚醒的な感覚を、
伝えて来る点なわけなのです。

彼らが使った、
アナーキーという言葉に、
政治的な意味合いだけではない、
生の存在論的なニュアンスを、
私たちが感じ取るのは、
そのような点にあると思われるのです。

そして、
バンドというシステムとして、
そのような、
自己否定的・自己刷新的な要素をはらんだ過剰性を、
オートポイエーシス的に、
再生産しつづけることは、
非常に、困難なことでもあります。
それを、果てまで行ったのが、
セックス・ピストルズだったといえるでしょう。
それが、短命であったというのは、
ある意味、論理的必然であるともいえるのです。


◆怒りとのコンタクト(接触)

さて、ところで、
ゲシュタルト療法においては、
さまざまな感情表現を重視しますが、
怒りの表現についても、
これを、とても重視します。

キレるのではなく、
意識とコンタクト(接触)できていて、
表現として成立している怒りは、
健全な生のエネルギーです。
生の正しい攻撃性であり、
積極性です。

抑圧され、
意識から解離した怒りが、
暴力となるのです。
このことについては、
以前にも触れました。
ザ・ポップ・グループの教え 怒り・テロ・絶望

ところで、
セックス・ピストルの音楽は、
怒りの表現に満ち満ちていますが、
それがジメジメと鬱屈するのではなく、
スカッとした爽快な表現になっているという点は、
特筆すべき点です。
これほど、解放された明るい怒りも、
他の物事には、見出せないでしょう。

方法論としての怒りに、
なっているのです。
これも、ジョン・ライドンの、
トリックスター的な性格の所以でしょう。

それは、意識して、
怒りが怒られているのです。
そのような、
気づきを持った怒りが、
重要なことなのです。
ここでも、ある種の、
感情の再帰性や、
そこからの自由が、
実現されているわけです。


◆覚醒のための方法論

さて、以上、
セックス・ピストルズをネタに、
色々と考えてみました。

実際のところ、
セックス・ピストルズの事例は、
パンク・ロックやロックという、
狭い領域の問題だけで、
済ましてしまうには、
大変、惜しい素材となっています。

そこには、
私たちが、たえず、
目覚め続けているためには、
何が必要なのかについての、
興味深いヒントが、
多く隠されているのです。



 


【PART1 Basic】ゲシュタルト療法
ゲシュタルト療法【基礎編】
ゲシュタルト療法【実践・技法編】
ゲシュタルト療法【応用編】
「セッション(ワーク)の実際」

【PART2 Standard】
気づきと変性意識の技法 基礎編
変性意識状態(ASC)とは
「英雄の旅」とは
体験的心理療法
NLP 普及・効果・課題
禅と日本的霊性
野生と自然

【PART3 Advanced】
気づきと変性意識の技法 上級編
変性意識状態(ASC)の活用
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リルケの怖るべき天使 〈美〉と変性意識状態


◆天使・チベット仏教・ベイトソン

さて、以前、
映画『攻殻機動隊』に出てくる、
「さらなる上部構造にシフトする」という、
言葉をめぐって、
グレゴリー・ベイトソンの、
学習理論
などを参照して、
さまざまにイメージを拡げて、
考察を行なってみました。
映画『攻殻機動隊』ゴーストGhostの変性意識
「聖霊」の階層、あるいはメタ・プログラマー

そして、その中で、
私たちの日常意識が、
「上部構造にシフトする」かのような、
状態を仮定して、
その中で起こるかもしれない、
システム的な情報の流れ(整列)や、
体験内容などについても、
考えてみました。

また、それらが、
下位構造としての、
私たちの日常意識の情報を、
書き換えてしまう可能性についても、
考えてみました。
(それが癒しや変容の体験になったりする、
ということです)

今回は、
その部分について、
もう少し見ていきたいと思います。

特に、普段の日常生活の中で、
そのような上位階層のシステムを予感させる、
何かを垣間見たり、
また、その影響を受けたりすることがあるのだろうか、
というような事柄についてです。

そのような機会を考えてみると、
それらは、多かれ少なかれ、
変性意識状態(ASC)の要素を持っているものですが、
散発的には、
存在していると思われるのです。


◆〈美〉的体験の通路

例えば、
ある種の美的な体験などが、
それに当たります。

しかしながら、
この場合の美とは、
単なる表面的な綺麗さではなく、
心と体験の奥底につき刺さり、
そこで振動を拡大させていくような種類の、
深遠な〈美〉的体験です。

そのような〈美〉的体験は、
私たちが通常、
あくせく働いている日常的現実に、
回収され尽くさない、
〈何か〉の要素があります。

それらの〈美〉は、
日常生活とは、違う次元の、
普遍的な秩序を、
感じさせたりもするのです。

変性意識状態(ASC)的で、
奥行きと拡がりをもった、
宇宙的な秩序を、
予感させるものでもあるのです。

それらは、
知覚力の拡大感、
恍惚感、
覚醒感、
本物の実在感、
といった、
あたかも「より上位の階層から」の、
情報の侵入を、
印象づけるようなものでもあるのです。

たとえば、
壮大な自然の〈美〉などは、
そのようなことを感じさせる、
普遍的な事例のひとつです。
山脈のつらなる、
雄大な峰々の風景や、
水平線に沈むこむ、
巨大な夕日の風景などは、
永遠にも似た、
その圧倒的な〈美〉の情報を、
処理しきれないために、
私たちを胸苦しくさせます。

それらは、
巨大な自然界の、
高次の階層秩序による、
莫大な情報量が、  
私たちの日常意識の許容量では、
処理しきれないほどに、
大量にやって来るためであると、
論理づけることもできるのです。


◆怖るべき天使と、バルドゥ(中有)の如来

さて、
世界の歴史的な事例を多く見ていくと、
〈美〉に関する、そのような事態が、
日常意識を圧倒するような形で、
個人を襲う可能性も想定されるのです。

たとえば、
ドイツの詩人リルケは、
その『ドゥイノの悲歌』の冒頭近くで、
歌っています。

「よし天使の列序につらなるひとりが
不意にわたしを抱きしめることがあろうとも、
わたしはそのより烈しい存在に焼かれてほろびるであろう。
なぜなら美は怖るべきものの始めにほかならぬのだから」
「すべての天使はおろそしい」(手塚富雄訳)」と。

彼は、ドゥイノの海岸での、
或る体験によって、
この詩を書きはじめたのです。

そして、彼は、
自作の翻訳者フレヴィチに宛てた、
有名な手紙の中で、この詩について、
大変興味深いことを
述べているのです。

「悲歌においては、
生の肯定と死の肯定とが
一つのものとなって表示されております。
その一方のもののみを
他方のものなしに認めることは、
我々がいま此処でそれを明らかにするように、
すべての無限なるものを
遂に閉め出してしまうような限界を
設けることであります。
死は、我々の方を向いておらず、
またそれを我々が照らしておらぬ
生の一面であります。
かかる二つの区切られていない
領域の中に住まっていて、
その両方のものから
限りなく養われている我々の実存を、
我々はもっとはっきりと
認識するように努力しなければなりません。
……人生の本当の姿は
その二つの領域に相亙っており、
又、もっと大きく循環する血は
その両方を流れているのです。
そこには、
こちら側もなければ、あちら側もない。
ただ、その中に『天使たち』
―我々を凌駕するものたち―の住まっている、
大きな統一があるばかりなのです」
(堀辰雄訳)

ここで語られている体験領域が、
単なる内部表象のひとつだとしても、
日常意識のものではない(それでは処理しきれない)、
ある種の圧倒的な変性意識的な世界だとは、
類推できるでしょう。

それは、
生と死をひとつと見なすような、
(当然、私たちの日常意識は、
それらを別々に見なしているわけですが)
無限なる体験領域なのです。
また、論理的に考えると、
その体験領域は、
私たちの日常意識を、
その下位の一部とするような、
上位階層の世界だと
類推することができるのです。
 (天使云々をいうのですから)

そして、また、
このような階層(体験領域)の侵入、
といった「怖るべき」圧倒的な事態が、
リルケに限らず、
世界の諸々の変性意識の事例を見ても、
さまざまに起こっていることが、
分かるのです。

例えば、以前、
『チベットの死者の書』について、
その心理学的な見方について、
検討しました。

心理学的に見た「チベットの死者の書」


そこでは、
移り変わっていく死後の空間、
各バルドゥ(中有)において、
必ず二つのタイプの如来たちが、
姿を現して来ることが、
描かれています。

ひとつは、
怖れを感じさせるような、
眩しいばかりの如来と、
もうひとつは、
より光量の少ない、
親しみを感じさせる如来です。

そして、
『チベットの死者の書』のメッセージは、
前者の怖るべき如来こそを、
自己の本性と見なせ、
というものです。

そうすれば、
輪廻から解脱できるだろう、
というものです。
そして、
後者の親しみを感じさせる如来に、
近づいていくと、
輪廻の中に、
再生してしまうというわけなのです。

この現象なども、
学習の階層構造に照らして考えると、
納得的に理解することができます。

怖るべき如来は、
上位階層からの過剰な情報であるため、
私たちには、怖るべきものに、
感じられてしまうのですが、
その「上部構造にシフトする」ことで、
無我と解脱が得られるというわけです。

一方、
親しみを感じさせる如来は、
慣れ親しんだ二次学習であるがゆえに、
自我と再生の道に、
進んでしまうというわけなのです。

つまり、
どちらの如来に、
コンタクト(接触)するかで、
上部階層へシフトできるか、
それとも、下位階層に留まる(ダブルバインド)かの、
選択になっているというわけです。


さて、ところで、
筆者自身、
拙著『砂絵Ⅰ: 現代的エクスタシィの技法』の中で、
さまざまな変性意識状態(ASC)の、
体験事例について記しましたが、
それらの中でも強度なタイプのものは、
どこかに畏怖の念を呼び起こすような、
光彩をもっていたのでした。
(また、実際、困難な体験でもありました)
ひょっとすると、
それらなども、どこかに、
上位階層からの情報という要素を、
持っていたからなのかもしれません。


※気づきや、変性意識状態(ASC)についての、
より総合的な方法論については、拙著↓
『砂絵Ⅰ 現代的エクスタシィの技法』
をご覧下さい。


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【PART1 Basic】ゲシュタルト療法
ゲシュタルト療法【基礎編】
ゲシュタルト療法【実践・技法編】
ゲシュタルト療法【応用編】
「セッション(ワーク)の実際」

【PART2 Standard】
気づきと変性意識の技法 基礎編
変性意識状態(ASC)とは
「英雄の旅」とは
体験的心理療法
NLP 普及・効果・課題
禅と日本的霊性
野生と自然

【PART3 Advanced】
気づきと変性意識の技法 上級編
変性意識状態(ASC)の活用
願望と創造性の技法
その他のエッセイ

【PART4 当スペース関係】
フリー・ゲシュタルトについて
セッションで得られる効果
なぜ、ゲシュタルトなのか
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投影された夢の創造的活用 サイケデリック・ビートルズ・エクササイズ

◆夢の力を取り出す

さて、前回、
創造と夢見の技法ということで、
目的とするアウトプットに対して、
心身の内容(感情・感覚)を、投影することにより、
私たちの奥底にある創造過程(夢の力)が、
活発化して来る事態について、
取り上げました。
→「創造と夢見の技法 NLP・ゲシュタルト・夢見 その2

この状態を、
感覚的に理解し、意識的なスキルとするには、
逆パターンの事例から、
体感・類推するのが分かりやすいと思われます。

つまり、私たちが、
アート(音楽、映画、物語、絵画)等の、
創作物に触れた際に、
自分の内側に惹き起こされる、
感情や衝動、感覚的なイメージについて、
意識的になることです。

私たちが、なぜ、
赤の他人の作った創作物に、
強く惹かれ、
過度な思い入れを持つのかと言えば、
それは、心理学的には、
「投影」によるものです。

自分が持っているが、
普段は解離している、
大切な心理的な因子を、
その対象物に見出して、
強く惹かれるというわけです。

「見出す」といっても、
実際に、そこに、
在るわけでもないものを、
勝手に、そこに、
見出す(映し出す)だけの話です。
恋愛と同じく、
「勝手な想い」です。

また、しかし、
そうはいっても、
或る創作物が、
世の一定量の人々の、
投影の受け皿として働くには、
それなりの受け皿の要件(因子)があります。
最大公約数的な要素を、
持っていなくてはならないのです。
(これも、恋愛の場合と同じです)

それは、
創作物の、テーマの普遍性や、
そのジャンルの美的形式における、
適応性と新奇性のバランスなど、
さまざまな要素が考えられます。
このこと自体は、大変、
興味深いテーマではありますが、
別の機会に譲りましょう。

ところで、さて、さきに、
他人の創作物に投影される、
「勝手な想い」について触れました。
実は、
この「勝手な想い」の深い部分に、
棲息しているのが、
私たちの夢の力なのです。
(この「夢」の内実については、
拙著『砂絵Ⅰ: 現代的エクスタシィの技法』を、
ご覧下さい)

そして、
当スペースのアプローチでは、
私たちは、
他人の創作物に投影した想いから、
自分の夢の力を取り出さなければ、
ならないのです。

そうでないと、
「自分自身の夢の力」を展開して、
自分自身の人生を、
創造的に生きていていくことが、
できないからです。
他人の表象世界の中に、
閉じ込められて、
隷属的(不自由)になってしまうからです。

「勝手な想い」を、
自分の意識と、
つなげてあげる必要があるのです。
そのことで、
私たちの中に、
エネルギーの増幅が生まれ、
強い動機づけが生まれるのです。

そして、その際には、
狩人が、
狩った動物の皮や肉を、
余計な傷つけを避けて、
綺麗に剥ぎ取るように、
私たちも、
他人の創作物から、
自分の夢の力を、
綺麗に剥ぎ取り、
切り分けないといけないのです。


◆エクササイズ

そのためには、
自分の「体験」について、
切り分けるかのように、
書き出し、
アウトプットしていくことが、
必要です。
これが、
エクササイズです。

批評のように、
その作品について書くのではなく、
「自分は、こう感じた」
「自分の中で生じたイメージはこうだ」と、
自分の体験として、
「生きた何物か」を書き取り、
アウトプットしていくのです。

言葉は、制限が多いので、
絵や落書きなどの方が、
やりやすいでしょう。
とにかく、自由に、
書きなぐっていくのです。
色や線を置いてみるのです。

そして、その感覚を、
〈塊〉〈イメージ〉として、
外在化させていくのです。
自分自身の「夢の力」の要素として、
対象化していくのです。

そして、
心に響くものや、
惹きつけるものに対して、
数多く、そのような作業(エクササイズ)をしていくと、
段々と、自分の夢の力も、
〈実体性〉を獲得していきます。

そして、
そのように、外在化された、
自分の夢の力というものは、
大きな現実的なパワーをもって、   
人生を牽引することにもなっていくのです。
(それらを日々、
見返すことを、おすすめします)

そのため、
「勝手な想い」にこだわって
探求と追跡をすることは、
より核心的で、充実した、
夢の力の獲得に、
最終的に、
私たちを導くことにもなるのです。

それは、後から、
人生を振り返ってみた場合、
明瞭な線として、
浮かび上がって来る類いの事柄なのです。


◆サイケデリック・ビートルズの恩寵

さて、当スペースが、
変性意識状態(ASC)や、
人間の能力・意識の拡張といった、
テーマに焦点化するきっかけも、
元はと言えば、
そのような投影によって引き起こされた、
夢の力の活性化にあったのです。

ビートルズ Beatles といえば、
1960年代のポップ・ミュージックを一新し、
現在のポップ・ミュージックの祖形を創ったバンドですが、
カウンター・カルチャーの思潮と、
同時代として、同期したこともあり、
その中期の音楽は、
いわゆるサイケデリック・ロックでした。

筆者自身が、それを知ったのは、
随分と後の時代であり、
「サイケデリック Psychedelic (意識拡張的)」
という言葉さえ、
周りの誰も、説明できないような時代でした。

しかしながら、中学生の筆者は、
(何の経験値も、環境も持たないにも関わらず)
サイケデリック・ビートルズの背後にある、
〈何か〉を、心理的投影を通して、
嗅ぎつけたのでした。

それは、それまで、
人生にまったく想像していなかったような、
途方もなく眩い、
輝く生の状態(姿)でした。

ほとんど子どもであった筆者の、
日常意識の背後に、
どんな夢の力が、
鉱物的な変性意識状態(ASC)があって、
サイケデリック・ビートルズの 電撃的表象によって、
活性化し、
閃光的なイメージを成したのであろうかと、
少し不思議な気もします。

しかし、その後、
「勝手な想い」や、
その幻想的なイメージにこだわり、
さまざまな追求をしていくことで、
結果的に、
眩い変性意識状態(ASC)を数多く体験し
「サイケデリック」な実在を、
まざまざと理解することにもなったのでした。

そして、今、
その並外れた光量の、
豊穣で創造的な世界を得るための、
具体的な方法論を、
他の人々とシェアできるという僥倖を、
得ているわけなのです。

それは、元はと言えば、
サイケデリック・ビートルズが持っていた、
何らかの因子に、
子どもの筆者が、夢の力を投影し、
物事に目覚めたことがきっかけなのでした。
その不思議な共振によるものだったのです。

そして、これは、
見聞した限り、
筆者一人に起きたことではなく、
多くの人々に起こったことでもあったのです。
そして、
そのような創作物を創れるということは、
実に素晴らしいことだと思うのです。


◆「自分の」夢の力を生きる

さて、
自分の夢の力を生きることは、
人生に、眩い彩りと動機づけを、
もたらすものです。

ところで、先進国の中で、
日本人の「幸福度」が大変低い調査結果については、
以前よりさまざまな指摘がありました。

その要因のひとつに、
日本人が、「他人の(価値観による)人生」を、
生きてしまっているということが、
挙げられます。

もともと、横並び社会であり、
他人の目や、他人の承認に、
重きをおく社会ではありますが、
他人に主権を与えてしまうような生き方は、
人を無力化させるものです。

それは、
自分の人生を、
自分のコントロールの外へ、
置くことだからです。
自分から、
選択と自由を奪うものだからです。

自分で、自分の人生を、
コントロールできている時、
人は、充実した人生を、
生きているということができるのです。

パールズの、
有名な「ゲシュタルトの祈り」は、
そのことを、ぶっきらぼうなタッチで、
告げています。

「私は私のことをやり、
あなたはあなたのことをやる。
私は、あなたの期待に応えるために、
この世界にいるのではない。
そしてあなたも、私の期待に応えるために、
この世界にいるのではない。
あなたはあなた、私は私。
もし私たちが出会えるとするならば、
それは素晴らしいことだ。
もしそうでないならば、
それは、いたしかたないことだ」

この言葉を引き受ける時、
私たちは、
より健全な現実の息吹に、
触れられていると言えるでしょう。

その上で、
自分の心の底から湧いて来る、
自分の夢の力を、
生きていくことができるのです。
それは、使命にも似た、
宇宙の深い内実に根ざした、
人生となっていくのです。


さて、今回は、
他人の創作物の中に、
投影を通して現れて来る、
夢の力について、
取り上げてみました。

自分の好きな物を取り上げて、
その夢の力を取り出すエクササイズを、
ぜひとも、
実践してみていただければと思います。
そのことからだけでも、
人生というものは、
確実に変わっていくものだからです。


※気づきや夢見、変性意識状態(ASC)についての、
より総合的な方法論については、拙著↓
『砂絵Ⅰ 現代的エクスタシィの技法』
をご覧下さい。





【PART1 Basic】ゲシュタルト療法

創造と夢見の技法 NLP・ゲシュタルト・夢見 その2

別に、
「NLP(神経言語プログラミング)・ゲシュタルト・夢見」と題して、
これらの各技法が扱う、
心の領域が、地続きを成して、
つながっている様子を見ました。

今回、ここでは、広く、
人生で結果(アウトカム、アウトプット)を生み出す、
創造と具現化の技法について、
考えてみたいと思います。


◆夢の創造過程と身体感覚

さて、
拙著『砂絵Ⅰ: 現代的エクスタシィの技法』の、
「夢見の技法」の中では、
私たちを貫く創造的な夢の力を
どうやって利用すればよいかについて、
さまざまに検討しました。

そして、その際に、
メルロ=ポンティの
「画家は、
その身体を世界に貸すことによって、
世界を絵に変える」
『眼と精神』木田元他訳(みすず書房)
という言葉を引いて、
私たちが、
心身を、世界に投影して、
物事を、暗黙知的に把握していく事態について、
見ました。

そして、この、
対象物(目的)と、投影した身体が、
内的につながっていくという情報回路(通路)の中で、
強い夢(無意識の創造性)の力も、
引き出されて来ることについて、
見ました。

そして、
その夢の力を組織化して、
強度なアウトプット(成果物)として、
外在化・現実化していく方法について、
検討しました。
   
さて、ところで、
このような夢の力を、
活かしていく方法論というものは、
人生上、生活上の願望を、
具現化する中においても、
決定的な重要な事柄でもあるのです。

というのも、
普段においても(また正念場においても)、
私たちを真に駆動する力(渇望)とは、
夢の創造的過程の沸騰に、
よるものだからです。

そのため、
人生上の、具現化したい目的を持っていて、
それを、「絶対に達成したい」という場合には、
自分の身体感覚を、
センサー(検知器)のように使ってみて、
その目的内容を精査してみると良いのです。

その目的の姿(像)を、
身体的によく感じてみて、
(そこに心身を投影してみて)
その姿(像)と、自分の心の奥底との間に、
夢の力が流れているかどうかを、
確かめていくのです。

その目的の姿と、
夢の力の定かならぬ誘因とが、
強く惹きあうような事態を、
はっきりとした〈実在〉として、
エネルギー的に感じ取れるのであれば、
それは目的の方向性としては、
間違っていないということなのです。

もし、どこかに違和感や、
内的な不十分さを感じるのであれば、
その目的内容に、
どこかにおかしなところが、
あるということです。

その場合は、
諸々を再検討しないといけません。


◆組織化・焦点化して、身体的につかむ

さて、私たちが、
何かを創造していくに際して、
鍵となるのは、
私たちの意識過程、思考過程(拡散的・収束的)だけでなく、
その背後で渦巻き、脈動している、
夢(無意識)の創造過程となります。

それが、
私たちの人生の使命(ミッション)を、
創り出します。
人生の「違い」を生み出すのです。

そのため、
そこにおいては、
夢の力と関わる、身体感覚(身体性)の存在が、
とりわけ重要となるのです。

自分の身体感覚の投影を、
サーチライトのように使って、
対象物(目的、欲しいアウトプット)とつながることで、
私たちは、
自己の創造力の発現を、
動機づけの面でも、組成の面でも、
容易くすることができるのです。

また、以前、
NLPを有効に活かすための、
「現場の情報空間」について、
触れました。

その際も必要なのは、
現場の膨大な情報空間に、
「身体的」に、同調・同期しつつ、
統御・利用していくということなのです。
ここでも、
私たちの身体感覚が、
素地(前提)として重要となるのです。

さて、そのように、
私たちは、
自分の「身体感覚」を、
意図に利用していくことで、
無意識の夢の力を導き、組織化し、
焦点化したアウトプットを、
創り出していくことができるのです。

そのことを通して、
欲しい結果(アウトカム)を、
手に入れることができるのです。


※気づきや夢見、変性意識状態(ASC)についての、
より総合的な方法論については、拙著↓
『砂絵Ⅰ 現代的エクスタシィの技法』
をご覧下さい。


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【PART1 Basic】ゲシュタルト療法

日本のNLP(神経言語プログラミング)は、なぜ退屈なのか

◆日本におけるNLPの概況

さて、NLP(神経言語プログラミング)も、
日本に本格導入されてから、
20年ほどが経ち、
良くも悪くも、普及してきましたので、
状況の総括をしてみたいと思います。

ところで、現在、本やスクールは多くあり、
その効果を、さまざまに謳っている一方で、
ネットで見ても、
「怪しい」「うさんくさい」「効果がない」
などの言葉も散在しています。

それらは、ある面では、
皆、正しいのですが、
基本的な情報が不足しているようなので、
「本当のところはどうなっているのか」
を少し整理して、まとめておきたいと思います。


◆日本への導入(輸入業者)の問題について

まず、
「怪しい」「胡散臭い」側面ですが、
これは、正解であり、
それは、日本における輸入業者に関係している事柄です。

例えば、コーチングでさえ、元々は、
商業セミナー(自己啓発セミナー)を運営していた業者が、
自己啓発セミナーに代替する商品として、
輸入した経緯があります。

そのため、方法論自体とは別に、
一種のうさんくささや嘘があるわけです。
やっている当人たちが、
その方面での素養や意欲もなければ、
方法論的精度や効果よりも、
マルチ商法的に、
金になることを主眼としていたからです。

しかし、コーチングも、
普通のまともな人たちが徐々にやるようになって来て、
方法論的なコーチングに、
少しずつ近づいてきたという経緯があります。
NLPも、少し似たような側面があるのです。

そのため、
NLPを学んでみたいという人は、
スクールの各団体や主催者が、
どういう出自を持っていて、
心理を扱う最低限の素地があるか、
また、その人格レベルを、
見極めていくことをおすすめします。

しかし、残念ながら、
コーチングと較べても、
さらにレベルが低いのが、
NLP業界の実情なのです。


◆カウンター・カルチャーとしてのNLP その出自と前提

さて、もうひとつ、
NLPが、日本でわかりにくい側面は、
オリジナルのNLPが、その出自として持っている、
カウンター・カルチャーの、
文化的な意味合いや創造的沸騰が、
感覚的に理解されていないことです。
カウンター・カルチャー(対抗文化)の思潮とは、
ヒッピー云々のような、
表面的で、風俗的な流行とは関係のない事柄です。

アップルのスティーブ・ジョブズが、
サンフランシスコ禅センターに、
熱心に通ったのは、
別に遊びでも、流行のためでもありません。
感覚の深いところに根ざした直観であり、
共鳴だったのです。
そこのところが分からなければ、
ジョブズのことも理解できないのです。
また、ビートルズでさえ、一時の流行で、
超越瞑想を行なったわけでも、
それで、終わったわけでもないのです。
http://www.tm-meisou.org/blog/archives/247

さて、
NLP神経言語プログラミングは、
グリンダー博士とバンドラー博士によって
パールズ、エリクソン、サティアなどを、
モデリングしてつくられたとされています。

ところで、アメリカにおける心理療法は、
日本のそれとは違って、ずっと、
一般の人々の生活の近くにあるものです。
自分の精神分析医を持つことが、
ステータスだったこともある国です。
(映画などでも見かける風景です)

その流れで、60年代、
カウンター・カルチャー隆盛の時代には、
一般の、感度の高い人々が、
ゲシュタルト療法や、エンカウンター・グループ等を、
治療のためではなく、心や創造力を解放する手段として、
気楽に体験したわけです。
治療のために、ドラッグ(薬)を使うのではないのと、
同じことです。
その文脈で、エサレン研究所なども注目されたわけです。

そしてまた、その周辺には、
それらの手法を、見よう見まねで取り入れた、
カルト系や商業系の、自己啓発セミナーたち、
エストやその他が、非常に沢山あったわけです。
牧師や導師(グル)の説教や、
モチベーション・スピーカーの講話が、
巷に溢れている世界にあっては、
ごくありふれた風景だったわけです。

そして、
グリンダー博士も、バンドラー博士も、
もともとの専門領域は、言語学や数学であり、
専門の心理系ではなかったのです。

ただ、上記の背景もあり、体験的心理療法は、
必ずしも専門領域だけに閉ざされていたわけでは、
無かったのです。
(元々、バンドラー博士は、
パールズの逐語録作成などを手伝っていましたが、
その語り口は、どこか部外者的です)

そしてまた、
本当に、実際的な効果だけを求めるなら、
心理系の専門領域などというジャンル分けも、
あまり意味を持たなかったのです。

彼らが、パールズ、エリクソン、サティアと、
流派もバラバラな人々を、モデリングした背景には、
そのようなフリキシブルな前提があったわけです。
そのため、メイン・ストリームの学問を疑っていたし、
そもそも評価していなかったのです。
そのことをうかがわせる、興味深いエピソードがあります。

NLPが、一部で話題になり出した当初、
グリンダー博士とバンドラー博士らは、
家族療法で有名なMRI(Mental Research Institute)に呼び出されて、
デモンストレーションをやらされたようです。

グリンダー博士曰く、
「MRIの奴らは、度肝抜かれていた」とのことで、
その結果、MRIでは、
NLPについて、一切言及しないようにと、
緘口令が敷かれたそうです。

若き日の、悪態つきのバンドラー博士が、
どんな挑発的な言辞で、
旧弊なセンセイたちをキリキリ舞いさせたのかはわかりませんが、
その場面を想像してみると、らしいエピソードです。

ところで、
アカデミックの世界などに持ちこんだら、
NLPは潰されていただろうというのが、
グリンダー博士の見解のようです。

そして、より一般の人々に訴える方向で、
NLPを普及させる方に向かったわけです。
そもそもが、カウンター・カルチャーなので、
そこのところは、問題ではなかったのです。
そして、良くも悪くも、
普及したというのが現状なのです。

このあたりのコンテクストも、
学問的なことは、正解であると思い込んでいる、
物事を信じやすい日本人には、
分かりにくい側面でもあるのです。



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◆人生戦略のツールとしてのNLP

さて、それでは、
「NLPとは何か」といえば、
それは、
「単なる心理学ツールの寄せ集めである」
ということです。

そのため、
どのようなコンテクストで利用すれば、
NLPの手法は効果を出すのか、
そこのフレームが押さえられていないと、
NLPも意味を持たないわけなのです。

そして、そのことでいうと、
NLPは、そもそも、
カウンター・カルチャーを前提としたものなので、
人間(人生)そのものを、人生の質を、
旧来の姿にない新しい形に、創り変えていくという、
オルタナティブなヴィジョンを、
背景に持っていたのです。

ところで、彼らは、
グレゴリー・ベイトソンに、
初期の本の序文を書いてもらっています。

「グリンダーとバンドラーは
我々がその時に直面していた問題に
直面したのであり、
その結果が、このシリーズである。
彼らには我々が持っていなかった
―あるいはその使い方が分からなかった―
道具がある。
彼らは言語学を、
理論の基礎に置くと同時に、
治療の道具にすることにも成功した。
彼らは精神医学の現象を
これで二重に照合して確かめることができ、
今なら私にもわかるが、
その時には残念ながら見逃していたことを
彼らはやりとげたのである」
『人間コミュニケーションの意味論』
ベイトソンによる序文、尾川丈一訳(ナカニシヤ出版)

そのベイトソンは、
人類学や精神医学の実証研究から、
私たちの、通常の「心」も、
(彼の学習理論にしたがって)
習慣による二次学習の結果であると、
洞察していました。
そして、それを変化させるのが、
より上位階層レベルの学習、
三次学習(学習Ⅲ)であると考えたわけです。
「気づきと変性意識の技法 基礎編」

ベイトソンは、
二次学習発生の由来が、おそらく、
問題解決に費やされる思考プロセスの経済性である、
と指摘したうえで、以下のように記しています。

「『性格』と呼ばれる、その人にしみ込んださまざまの前提は、
何の役に立つのかという問いに、
『それによって生のシークェンスの多くを、
いちいち抽象的・哲学的・美的・倫理的に分析する手間が省ける』
という答えを用意したわけである。
『これが優れた音楽がどうか知らないが、しかし私は好きだ』
という対処のしかたが、性格の獲得によって可能になる、という考え方である。
これらの『身にしみついた』前提を引き出して問い直し、
変革を迫るのが学習Ⅲだといってよい」
『精神の生態学』佐藤良明訳(新思索社)

「習慣の束縛から解放されるということが、
『自己』の根本的な組み変えを伴うのは確実である。
『私』とは、『性格』と呼ばれる諸特性の集体である。
『私』とは、コンテクストのなかでの行動のしかた、
また自分がそのなかで行動するコンテクストの捉え方、
形づけ方の『型』である。
要するに、『私』とは、学習Ⅱの産物の寄せ集めである。
とすれば、Ⅲのレベルに到達し、
自分の行動のコンテクストが置かれた
より大きなコンテクストに対応しながら行動する術を習得していくにつれて、
『自己』そのものに一種の虚しさirrelevanceが漂い始めるのは必然だろう。
経験が括られる型を当てがう存在としての『自己』が、
そのようなものとしてはもはや『用』がなくなってくるのである」
(前掲書)

「習慣の束縛から解放されるということが、
『自己』の根本的な組み変えを伴うのは確実である。
『私』とは、『性格』と呼ばれる諸特性の集体である」
「要するに、『私』とは、学習Ⅱの産物の寄せ集めである」
「これらの『身にしみついた』前提を引き出して問い直し、
変革を迫るのが学習Ⅲだといってよい」
というようなヴィジョンが、
カウンター・カルチャーを背景に持ち、
ベイトソンに序文をもらい、
天才肌のパールズ、エリクソン、サティアと交流し、
その方法論を抽出・再構成していった若者たちにとって、
どのような、人間(人生)の、
あるべき未来を夢想させたかという点は、
想像するだに、クリエイティブで刺激的な事態です。
そこに、NLPの原風景があるわけです。
NLPの少しSF的で、遠大な含意は、
そのような点にもあるのです。

そのため、
はじめから「NLPの手法ありき」で、
物事を考えても、イメージはひろがらないし、
あまり成果の出るものでもありません。
そのような、創造性を欠いた現状からも、
グリンダー博士は、NLPの未来には、
悲観的なようです。

そのことは、
文化的前提のない、日本においては、
なおのことなのです。
そしてまた、ここが、
日本のNLPが、
とりわけ退屈になってしまっている、
要因のひとつでもあるのです。

NLPカリキュラムの、既存の手法ありきで、
それをいっぱいいっぱいに試してみても、
あまり効果の出るものではないのです。
また、
背景のヴィジョン(フレーム)がきちんとないと、
そもそも、
NLPが作用するフレーム自体も、
生まれて来ないのです。

大きな人生の、得たい方向性(戦略)を組み立てる中で、
また、セッション現場のリアリティの中で、
どのような要素(場面、局所戦)に、
適用し、位置づけたら、
NLPが効果を生むのかを見極めていくことが、
まずは、NLPをイメージ豊かに使うコツとなるのです。

そのため、
あるいは、逆にいえば、
NLPを、あまり真剣にとらえずに、
アートやSF的なエンタメのひとつとして、
まずは自分で試してみて、
楽しんでみる位のスタンスの方が、
何かしらの人生のヒントを、
つかめるのかもしれません。


※気づきや、変性意識状態(ASC)についての、
より総合的な方法論については、拙著↓
『砂絵Ⅰ 現代的エクスタシィの技法』
をご覧下さい。


スライド1




大竹伸朗回顧展『全景』の記憶 無機的な痙攣する熱量

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さて、前回、
ボルヘスの作品について
内容における、その宇宙的な無限と、
形式における、硬質な掌編との、
極度な対照性が
その作品の過度なる圧力を
生み出していることについて触れました。
宇宙への隠された通路 アレフとボルヘス

その両極的な振幅の大きさが、
その効果の衝撃力を高めている、
というわけです。

そしてまた、
その作品の背景には、
宇宙的な(または鉱物的、無機的な)変性意識から、
日常意識までの広い帯域が、
強度を持って、
はらまれている可能性についても、
触れました。

さて、
そのような両極の振幅が持つ、
極度な力を、
特異な身体的な衝撃として体感できた、
稀有な出来事について、
今回は、取り上げてみたいと思います。

すでに、
10年以上も前の事柄になりますが、
大竹伸朗氏の大回顧展、
『全景』が、
東京都現代美術館で、
行なわれました。

4トントラック25台で搬入されたとされる、
2,000点もの作品群が、
美術館の全階層を占拠する、
巨大なスケールと、
大物量が投下された展示会でした。
夜の館の外には、
「宇和島駅」の文字が、
ネオンとして光っていたものでした。

そして、館内では、
天井まで届くような巨大なオブジェから、
廃物のようなガラクタ様の小品、
無数の濃厚なスクラップ・ブックまで、
大小さまざま、様式も雑多な、
膨大な作品群が、空間を埋め尽くす姿は、
あたかも、
建物空間そのものが、一つの複合した、
巨大な作品であるかのような観を呈し、
見る者に対して、
肉体的な圧倒として、
体感されたのでした。

そして、
その空間の、巨大で重厚な濃密さが、
より痛感された要因のひとつに、
その作品群の、
おびただしい雑多さもありますが、
とりわけ、
線や点における尖鋭、
極度な震えの相が、
あったのです。

というのも、
一見ジャンク品のような、
作品のひとつひとつは、
よく見ると、
その細部に、
まるで濃縮され、凝視(幻視)された、
ミニチュアのように、
非常に繊細な造形、
膨大な情報量、
激しい熱量が込められたからです。

そのミクロな先端と、
マクロな広大さとの間の、
両極の振幅。
刺すような極小な線の震えと、
膨大かつ巨大な作品的身体との間にある、
振幅の大きさが、
並外れて凝縮的なエネルギーと、
熱量を、
生み出していたのでした。

『全景』とは、
うまく名づけたもので、
廃物や夢の残骸のような異形の作品群が、
積み重なる空間は、
大袈裟にいえば、
一種のSF的な荒れ野、
どこかの惑星の風景を、
連想させるようでもあったからです。

以前、LSDの体験セッションにおいて、
鉱物群と同一化する、
変性意識状態(ASC)の事例を取り上げましたが、
これらの廃物的で、
鉱物や残骸のような作品群には、
そのような無機的な意識体とも通底するかのような、
強度に逸脱した、
過剰な生のリアリティが、
感得されたのでした。

そして、巨大な熱量の塊、
(それも、冷えた熱としての)
無機的に振動するような熱量が、
体験の記憶として、
大きな感動とともに、
筆者の肉体の底に、
刻まれたのでした。

それがために、
10年以上の歳月が経っているにも関わらず、
その時の興奮が変わらずに、
今も、神経のうちに残っているわけなのです。

そしてまた、
あのような大回顧展が、
再び開かれることを
願っているのは、
決して、筆者ひとりだけではないとも、
思われるのです。


※気づきや、変性意識状態(ASC)についての、
より総合的な方法論については、拙著↓
『砂絵Ⅰ 現代的エクスタシィの技法』
をご覧下さい。




 【PART1 Basic】ゲシュタルト療法
ゲシュタルト療法【基礎編】
ゲシュタルト療法【実践・技法編】
ゲシュタルト療法【応用編】
「セッション(ワーク)の実際」

【PART2 Standard】
気づきと変性意識の技法 基礎編
変性意識状態(ASC)とは
「英雄の旅」とは
体験的心理療法
NLP 普及・効果・課題
禅と日本的霊性
野生と自然

【PART3 Advanced】
気づきと変性意識の技法 上級編
変性意識状態(ASC)の活用
願望と創造性の技法
その他のエッセイ

【PART4 当スペース関係】
フリー・ゲシュタルトについて
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宇宙への隠された通路 アレフとボルヘス

さて、以前、
諸星大二郎氏の『生物都市』や、
LSD体験セッションの中で、
鉱物的結晶に同一化する、
変性意識状態(ASC)の興味深い事例について、
見てみました。

『生物都市』と鉱物的な変性意識状態(ASC)

ところで、
それらの体験報告は、
しはしば、古代的な宗教文献などでも語られる、
日常意識の背後にある、
遍在的で、全一的な意識の様態を、
さまざまに夢想させるものでもあります。

さて、今回は、その関連で、
アルゼンチンの作家、
ホルヘ・ルイス・ボルヘスを、
取り上げてみたいと思います。

ボルヘスの主要な傑作は、
無限的で、全一的なる宇宙を、
小さな物語の中に、
凝集するかのように結晶させた、
短編群です。

彼の作品では、
私たちの人生を形づくる、
普遍的な素材―
記憶、夢、書物、時間、想像力などを、
別様にとらえていく巧妙な仕掛けを通して、
日常的現実に、
「無限の宇宙」を侵入させる(招き入れる)かのような、
幻想的な物語が展開されていきます。

さて、その彼の小説の中に、
『アレフ』という作品があります。

『アレフ』は、
そのようなボルヘスの趣向が、
一人称の語りで、比較的、
直接的に表現されたかのような、
体裁になっています。
(彼の多くの物語は、迂回と晦渋により、
もっと間接的に、
人を巻き込んでいくような語り口です)

さて、作品に出て来る、
アレフとは、
ある架空のものを名づけた言葉ですが、
それは、食堂の地下室の片隅にある、
「宇宙のすべてが見える」
ある球体のことです。

物語は、
アレフのことを知る、ある知り合いが、
とある屋敷の地下室にある、
アレフの存在を、ボルヘスに語り、
ボルヘスがそれを、
地下室の暗闇に入って、
実際に確かめてみるという、
ストーリーとなっています。

「何よりも私を驚かしたのは、
重積や透過といった現象もないのに、
すべてが同一の点を占めていることだった。
私のこの眼が見たのは、
同時的に存在するものだった。
私がこれから書写するものは
継起的になるだろう。
言語が継起的なものだからだ。
それでも私は、
なにがしかを捉えることができるだろう」

「階段の下の方の右手に、
耐え難いほどの光を放つ、
小さな、虹色の、一個の球体を私は見た。
最初は、回転していると思った。
すぐに、その動きは、
球体の内部の目まぐるしい光景から生じる、
幻覚にすぎないことを知った。
〈アレフ〉の直径は二、三センチと思われたが、
宇宙空間が
少しも大きさを減じることなくそこに在った。
すべての物(たとえば、鏡面)が無際限の物であった。
なぜならば、私はその物を宇宙のすべての地点から、
鮮明に見ていたからだ。

私は、波のたち騒ぐ海を見た。
朝明けと夕暮れを見た。
アメリカ大陸の大群集を見た。
黒いピラミッドの中心の銀色に光る蜘蛛の巣を見た。
崩れた迷宮(これはロンドンであった)も見た。
鏡を覗くように、
間近から私の様子を窺っている無数の眼を見た。
一つとして私を映すものはなかったが、
地球上のあらゆる鏡を見た。
ソレル街のとある奥庭で、
三十年前にフレイ・ベントスの一軒の家の玄関で
眼にしたのと同じ敷石を見た。
葡萄の房、雪、タバコ、金属の鉱脈、水蒸気、
などを見た。
熱帯の砂漠の凹地や砂粒の一つ一つを見た。
インヴァネスで忘れられない一人の女を見た。
乱れた髪を、驕りたかぶった裸を見た。
乳房の癌を見た。
以前は木が植えられていたが、歩道の土の乾いた円を見た。
アドロゲーの別荘を、かのフィレモン・ホランドの手になる、
プリニウス英訳の初版本を見た。
あらゆるページのあらゆる文字を同時に見た
(子供の頃の私は、閉じた本の文字たちが、
夜のうちに、混ざり合ったり消えたりしないのが
不思議でならなかった)。
夜を、同時に昼を見た。
(中略)
あらゆる点から〈アレフ〉を見た。
〈アレフ〉に地球を見た。
ふたたび地球に〈アレフ〉を、
〈アレフ〉に地球を見た。
自分の顔と自分の内臓を見た。
君の顔を見た。
そして眩暈を覚え、泣いた。
なぜならば私の眼はあの秘密の、
推量するしかない物体を
すでに見ていたからである。
人間たちはその名をかすめたが、
誰ひとり視てはいないもの、
およそ想像を絶する、宇宙を。」
『アレフ』鼓直訳(岩波書店)

さて、
一見なんでもない日常の風景の一角に、
宇宙が、そこに含まれているような、
隠された秘密の通路が、
存在しているかもしれない、
というような夢想は
私たちの多くが、子供の頃、
なんとなく考えたのではないかと思われます。
秘教的なアイディアにおいても、
そのようなことが語られたりもします。

それらも、ある意味、
私たちの心の奥底にある
何かしらの構造を、
投影したものであると、
考えることもできるわけです。

さきに触れた、
鉱物と同一化した変性意識状態(ASC)
に見られるような、
心の基層部のひろがりとは、
ある意味、
宇宙的な性質を有しているのでは、
ないだろうか考えることもできるわけです。

そしてまた、見方を変えると、
ボルヘスに見られるような。
無限なる宇宙を、
小さな物語に閉じ込めたいという、
欲望自体が、
そのような、私たちの心の構造や渇望を、
どこかで映し出していると、考えることもできるわけです。

そして、私たちが、
ボルヘスを読む快楽とは、
彼の作品にある、
無限の宇宙を凝集したような高圧点を、
意識的に味わうところにあることを考えると、
それは、色々と示唆に富むことでもあるのです。

そして、そのような、
箱庭的ミニチュアにある、
凝集への欲望には、
無辺にひろがる宇宙的な意識と、
局所的で、場所的な日常意識との間に、
結合や振幅的往還をもたらしたいという、
私たちの渇望の現れがひそんでいると、
類推することもできるわけなのです。



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「聖霊」の階層、あるいはメタ・プログラマー

さて、今回は、
私たちの内で働いている、
心的システムの、高次の学習階層について、
考えてみたいと思います。
これらは、
変性意識状態(ASC)の中などでは、
しばしば出遭うことになる、
自己システムの隠された側面とも、
いえるものかもしれません。


◆フロー体験で働く機構

ところで、
以前、取り上げた、
フロー体験flow experienceにおいては、
私たちは、高度な集中状態の中で、
特殊な意識(心身)状態に、
入り込むこととなります。

そこにおいては、
私たちは、その行動(行為)を、
圧倒的で、没我的な集中状態で、
行なっているわけですが、
あたかも、
「自分でないものの力」によって、
それらの行動が為されているかのような、
不思議な感覚を得ることになります。

その状態においては、
まるで、何かの自動化によって、
高速的に、最適な判断と選択、
迅速で的確なアクションが、
取られていくかのようです。

おそらく、
この状態においては、
ベイトソンのいう、
二次学習の機能の成果が
並外れた状態で働いているとも、
言えるのかもしれません。

また、この状態における、
閃光のようなフリキシブルな創造性からすると
三次学習の要素も、いくらか、
含まれているのかもしれません。

いずれにせよ、
非常にひろい幅の、
学習階層で、
心身の創造性が、
発揮されている状態であると、
推察されるわけです。


◆心身のメタ・プログラマー

さて、ところで、
ベイトソンの友人で、
イルカの研究者や、
アイソレーション・タンクの発明者としても、
著名な、ジョン・C・リリー博士は、
合法時代のLSDを使った、
心理・意識機能の探求者、研究者でもありました。

人間心理における作動のシステムを、
プログラミングや、
そのメタプログラミングとして記述する、
『バイオコンピュータとLSD』(リブロポート)は、
自らをLSDセッションの被験者として、
(精神分析的な知見も含め)
人の心理機能を、
システムの制御体系として、
抽象度高く表現した書物です。

また、その後の、
『意識(サイクロン)の中心』(平河出版社)においては、
前著の体系を引き継ぎつつ、
心身(意識)システムの制御における、
プログラムとメタプログラミングの階層構造を、
各種の実践体験の中で、実験(確認)していくという、
興味深い書物となっています。

そこにおいては、
私たちの日常意識(プログラム)を制御する、
高次のシステム(メタ・プログラマー)についても、
さまざまな考察がめぐらされています。

そして、
フロー的な体験や、それ以上の体験のように、
極度に潜在能力が解放された、
特殊な存在状態においては、
メタ・プログラマー自身が、
私たちの存在を制御し、
操縦していくかのような事態が、
興味深い実体験(事例)とともに、
数多く紹介されています。

そのような事例などは、
例えば、フロー体験の中で、
どのようなシステムが、
私たちの内で作動しているのかを考える際の、
ヒントになるものと思われるのです。

また、その際の、
仮説としての、心の階層モデルなどは、
世界の諸伝統などとも響きあう、
共通性を持ったモデルでもあり、
そのさまざまな比較検討が、
可能なものともなっているのです。


◆「聖霊」の働く階層

ところで、以前、
映画『攻殻機動隊』と、
そのゴーストGhostの変性意識状態(ASC)について、
考えてみた際、
初期のキリスト教徒に見られた、
「聖霊体験」について、
それらを一種の変性意識状態の事例として、
取り上げてみました。

つまりは、
聖書にある、
「聖霊にみたされる」体験を、
システム的に、
意識が、
未知なる心身の「上部構造」とつながる体験として、

とらえてみる可能性について、
考えてみたわけです。

そして、
上部構造とつながるシステムな体験であるがゆえに、
情報が整列されることにより、
私たちの日常意識(下位構造のプログラム)を、
整理・改変する力、
つまりは統合(治癒)する力が、
生まれるのではないかと、
比喩的に、考えてみたわけです。

ところで、
そのように考えてみると、
この、心の階層システム的な仮説が、
先に見た、
リリー博士のいう、
「私たちのプログラム(日常意識)を、
制御するメタ・プログラマー」という仮説と、
近しい姿を取っていることに、
あらためて気づかされるわけです。

そして、実のところ、
筆者自身、
拙著『砂絵Ⅰ 現代エクスタシィの技法』に記したように、
風変わりな変性意識状態(ASC)を、
さまざまな経験として持ったわけですが、
判然とはわからないものの、
それらの事象の背後に、
何らかのシステム的なつながりがあることは、
類推(予感)できたのでした。

そのようなことからも、
これら心的システムの、
プログラミングにまつわる領域には、
世の事例の多さを考えてみても、
探査検討すべき領域が、
まだ沢山あると感じられるのです。


◆この人生の背後にあるもの

私たちの人生には、
何らかのきっかけで、
日常意識を超える要素が、
変性意識状態の片鱗として、
やって来ることがあります。

それらは、
ひょっとしたら、
私たちの日常意識の背後で働いている、
メタ・プログラマーの、
何らかの調整作用の影響であるとも、
考えることができるのかもしれないのです。

日常生活で、
ふと舞い込む、
覚醒感や、感覚の拡張、

偶然や運として、
それらは姿を現わしているのかも、
しれないのです。

そのため、
当スペースでは
X意識状態などと呼んで、
それらに感覚的に焦点化することなども、
行なっているわけです。

それらに、
意図的に気づき、意識化していくことにより、
私たちの、
高次の学習機能も、
少しずつ高まっていくからです。
そして、おそらくは、
メタ・プログラマーの創造的な影響を、
呼び込むことも、
可能になると考えられるからなのです。



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『生物都市』と鉱物的な変性意識状態(ASC)

さて、諸星大二郎氏といえば、
昔はカルト作家?であり、いまや、
日本を代表する奇譚漫画家
ともいえる存在です。

その彼が、
1974年に手塚賞をとった短編、
『生物都市』は、
昭和の子どもたちの心に、
強烈な刻印を残したトラウマ漫画でした。

内容は、探査宇宙船が、
木星の衛星イオから運んできた、
謎の感染性の何かにより、
人間(生物)と金属類とが、次々と融解し、
融合していってしまうという物語です。

物語の舞台は、日本の地方都市ですが、
やがて、全世界が、抗しようもなく、
すべて溶けあってしまうだろうという事態を、
奇怪な造形と筆致で描いたものでした。

無機物質と生物が融合してしまう、
異形な映像の薄気味悪さもさることながら、
その意識や心までもが、
融解した集合体に、
飲まれていってしまうという事態が、
人間的で文化的な価値観の一切を、
洪水のように押し流してしまうかのようで、
怖ろしくも感じられたのでした。

一方、夢の世界への郷愁にも似た、
その鉱物的な世界に対する、反感と魅惑が、
両義的な感情として、心に残されたのでした。

ところで、このような、
世界が、鉱物化していってしまう物語や、
一見生物に見えない無機物質が、意識体であるという話、
惑星が、単一の意識体であるというような話は、
SF小説の世界では、
比較的、見受けられるテーマともなっています。
そこには何か、
私たちの「意識」や「文化」の曖昧さに対する、
問題提起があるようにも感じられます。

さて、一方、
シャーマニズムの伝統などに、目を向けると、
そこでは、鉱物や石などを、
私たちの同類と考え、
「長老」と見なすような世界観も、
たしかに存在しているのです。
石や鉱物たちは、
いにしえから大地に存在している、
大先輩というわけです。
 
そこには、
私たちの心の基層の空間に、
鉱物的なものとの親和性を生み出す、
何か元型のような傾向性が、
存在しているかもしれない可能性を
うかがわせるものでもあるのです。

ところで、
変性意識状態(ASC)にまつわる、
さまざまな意識の様態を見てみました。

実際、変性意識状態(ASC)における、各種の事例は、
この親和性の背後にあるものについても、
ヒントを与えてくれる場合があるのです、

スタニスラフ・グロフ博士は、
膨大かつ多様な変性意識状態(ASC)の体験を、
体系的に整理・研究していますが、
その『深層からの回帰』(青土社)には、
次のような体験報告も再録されています

これは、
あるLSD体験セッションの被験者の報告ですが、
変性意識を通して見た、
鉱物的状態についての、
大変興味深い洞察ともなっているものです。

ここで、被験者は、自分自身を、
琥珀や水晶、ダイヤモンドなどの鉱物と、
次々に、深く同一化していくという、
奇妙な体験を得ていったのでした。

「セッションのこの時点で、
時間は止まっているようだった。
突然自分が琥珀の本質と思われるものを
体験しているのだ、
という考えがひらめいた。

視界は均質な黄色っぽい明るさで輝き、
平安と静寂と永遠性を感じていた。
その超越的な性質にもかかわらず、
この状態は生命と関係しているようだった。
描写しがたいある種の有機的な性質を帯びていたのだ。
このことは、
一種の有機的なタイムカプセルである琥珀にも
同じく当てはまることに気づいた。

琥珀は、鉱物化した有機物質―
しばしば昆虫や植物といった有機体を含み、
何百万年もの間、
それらを変化しない形で保存している樹脂―なのだ。

それから体験は変化しはじめ、
私の視覚環境がどんどん透明になっていった。
自分自身を琥珀として体験するかわりに、
水晶に関連した意識状態につながっている
という感じがした。

それは大変力強い状態で、
なぜか自然のいくつかの根源的な力を
凝縮したような状態に思われた。

一瞬にして私は、
水晶がなぜシャーマニズムのパワー・オブジェクトとして
土着的な文化で重要な役割を果たすのか、
そしてシャーマンが
なぜ水晶を凝固した光と考えるのか、理解した」

やがて、この体験は、
水晶からダイヤモンドへと移っていきます。

「私の意識状態は別の浄化のプロセスを経、
完全に汚れのない光輝となった。
それがダイヤモンドの意識であることを
私は認識した。

ダイヤモンドは化学的に純粋な炭素であり、
われわれが知るすべての生命が
それに基づいている元素であることに気づいた。
ダイヤモンドがものすごい高温、高圧で作られることは、
意味深長で注目に値することだと思われた。

ダイヤモンドがどういうわけか
最高の宇宙コンピュータのように、
完全に純粋で、凝縮された、抽象的な形で、
自然と生命に関する全情報を含み込んでいるという
非常に抗しがたい感覚を覚えた。

ダイヤモンドの他のすべての物質的特性、
たとえば、美しさ、透明性、光沢、永遠性、不変性、
白光を驚くべき色彩のスペクトルに変える力などは、
その形而上的な意味を
指示しているように思われた。

チベット仏教が
ヴァジュラヤーナ(金剛乗)と呼ばれる理由が
分かったような気がした
(ヴァジュラは『金剛』ないし『雷光』を意味し、
ヤーナは『乗物』を意味する)。
この究極的な宇宙的エクスタシーの状態は、
『金剛の意識』としか表現しようがなかった。

時間と空間を超越した純粋意識としての
宇宙の創造的な知性とエネルギーのすべてが
ここに存在しているように思われた。

それは完全に抽象的であったが、
あらゆる創造の形態を包含していた」
グロフ『深層からの回帰』菅靖彦、吉田豊訳(青土社)

さて、とても興味深い体験報告ですが、
例えば、精神病圏といわれるものの背後などでも、
このような元型的な力(意識)の作用が、
どこかで働いているのではないかという、
疑問を持つことも可能なわけです。

統合失調症に見られる、ある種の特徴などは、
そのような鉱物的なものとの親和性、共振性を、
強く感じさせるものでもあるからです。
また、多種多様なアウトサイダー・アートの造形などからも、
そのような質性が、感じ取られるものとなっているです。
その硬質性、透明性、反復性、無限性などは、
しばしば、原質的で、鉱物的な風景に、
私たちを、誘うものでもあるのです。

そのように考えると、
これらの傾向性は、
それほど奇異なものではなく、
私たちの精神の基層に根ざした、
何らかの表現形態であると、
考えることもできるわけです。

そして、
シャーマニズムの伝統の中にいる人たちも、
また、私たちの身近にいる、
鉱物嗜好者たちなども、
鉱物に心身を投影することを通して、
その中に、
何らかの意識の基層的な形態を、
感じ取っている可能性が、
考えられるわけです。

『生物都市』が、
私たちの中に引き起こした、
不思議なざわめきは、
そのような事柄を考えさせるのです。


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サブモダリティの拡張 NLP(神経言語プログラミング)とビートルズ その2

◆サブモダリティの改変

さて、NLP(神経言語プログラミング)において、
サブモダリティの改変という技法が、
そのセッション(ワーク)で、
使われることがあります。

サブモダリティ(下位様相)とは、
モダリティ―視覚、聴覚、触覚などの、
各表出(表象)体系を構成する、
下位の構成要素ともいえます。
例えば、視覚においては、
その映像を構成する、
明度、鮮明度、カラーor白黒、サイズ、コントラスト、距離、位置、
などが、サブモダリティです。
喩えですが、テレビのツマミによって、
変化するかのような各属性、
調節が可能な要素たちです。

実際のNLPのセッション(ワーク)における使い方でいえば
クライアントの方の、
或るネガティブな体験には、
その体験内容と結びついた(フレーム化された)、
サブモダリティがあると考えます。

そのため、
フレーム化によって、
望ましくない体験と結びついた、
サブモダリティを改変することで、
望ましい状態に創り変えるのが、
サブモダリティに焦点化した技法となります。
(フレーム自体を改変するのは、
リフレーミングという技法になります)

そのように、
サブモダリティは、
私たちの経験内容を記憶し構成する、
基本的な素材となっていると、
考えられるのです。


◆ビートルズ『イン・マイ・ライフ』とサブモダリティ

さて、以前、
才能における相補性ということで、
NLPとビートルズを例に出したので、
今回も、ビートルズにまつわる個人的な事例を、
エピソードとして使ってみたいと思います。

ビートルズのアルバム、
『ラバー・ソウル Rubber Soul』の中に、
『イン・マイ・ライフ In My Life』という、
名曲があります。

ジョン・レノンが、
ヴォーカルがとっている曲で、
本人のコメントもあり、
ジョン・レノンの曲とされているものです。

筆者も、昔から、
好きな曲ではあるのですが、
どこか感覚的に、
違和感を覚えてもいたのです。

というのも、
筆者にとって、
ジョン・レノンの曲は、
曲の由来(根っこ)が、
「すみずみまで(水晶が澄みきったように)分かる」
という感覚があるからです。
しかし、
『イン・マイ・ライフ』だけは、
素晴らしい曲で、好きな曲ではあるものの、
「どこか、分からない感じ」
というのがあったからでした。

しかし、後年、
ポール・マッカートニーが、
『イン・マイ・ライフ』は、
自分が書いた曲だと、発言していることを知って、
長年の謎が氷解したのでした。
ポールは、曲の構造からしても、
自分の曲だと証明できる、
ジョンが忘れただけだ、と言っているようですが、
さもありなんという感じなのです。

さて、それでは、
筆者の中で、
何がジョンの曲で、何がポールの曲だと、
感じ分けていたのでしょうか。

それこそが、曲を聞いた時に、
筆者の中で、自然に組成される、
サブモダリティの質性(特徴)だったのです。

筆者個人にとって、    
ジョンとポールの曲は、
サブモダリティとしては、
決定的に違うものでした。
ジョンの曲の、密度や屈曲と、
ポールの曲の、のびやかさと明るさとは、
明確に違うサブモダリティなのでした。
無意識で感じ取られる、
微細な様相においてもそうなのでした。
そして、個人的には、ジョンの曲は、
感覚の近さからか「根から分かる」感じがしたのでした。
一方、ポールの曲には、
どこか、曲の由来(根っこ)が、
「分からない」感じがあったのでした。
そして、それがどこか神秘的な質性でもあったのでした。

『イン・マイ・ライフ』は、
ジョンの曲だと信じ込んでいたため、
実際に組成されるサブモダリティとの間に、
齟齬や違和感が生じていたのでした。

ところで、
音楽を聴くときには、
曲の中に、心身を投影して、
その内的体験として曲を感じ取るわけですが、
その風景として、
サブモダリティが組成されるわけです。

そして、
その曲によって組成されるサブモダリティと、
自分の元々の、内的な経験(趣味)を響き合わせて、
合う合わないとか、好き嫌いとかを、
判断している訳です。
また、「分かる」などという幻想を、
創り出しているわけなのです。

しかし、サブモダリティの、
この内的一貫性を把握しておくことは、
対象物を理解する上での、
トラッキング(追跡)・システムとしても、
重要な働きをしてくれるものなのです。
『イン・マイ・ライフ』の事例は、
そのような意味でも、
興味深い事例となったのでした。

ところで、
多くの人にとっても、
好きな趣味の中での、
各種の感覚情報の差異は、
大体、サブモダリティの一貫性として、
把握されているものなのです。


◆投影された身体と、サブモダリティの拡張

さて、
拙著『砂絵Ⅰ:現代的エクスタシィの技法』の中では、
自らの身体の投影を通して、
私たちが世界をとらえ、
構成していく様子を記しました。    

メルロ=ポンティのいう、
「画家は、
その身体を世界に貸すことによって、
世界を絵に変える」
『眼と精神』木田元他訳(みすず書房)
という言葉などを素材に、
そのことについて見ました。

そのような身体の投影の結果として、
私たちは、自己の世界の表象を、
作っているのです。

ところで、
このような身体投影の結果として、
内的表象を作る際にも、
強度の差異は各種あるものの、
サブモダリティも、
同時に、生成・組成されているのです。

生活の中で、さまざまな事柄を、
身体の投影を通し、
物事を経験・学習する中で、
体験内容のコンテクスト化やフレーム化も生まれれば、
基礎素材としての、
サブモダリティの生成と編成も、
行なわれているわけです。

そのため、生活史の中で、
何らかの問題的なフレームが発生した場合に、
問題あるサブモダリティも生まれてしまうのです。
それが、前段で見た、
NLPのセッション(ワーク)による
サブモダリティ改変のアプローチにも、
つながるわけです。

ところで、実際のところ、
サブモダリティの質性自体は
価値中立的であり、
それ自体は、良いものでも悪いものでも、
ありません。
強烈なサブモダリティが、
問題であるということではないのです。

問題なのは、
サブモダリティと、
否定的(悪しき)体験との、
フレーム化・コンテクスト化なのです。
この関係づけを改変するのが、
リフレーミングといわれる技法です。

また逆に、芸術などでは、
強烈なサブモダリティの方が
効果としては、
有効だったりもするのです。

さて、ところで、
私たちの普段の生活における
創造的な側面に目を向けてみると、
例えば、
何か貴重で冒険的な体験をした場合などには、
私たちの身体感覚に深い刻印が刻まれ、
身体感覚が拡張したかのような実感を、
得ることになります。
また同時に、
その経験内容(領域)を表象するサブモダリティも
改変(拡張)された感じがします。
これは、サブモダリティの「創造的な側面」です。

そのため、
新しい未知の体験を得て、
身体感覚が拡張したときには、
そのサブモダリティをしっかりと
感覚と脳に定着させていくと、
その経験が、学習として深まり、
自分の中でより、再コンテクスト化、
再フレーム化がはかどります。
高次階層の学習も進みます。

一方、
積極的で能動的な身体の投影を通して、
サブモダリティが、
わずかに拡張されるような
経験を持つこともあります。

芸術における体験などが、
それです。

その際、私たちの内側では、
実際に、
身体やサブモダリティが拡張され、
改変される体験とも、
なっているのです。

実際、
芸術におけるエネルギッシュで、
積極的な取り組みの中では、
(創作ばかりでなくとも)
自分自身の既存の身体感覚や、
固定化したサブモダリティを、
流動化させ、解放させていく効果があります。

慣れていないジャンルの芸術に、
積極的、意欲的に身体を投影して、
内的に把握しようとする努力は、
私たちの持っていた、
既存のサブモダリティや内的な表象を、
柔軟にして、
解放・拡張していく訓練にもなるのです。
それは、
多くの身体訓練と、
同様の働き方をするのです。

そのように、
私たちの身体感覚とサブモダリティは、
深く同期しているというわけなのです。

それがために、
スポーツ・トレーニングにおいても、
コーチングにおいても、
ヴィジュアライゼーションや、
イメージ・トレーニングが、
実際的・実利的な効果を、
発揮するというわけなのです。
ここには、
興味深い心身の領域が、
大きくひろがっているのです。





【PART1 Basic】ゲシュタルト療法
ゲシュタルト療法【基礎編】
ゲシュタルト療法【実践・技法編】
ゲシュタルト療法【応用編】
「セッション(ワーク)の実際」

【PART2 Standard】
気づきと変性意識の技法 基礎編
変性意識状態(ASC)とは
「英雄の旅」とは
体験的心理療法
NLP 普及・効果・課題
禅と日本的霊性
野生と自然

【PART3 Advanced】
気づきと変性意識の技法 上級編
変性意識状態(ASC)の活用
願望と創造性の技法
その他のエッセイ

【PART4 当スペース関係】
フリー・ゲシュタルトについて
セッションで得られる効果
なぜ、ゲシュタルトなのか
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階層を超える創造の飛躍 パブロフの犬か、ベイトソンのイルカか


さて、前回、
映画『攻殻機動隊』ゴーストGhostの変性意識
を語る中で、
ベイトソンの学習理論について、
触れました。

そこでは、
学習次元の階層を超えるような、
創造的な飛躍が起こる場合があることについて、
少し記しました。

このような階層を超える学習(創造性)について、
ベイトソンは、
『精神と自然』(新思索社)の中で、
興味深い事例を挙げているので、
今回は、そのことについて、
見てみたいと思います。

イルカの事例です。

或るイルカショーでは、
「毎回、イルカに『新しい芸』を教えることができる」
ということを売り物にすることを考えたそうです。

つまり、毎回、そのステージ(セクション)で、
イルカが、或る「新しい芸」をやり、
「そのことを覚えた」とイルカが再現する、
という高度な芸です。
イルカ的には、一日の中で、そのステージごとに、
毎回、新しいしぐさなりを表現し、
そのことを覚えた(学習した)ことを、
人に示すということです。

イルカには、
「或る特定のことことを覚えれば、エサがもらえる」
というコンテクスト(二次学習)より、
高度なことが、課せられたのです。

或る時は、芸Aをやったら、
エサがもらえた。
しかし、次に、芸Aをやっても、
エサはもらえない。
偶然、芸Bをやったら、
エサがもらえた。
しかし、それをもう一度やっても、
エサはもらえない。
最初、イルカは、混乱したようです。

しかし、試行錯誤を繰り返す中で、
イルカは、ついに、
「わかった」ことを示すかのように、
嬉しそうな反応をしたそうです。

そして、次々に、
新しい芸を見せ出したそうです。

つまり、イルカは、
より高い階層から、
自分の置かれた「コンテクスト(文脈)」を、
理解することをできたのです。

「芸A、芸B、芸C」と、
既存の芸を、ひとつのクラス(類)と見なし、
それとは別の「新しい芸」のクラス(類)が、
求められているものだと、理解したのです。

このゲーム全体のコンテクストを理解したのです。
それは、
今までの自分が置かれた階層を、
超えた視点からの理解です。
そこに、
イルカは、飛躍することができたのです。

一方、対照的に、
ノイローゼに陥ったパブロフの犬の、
事例が挙げられています。

その犬は、
丸と、楕円形を識別する訓練を受けたようです。
丸の時は、反応Aを行なう、
楕円形の時は、反応Bを行なう、
というようなことでしょう。

その上で、
丸か楕円形か、識別できない形態が、
提示されたようです。
すると、
犬は、明らかに混乱し、
神経症的な症状を示し出したようです。
つまり、選択肢「丸か楕円形か」の間で、
「識別できない」という、
ダブルバインド(二重拘束)に入ってしまったのです。

つまり、パブロフの犬は、
選択肢「丸か楕円形か」が、
ひとつのクラス(類)であり、
その他のクラス(類)が、
他の選択肢としてあるかもしれない、
という可能性を、
見出せなかったのです。
そのため、既存の学習の中で、
袋小路に入って(詰んで)しまったのです。

さて、見るところ、
人間の場合も、
個人の行動や、企業の戦略においても、
多くの場合、
パブロフの犬のようにしか振る舞えない、
というのが実情ではないかと思われます。
既存の二次学習の中で、
ダブルバインドに陥ってしまうのです。

つまり、
自分が慣れ親しみ、
身についた既存の二次学習、
既存の視野(選択肢)の階層を、
超える飛躍とは、
なかなかに難しいのです。

習慣的学習ではない超習熟と、
覚醒的な気づき、
プラスアルファの要素が、
必要となります。

そしてまた、
頭で考えるだけの方法論(aboutism)では、
自分自身を構成している
二次学習のプログラムを超える(相対化する)ことは
これも大変難しいからです。
考えることは、解離的なプロセスであり、
それ自体に、物質的に働きかける方法には、
ならないからです。

当スペースが、
ゲシュタルト療法(心理療法)を、
方法論に置いている理由は、
ここにあります。

それは、
ゲシュタルト療法のセッションは、
変性意識状態(ASC)に入り込む中で、
しみついた二次学習のプログラムに、
背後から直接、
コンタクト(接触)できる方法論となっているからです。

そして、
それを、気づきawarenessのうちに、
修正することができるからです。

これが、
当スペースの、
方法論的な狙いとその特徴と、
なっているのです。





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ゲシュタルト療法【基礎編】
ゲシュタルト療法【実践・技法編】
ゲシュタルト療法【応用編】
「セッション(ワーク)の実際」

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気づきと変性意識の技法 基礎編
変性意識状態(ASC)とは
「英雄の旅」とは
体験的心理療法
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【PART3 Advanced】
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変性意識状態(ASC)の活用
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映画『攻殻機動隊』ゴーストGhostの変性意識

さて、
以前、映画『マトリックス』を素材に、
私たちの日常意識と、
変性意識状態(ASC)に関して書きました。
映画『マトリックス』のメタファー(暗喩) 残像としての世界

今回は、『マトリックス』の、
元ネタのひとつである、
アニメ映画『攻殻機動隊』を取り上げ、
変性意識状態(ASC)や、
心の構造について、考えてみたいと思います。

さて、原作漫画でもそうですが、
副題は、Ghost in the Shellとなっています。
このゴーストGhostが、今回のテーマです。

映画の中では、Ghostは、
私たちの「心」を意味するものとして、
使われていますが、
そこに幾重もの意味が重ねられているようです。

Ghostは、そもそも、
霊、幽霊を意味しています。
含意としては、
ポリスのアルバム・タイトルにもなった、
ケストラーの『機械の中の幽霊Ghost in the machine』あたりが、
その由来かもしれません。

また、映画の中で、重要な意味をもって引用される、
新約聖書の流れでいえば、
三位一体のひとつの位格である、
聖霊Holy Ghostとの関連も類推されます。

そして、
映画のストーリーに即していえば、
Ghostをハッキングされることによって、
他者により、疑似体験の記憶さえ、
ねつ造されてしまう未来社会にあっては、
身体(義体)の中にある、自分の「心」の、
「自分らしき」クオリアさえ、
もはや自分自身の確証にならないということが、
Ghostという言葉に、込められているのかもしれません。

ところで、映画の中では、
新約聖書のパウロ書簡、
コリント人への手紙の一節が、
重要な意味をもって使われています。

「今われらは鏡をもて見るごとく
見るところ朧(おぼろ)なり」

草薙素子とバトーが、
非番の日に、船の上で、
謎のハッカー「人形使い」のメッセージを聞くのです。

そして、この節は、
映画のラストシーン、
草薙素子が、バトーとの別れ際に、
さきの節の前にある言葉を引いて、
現在の自分の心境(状態)を表すものともなっています。

「われ童子の時は語ることも童子のごとく、
思ふことも童子の如く、
論ずることも童子の如くなりしが、
人と成りては童子のことを棄てたり」

さて、映画の中では引かれていませんが、
人形使いのメッセージは、
実は、文章の前半節であり、
この節の後には、次のような言葉が続いていました。

「然れど、かの時には顔を対せて相見ん。
今わが知るところ全からず、
然れど、かの時には我が知られたる如く全く知るべし」

今は、鏡を通して見るようにぼやけて見ているが、
その時が来たら、直接、顔をあわせて見ることになるだろう。
今は、不完全にしか知ることができないが、
その時が来たら、神が知るように、
すべてをあきらかに知るようになるであろう、ということです。

この言葉は、
草薙素子の「自分らしき」Ghostをめぐる焦燥感と、
謎のハッカー「人形使い」との邂逅にまつわる、
追跡的なテーマ(けはい)として流れているものです。

そして、物語は、終盤、
草薙素子が、人形使いのGhostを探るために、
きわどい状況下で、人形使いの義体にダイブして、
図らずも、人形使いのGhostと相見え、
ネットに遍在するかのような、彼のGhostとの、
「融合」に導かれ、
「さらなる上部構造にシフトする」ところで、
クライマックスを迎える形となるのです。


◆変性意識状態(ASC)と心理療法

さて、この話のような、
Ghost (心)の「上部構造」などは、
一般には、フィクションの中でしか、
あり得ないように見えるかもしれません。
ところが、実は、そうでもないのです。
それが、今回の話の眼目です。

拙著『砂絵Ⅰ 現代的エクスタシィの技法』の中では、
各種の変性意識状態(ASC)の事例を取り上げました。
例えば、その周辺領域では、
特に、強度なタイプの変性意識などにおいては、
しばしば、私たちの「日常意識」が、
下位(下部)意識として、稼働しているかのように感じられる、
上部(上位)意識らしきものの存在を予感する報告が、
多種多様に存在しています。

変性意識状態の中でも、
LSD等によるサイケデリック(意識拡張的)体験や、
臨死体験などの、強度なタイプの体験においては、
そのような事柄も語られがちになっているのです。

そのような強度な状態においては、
私たちの意識や知覚の一部は、
別種のもののように澄みきり拡張し、
あたかも「かの時」に、「全く知る」かのようになって、  
日常意識の、限定された情報を、
下部構造のように透視していくこととなります。
そして、私たちは、
「かの時」でしか知りえないかのような、
隠された情報にアクセスすることも、
できるように感じたりするのです。

ところで、
このような心の上下部分を感じさせる階層構造は、
心の構造的側面だけで見れば、
(強度な変性意識ほど劇的な形ではなくとも)
心理療法のセッションの中では、
つねに起こっているものともいえるのです。

例えば
心の葛藤状態を扱う、ゲシュタルト療法の、
エンプティ・チェアの技法を使ったセッションを、
例に取り上げてみましょう。

このタイプのセッションにおいては、
軽度な変性意識状態の中、
アンカリングの作用によって、
葛藤し相反する欲求(感情)をもった、
自分の中の「複数の自我」が、
それぞれの椅子に、
取り出されていくということが起こります。

そして、セッションで、
各欲求(自我)の中身を、丁寧に表現したり、
対話させていくことにより、
各欲求(自我)の間に、
感情的・情報的な交流が発生し、
だんだんと、二つの欲求(感情)が、
融合していくということが起こって来ます。

また、その融合に従い、
二つを合わせた、
より「統合的な自我」が、
自然に生成して来ることにもなるのです。

クライアントの方の、
主観的な感覚としては、
最初の個々の欲求(自我)に対して、
統合的な自我は、
より「上位的な自我」として、
立ち現われて来る実感があります。

実際、統合的な自我は、
最初の欲求(自我)を、その部分(下部)として、
内に持っているのです。
しかし、
各欲求(自我)は、葛藤状態ではなく、
個性や能力として、
そこに働いているという変化を、
持つようになるのです。
機構が、整列されて、
正しく稼働するようになるのです。

ここには、
葛藤する自我と、
統合的な自我との間に、
ある種の上下階層的な構造が、
存在しているのです。

また、実際、
このようなセッションを、
数多く繰り返していくと、
クライアントの方の中に、
心の「余裕」が生まれて来て、
以前より、「泰然としている自分」を、
発見することになります。
昔は、葛藤したり、悩んでいた同じ事柄を、
今では、以前ほどは気にしていない自分を、
発見するわけです。
これなども、より上位的なレベルの、
「統合的な自我」が、
自分の中に育ったためと言えます。
これは、後述しますが、
階層の高い心の機能が、
学習された結果ともいえるのです。

このように、身近な事例からも、
心の階層構造というものを、
想定することができるのです。


◆聖霊Ghostの働きについて

さて、映画の中では、
新約聖書の言葉が、
重要な意味合いを持って引用されます。

ところで、
宗教的・教義的な文脈とは関係ないところで、
初期のキリスト教徒たちに起こった、
変性意識状態(神秘的な体験)がいかなるものであったか、
というのは、興味深いテーマです。

特に、聖霊Ghost関する記述は、
キリスト教や宗教に限定されない、
心の普遍的な働きを感じさせるものでもあります。

ロシアの思想家ベルジャーエフは、
精神の自由に関する興味深い論考の中で、
聖霊Ghostにまつわる、さまざまな指摘を行なっています。

「四福音書、ならびに使徒の書簡を読むと、
パン・プノイマティズムの印象を受ける。
いたるところ、霊である、という感銘を強く受けるのである。
そこでは、いわゆる聖霊という教義は、
まだ出来上がっていないといっていい。
そういう教義は、使徒にもまた護教者にも見出すことはできない。
(中略)聖霊とは人間にとくに近いものである。
それは、人間に内在している。
その働きはひろく万人に及ぶものの、
それ自体は不可解な深秘に充ちている。
いったい、聖霊について教義を立てることができるであろうか。
私の考えによれば、それは不可能といっていい」
ベルジャーエフ『精神と現実』南原實訳(白水社)

「S・ブルガーコフはいみじくも言った。
聖霊がある特定の人間に受肉することはない。
聖霊の受肉は、いつも全世界にあまねく及ぶ、と。
精神―ひいては霊と聖霊との関係をくわしく規定するのが困難なのは、
まさにこのためである。
聖霊は霊のなか、心のなか、精神のなかに業を行なう」(前掲書)

「聖霊の働きは、どういう現実となってあらわれるだろうか。
抑圧され卑しめられた人間の実存が終わりをつげて、
心が生命にみちあふれ、高揚し、エクスタスにおちいることこそ、
聖霊の業のしるしである。
これは、聖書に記されている聖霊の特徴でもあれば、
また文化・社会生活における精神の特徴でもある。
新神学者聖シメオンの言葉がある。
聖霊にみたされた人間は、
文字に書き記された掟を必要とせず、と」(前掲書)

聖霊の働きは、
人形使いのGhostのように、
世界や、私たちの内外に、
あまねく、いきわたっているかのようです。


◆学習理論と心の階層

さて、ここから、
Ghostにまつわる、階層構造について、
学習理論を参考に考えてみたいと思います。

ところで、学習理論においては、
グレゴリー・ベイトソンの学習理論が、
有名なものとして、知られているところです。

一次学習、二次学習、三次学習と、
何かを学習する取り組みの中で、
直接的な学習(一次学習)に対して、
そのコンテクスト(文脈)についての学習も、
上位階層の学習として、
発達していくという理論です。
学習すること自体が、学習されるのです。

例えば、ひとつの外国語をマスターすると、
通常、第二外国語をマスターすることは容易くなります。
「外国語を学習する」こと自体(そのコンテクスト)が、
コツとして学習されたからです。
ある乗り物の運転を覚えると、
他のジャンルの乗り物の操縦も容易くなるのです。
整理すると、以下のような階層構造になります。

・0次(0) 学習がない
・一次(Ⅰ) 学習する
・二次(Ⅱ) 「学習する」ことを学習する
     「学習すること」についてのコンテクストを学習する
     →「行為と経験の流れが区切られ、
      独立したコンテクストとして括りとられる、
      そのくくられ方の変化。
      そのさいに使われるコンテクスト・マーカーの変化を伴う」
      ベイトソン『精神の生態学』佐藤良明訳(新思索社)
・三次(Ⅲ) 「『学習する』ことを学習する」ことを学習する
     →「学習すること」についてのコンテクスト化を
      再編集(再コンテクスト化)する。

 

二次、三次の学習は、その生体の任意の組織化(コンテクスト化)といえます。

通常、芸事や技芸に上達することは、
大体、このように推移します。
二次学習のレベルが上がると、
技は、グッと次元を超えてよくなります。
上位の学習能力が育っていくと、
下位の学習力自体も、的を得たものになり、
下位の能力を、ハンドリングする能力自体も高まるようです。

さて、ところで、興味深いことに、
ベイトソンは、精神医学的な研究から、
私たちの普段の心も、
習慣による、そのような二次学習の結果であると、
洞察している点です。
そして、それを変化させるのが、
より上位レベルの三次学習(学習Ⅲ)であるという点です。

二次学習発生の由来が、おそらく、
問題解決に費やされる思考プロセスの経済性である、
と指摘したうえで、以下のように記します。

「『性格』と呼ばれる、その人にしみ込んださまざまの前提は、
何の役に立つのかという問いに、
『それによって生のシークェンスの多くを、
いちいち抽象的・哲学的・美的・倫理的に分析する手間が省ける』
という答えを用意したわけである。
『これが優れた音楽がどうか知らないが、しかし私は好きだ』
という対処のしかたが、性格の獲得によって可能になる、という考え方である。
これらの『身にしみついた』前提を引き出して問い直し、
変革を迫るのが学習Ⅲだといってよい」(前掲書)

「習慣の束縛から解放されるということが、
『自己』の根本的な組み変えを伴うのは確実である。
『私』とは、『性格』と呼ばれる諸特性の集体である。
『私』とは、コンテクストのなかでの行動のしかた、
また自分がそのなかで行動するコンテクストの捉え方、
形づけ方の『型』である。
要するに、『私』とは、学習Ⅱの産物の寄せ集めである。
とすれば、Ⅲのレベルに到達し、
自分の行動のコンテクストが置かれた
より大きなコンテクストに対応しながら行動する術を習得していくにつれて、
『自己』そのものに一種の虚しさirrelevanceが漂い始めるのは必然だろう。
経験が括られる型を当てがう存在としての『自己』が、
そのようなものとしてはもはや『用』がなくなってくるのである」
(前掲書)

さきほど、
エンプティ・チェアの技法のセッションで、
何が起こるのかについて記しましたが、
その事態が、この引用した文章と、
響きあっていることが分かると思います。

その事態が、
心の二次学習のコンテクストを、
三次学習的に書き換える作業だということが、
見て取れるかと思います。
セッションの中では、
そのような階層構造が現れているわけです。


◆Ghostの変性意識状態(ASC)

このような学習の階層的構造が、
変性意識状態(ASC)下における、
Ghost(心)の、
気づくawarenessことを学習する中でも、
どうやら、育っていく可能性があるということが、
各種の観察からも、うかがえるのです。

特殊な状態下での、
気づくawarenessことが、
その二次学習的な能力も、
育てていくという可能性です。

実際のところ、
心理療法のセッションや、
瞑想における気づきの訓練、
明晰夢lucid dreamの中での気づきの取り組みは、
私たちの気づく能力を、
間違いなく高めていくものです。
その背後では、おそらく、
なんらかの高次元の学習も育っていると思われるのです。

実際、日常意識と変性意識状態を、
数多く行き来(往還)することで、
学習された「気づきの力」は、
非常に奥行きのある力を持ちはじめるのです。
その結果、
私たちの心における自由の実感を、
より高めていくこととなるのです。

また、関連でいうと、
しばしば、強度な変性意識状態の中では、
心理的に強烈な、治癒(癒し)の効果が現れることがあります。
聖書にある「聖霊Ghostにみたされる」などの、
宗教的な神秘体験などもそうです。

これなども、システム的に考えてみると、
潜在的な因子としてあった何らかの上部階層の働きが、
下部階層の情報プログラムの混乱状態(感情や思考の混乱)に対して、
それらの情報を整理・整列させるように働いた結果である、
と考えることもできるわけです。

私たちの中で、
「さらなる上部構造にシフトし」、連なる能力を、
育てて(学習して)いくことにより、
そのような治癒や、能力の拡張を、
期待することもできるわけなのです。


◆Ghostの囁き


さて、以上、
映画『攻殻機動隊』の設定を素材に、
心理療法から、変性意識状態(ASC)、
聖霊の働きから、学習理論と、
Ghost(心)の持つ可能性について、
さまざまに取り上げてみました。

これらは、
可能性としての仮説に過ぎません。
もし、何か響く点がありましたら、
ぜひ、ご自分の「Ghostの囁き」にしたがって、
その道の行方を、実際に、
探索・確認してみていただければと思います。



※気づきや、変性意識状態(ASC)についての、
より総合的な方法論については、拙著↓
『砂絵Ⅰ 現代的エクスタシィの技法』
をご覧下さい。



 





【PART1 Basic】ゲシュタルト療法
ゲシュタルト療法【基礎編】
ゲシュタルト療法【実践・技法編】
ゲシュタルト療法【応用編】
「セッション(ワーク)の実際」

【PART2 Standard】
気づきと変性意識の技法 基礎編
変性意識状態(ASC)とは
「英雄の旅」とは
体験的心理療法
NLP 普及・効果・課題
禅と日本的霊性
野生と自然

【PART3 Advanced】
気づきと変性意識の技法 上級編
変性意識状態(ASC)の活用
願望と創造性の技法
その他のエッセイ

【PART4 当スペース関係】
フリー・ゲシュタルトについて
セッションで得られる効果
なぜ、ゲシュタルトなのか
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底打ち体験と白い夜明け デイヴ・ビクスビー

さて、俗に、
底打ち体験、底つき体験などと、
言われている体験があります。

人が、長い期間に渡り、
心の落ち込みや、
鬱から逃れられずに、
先の見えない魂の暗夜を、
悶々と過ごした果てに、
ふと、なぜか、
下降の底に、
行き当たってしまうという体験です。

底なしだと思っていた状態に、
底があったわけです。

明けない夜が、
明けたわけです。

心の下降を行ききった果てに、
底を打ち、
魂の奥底から、
何かが浮上していたことに、
気づくわけです…

さて、そのような経験は、
このような言葉が、
一般の言葉にあることから考えても、
人々の人生経験の中で、
類型的に存在していることが、
うかがえるものです。

ところで、
拙著『砂絵Ⅰ 現代的エクスタシィの技法』の中では、
心理療法などに見られる、
人の心の変容過程について、
3つのフェーズに分けて解説しました。

また、それらの変容形態が、
神話その他の、文化的な事象にも、
普遍的に見られることについて、
触れました。

このモデルの中では、
底打ち体験、底つき体験は、
魂の暗夜であるフェーズ2を抜けた後の、
フェーズ3のはじまりに、
位置しています。
その転回点が、
底打ち体験なのです。

そこで、私たちは、
旅路の果てに、
自らの心の底の、
ひそかな重層性に、
気づくことになります。
 
心を熔かすような、
暗いプロセスの果てに、
厚みのある力や、
精神の内実が、
自分の心の底に、
育っていたことに気づくのです。

運命が、その労苦の意味を、
明かして来るのです。
これまでの長い間の苦労が、
救われるのです…

さて、
ここに一枚のレコードがあります。
昔は、アシッド・フォークなどに分類されていたものですが、
デイヴ・ビクスビー Dave Bixbyが、
1969年に録音し、1000枚ばかりプレスしたものです。
アシッド・フォークの作品の多くがそうであるように、
その後、一部の人々の間で話題となり、
徐々に知られるところとなったものです。

その歌の数々は、
ビクスビーが、
ドラッグ中毒から、
抜け出ることを通して感じた恩寵が、
赤裸々かつ清冽に、
刻まれたものとなっています。

そして、
実際のところ、
この作品におけるほど、
暗黒の中から抜け出た時の、
黎明の感覚を、
見事に造形した作品も、
他にないといっていいのです。

その白い夜明けを、
「はじめての朝」の感覚を、
奇蹟的に描けた作品となっているのです。

それは才能ばかりでなく、
ビクスビー自身が、
心の切実さ(切迫)から、
その経験の意味を、
結晶させることを強く願ったからでしょう。

ところで、私たちは、
さまざまな心の変容過程をくぐり抜けても、
時と共に、雑事にまみれる中で、
その心の決定的光景を、
しばしば風化させてしまいます。

ビクスビーの歌には、
そのような私たちの心の鈍麻を、
鉱石のように磨き、
白い夜明けを思い出させる、
どこか凛冽で、不思議な力があるのです。




 

 

   


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モビルスーツと拡張された未来的身体

さて、
拙著『砂絵Ⅰ:現代的エクスタシィの技法』の中では、
意識拡張の実践である「夢見の技法」を語る際に、
私たちの心理的投影と、身体性が、
どうかかわるのかについて、
紙数を割きました。

メルロ=ポンティのいう、
「画家は、
その身体を世界に貸すことによって、
世界を絵に変える」
『眼と精神』木田元他訳(みすず書房)
という言葉などを素材に、
私たちが、世界を、
投影した身体性を通して、
理解するその仕方について、
分析をしてみました。

そして、そのことが、
夢見の技法として、
どのように利用可能なのかについて、
考察してみました。

さて、ここでは、
そのような文脈で、
拡張された(投影的な)身体性と、
意識拡張との関係について、
考えてみたいと思います。


◆モビルスーツの身体領域

「モビルスーツ」とは、
一時代を画したアニメ作品、
『機動戦士ガンダム』の中に登場する、
戦闘用の機体(ロボット)のことです。

アニメ作品『機動戦士ガンダム』は、
初回作品と、その玩具(プラモデル)が、
一世代の熱狂を引き起こし、
シリーズ化されていったものです。

また、その作品の物語設定についても、
独特の仕掛けが、さまざまあり、
セカイ観を売り物にする、
その後のアニメ作品群の先駆けになったとも、
いえるかもしれません。

しかし、筆者が、
ここで、特にテーマとしたいのは、
「モビルスーツ」というロボット(機体)の、
拡張された身体性としての意味合いなのです。

ところで、
モビルスーツは、
それまであったアニメ作品、
『マジンガーZ』のような、
偶発的なロボットとは、趣を異にし、
未来国家の量産型の軍事兵器として登場します。

元々は、番組から玩具をつくり出す、
マーケティング上の必要性があったわけですが、
物語の設定上でも、
高度に発達した未来社会の戦争においても、
なぜ、ロボット同士の白兵戦が必要であるのかという、
納得性(設定)を形成することで、
高機能化し、進化していくモビルスーツの、
必然性をつくり出すことになったわけでした。

ところで、一方、
実際、後に、玩具としてヒットするわけですが、
モビルスーツの、
あの美的で、不思議なデザインがなければ、
時代の(その後の)熱狂を、
つくり出すこともなかったとも思われるのです。

特に、玩具商品のラインナップの大部分であった、
ジオン軍のモビルスーツの持つ異形性・新奇性、
ガウディの作品のような、曲線を多用した、
あの有機的なデザインが無ければ、
そこまでの支持は得られなかったとも類推されるわけです。

また、玩具自体について言えば、
それまでのプラモデルにあまりなかった、
関節の「可動性」を高めた点も、重要なポイントでしょう。
子どもたちは、自らの身体性を、人形に投影するので、
人形の可動性の高さは、
そのまま、子どもたちの感覚の自由度を、
高めることにもなるからです。

現在でも、フィギュア商品の、
可動域の広さが商品の売りとなるのは、
そのような意味合いだとも考えられるのです。


◆拡張する未来的身体と、意識の拡大

さて、物語の展開にしたがって、
軍事兵器としてのモビルスーツは、
次々と高機能化し、
進化していくわけですが、
興味深いことは、
その進化にともなって、
物語の終盤には、
進化したパイロット(ニュータイプ/超能力者)も、
現れて来るということです。

ストーリー的には、
偶然、特殊進化(超能力化)したパイロットに合わせて、
進化させたモビルスーツが、
作られたようにも見えます。
物語的には、
宇宙空間に出た人類が、
自然に進化していくというイメージです。

しかし、通常、
このような生物の能力進化とは、
環境と生体との相互作用の結果であり、
どちらかが原因であるとは、
一概に特定できないものなのです。

フロー体験に見られるように、
環境と、表出(表現)と、内容(生体)との、
ギリギリの極限的な相互フィードバックの中で、
生成して来るものなのです。

つまり、
物語の設定でいえば、
宇宙における戦争・戦闘という極限状態の中での、
拡張された表出身体(モビルスーツ)と、
内容(パイロットの知覚力・意識)との、
高度的な相互フィードバックの中で、
生成して来るものなのです。

モビルスーツがなければ、
ニュータイプも生まれなかった。
こう考える方が、
面白いと思います。

宇宙空間を、高速で稼働する、
機械の身体があったからこそ、
知覚能力の進化が、
加速されたというわけです。

フロー体験について分析されるように、
通常、私たちは、
挑戦的な、困難な状況の中での、
的確な(拡張された)身体活動によって、
知覚力や意識が拡張されていくわけです。

そのような事柄が、
この物語作品の中では、
一定の納得性をもって描かれたために、
一見無理やりで荒唐無稽にも見える、
ニュータイプの設定が、
表現としての強度を持ちえたのでした。
事実は、
そんなにニュータイプな事柄ではなかったのです。
むしろ、古典的(神話的)ともいえる事象だったわけです。


◆日常生活におけるモビルスーツ(拡張する先導的身体)

さて、ここで、
焦点化したい事柄は、
モビルスーツのような、
宇宙空間において、高速で稼働する、
疑似身体(拡張された)が、
ニュータイプ的能力を覚醒させ、
拡張させていったという事柄です。

新奇で、一歩先を行く表現活動(形態)が、
私たちの拡張された知覚力や意識形態を
引き出していくという点です。

そして、
この能力の特性は、決して、
SF的な事柄に限定されるものでは、
ないのです。
この日常的現実で、
普通に起こっている事柄なのです。

さて、私たちは、
身体という場で、
世界と出遭っています。

そして、この身体は、
肉体に限定されるだけでなく、
モビルスーツにように、
投影的で、創造的な活動領域全般に、
延長されているものなのです。

そのため、
私たちが、
自分の知覚力や意識を、より拡張し、
能力をより高めていきたいと考える場合には、
活動しているフィールド(場)を、
私たちの能力が、
引き出され(拡張され)やすいように、
焦点化して、
設定してしなければならないのです。

宇宙(人生)を高速で横切るかのように、
自分に課す日々の活動内容や、
人生の目標など、
自分の限界を超えるかのように、
全身全霊で取り組まざるを得ないように、
場や標的を創り、
急襲していく必要があるのです。

それには、
戦闘のような、
つねに、気づきawarenessが求められる、
強度をはらんだ持続性が必要です。

徹底的に追い求めることにより、
能力というのは、
一線を超えた力を、
発揮はじめるのです。

そして、
そのような強度の果てに、
困難や既知の自己を、
超えはじめた時に、
私たちは、
人生の新しい次元(宇宙)を、
見出しはじめることができるのです。


※気づきや、変性意識状態(ASC)についての、
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才能における相補性 NLP(神経言語プログラミング)とビートルズ

さて、ここでは、
異質な才能の間における、
相補性や相乗性ということについて、
考えてみたいと思います。

以前、別のところで、
NLP(神経言語プログラミング)の創始者、
パンドラー氏とグリンダー氏における、
類推される役割分担について触れました。

ところで、NLPは、
優れた人の持つ「天才性(才能)」をモデリングすることや、
その再現可能性について、多くを語ります。
しかしながら、
バンドラー氏とグリンダー氏が決別した後の、
個々の(ソロの)仕事を見ると、
2人が共同で仕事をしていた時代ほどは、
創造的なことを行なっていないというのは、
とても暗示的です。
事態は、そんなに簡単な事柄ではないわけです。

これらの事例について分析することで、
私たちは、創造性の秘密について、
一段深いレベルで把握できる事柄があります。
そして、それは、
私たちの内なる性向への意識化を生み、
自己の創造性(行為)を、
一段階進化させることにもつながるのです。

 
◆NLPの場合

さて、卓越した能力を持つ対象者を、
モデリングすることを標榜するNLPですが、
そのアイディアの出どころは、おそらくは、
バンドラー氏の、優れたモノマネ的な才覚に、
由来するものと推察されます。

真似ることが、学ぶことの始まりだとは、
私たちが子どもの頃によく聞かされた言葉です。

さて、類推ですが、バンドラー氏は、
身体的、無意識的なレベルで、
対象者の内的世界に入り込み、
それを把握し、再現する能力に長けていたのだと思われます。
(初期の場合は、パールズやエリクソンが対象でした)

「サブモダリティ」のアイディアが、
バンドラー氏からもたらされたというのは、
大変示唆的です。
彼自身が、対象者を、内側から把握する際に、
そのような内的な表象世界(像)を感じ取り、調整しながら、
対象者の「見て・聞いて・感じている世界」を、
再構成していったのでしょう。
そして、そのベスト・パフォーマンスを、
盗んで(再現して)いったのでしょう。

一方、グリンダー氏は、そのような微細な情報群を、
対象化し、構造化し、記述する能力に、
長けていたのでしょう。

そして、この2人の才覚の組み合わせにより、
ブラック・ボックスのように見なされていた、
「天才(卓越した能力)」を、
盗み取り、再現可能なものにするという、
初期のNLPのアイディアが生まれたのだと思われます。

いわば、アソシエート(同一化)とディソシエート(脱同一化)を、
組み合わせた技法です。
そして、これは、原理の組み合わせであると同時に、
2人の優れた才能の組み合わせだったわけです。

そして、
この「同一化する力」と「対象化する力」の、
対極的(両極的)な力を結合させ、振幅させ、
ともに優れて発揮させたところに、
初期のNLPの創造性があったわけです。
そして、2人の決別により、
片翼飛行となり、
当初の創造的な沸騰性を、
失ってしまったわけです。

ところで、このような、
創造的要素における役割分担は、
共同創作の現場では、
つねに起こっているものです。
おおむね、無意識的になされているため、
自覚されてはいませんが。


◆ビートルズの場合

たとえば、ビートルズのような、
並外れたアーティストの場合でも、
そのような事態は起こっています。
ここでは、そのことを事例に取り上げて、
このことを少し見ていきたいと思います。

NLP同様に、
ビートルズにおいても、
グループ解散後のソロの仕事と、
グループ時代の作品に、
優劣の差があることは、
明瞭にわかります。
ビートルズという集団性が、
その天才性の要件だったわけです。

そして、ここでも、
メインのソングライター・チーム、
ジョン・レノンと、ポール・マッカートニーの間に、
おおよその役割分担が類推されるのです。

さて、彼らはともに、
美的な創造能力において非凡なものを、
持っていたわけですが、
(また共通する似た点を持つが故に、
先鋭に共振したわけですが)
その性向として、違いがありました。

2人の中では、
ジョン・レノンの方が、
より精神的で、作家的な要素を
強く持っていたといえるでしょう。

一方、ポール・マッカートニーの方が、
芸術家的で、音楽家的な要素を、
強く持っていたといえるでしょう。

そして、ジョン・レノンの持つ、
剥き出しの直接性や、トリックスター性(新奇性、悪戯性)が、
その場に留まることや、同じことを繰り返すことを、
拒否する方向を推進しました。

一方、ポール・マッカートニーの方は、
より美的で、完璧な音楽的造形の才能を持っており、
一種、非人間的(天上的)な均整や、
作品のより完全な結晶度を駆動することになったわけです。

「ビートルズのレコーディングとは、ポールの曲の録音。
余った時間で、他の人の曲を録る」とは、
ジョンのボヤキですが、
観念したイメージ通りのものを完全に仕上げたい、
(そのために何回も録り直す)
ポールの非妥協的な情熱をうかがわせます。

そして、そのような性向の二人、
ジョンの絶えず問いかけ、
突破する先鋭性、超出性と、
ポールの並外れた強度で、
完璧なものを造形する才能が、
激突し、補い合い、相乗効果を生むことで、
ビートルズの斬新で発明的なアウトプット、
時代の音楽を刷新する、
新奇で美的な造形が創り出されていったわけです。

このことは、
二人が分かれた後の
個々のソロの作品を見ることで、
より明瞭に見て取れます。

ジョンのソロ作品は、
作家的には、どれも興味深く、
卓越した表現と内容を持っていますが、
作品の結晶度としては、
内容に較べて、
どこか詰め切っていない感じ、
惜しい感じが残っています。
もっと完璧な結晶度を実現したら、
もう一段輝きを増したろう、
もっと並外れたものになったろうと、
思うものばかりです。

一方、ポールのソロ作品は、
どれも均整の取れた
美的な結晶体としては、
申し分ないのですが
どこか手馴れた職人芸と見える面があり、
物足りなさが残ります。
芸術が必要とする、
一閃のような先鋭性や、過剰性がなく、
人格的な面では、どこか凡庸な面さえ感じさせます。
ポールが、音楽的な天才に比べて、
どこか侮られがちなのは、
そのような性質にも由来するのでしょう。
一方、ジョンの方は、
その早世のせいもありますが、
(実態から少しずれた)
カリスマ(セイント)的なイメージを残したわけです。

そして、つくづく思われるのは、
ビートルズにおいては、
この二人の持ち味が、
絶妙なバランスで、融合し、激突し、
共振することで、
飛躍的で、超出的なアウトプットが
生み出されたのだということです。


さて、ところで、
私の中には、
ここで見たような対極(両極)的な能力が、
多く存在しています。
私たちの中には、
ジョンやポールがおり、
バンドラー氏やグリンダー氏がいるということです。
また、その他、多くの才能の対極的なセットが、
存在しています。

そして、私たちが、
一次元高いアウトプットを出そうと思う場合には、
このような、
自己の、内なる両極性(能力)を意識することが、
重要となるのです。

「天才性」のモデリングという意味でも、
自己の強い部分を促進・増幅し、
一方、自分の弱い部分を育成し、鍛錬することが、
必要なわけです。
これは、日々、意識して、
自分の性向に取り組むことで、
確実に変化を起こせる事柄です。

そのことで、私たちは、
自己の創造性を、
最終的には、
より心の全体性を含んだ、
精神の根源的な発現に変えることができるのです。

そして、
その結果としてのアウトプットも、
当然、より高い次元の内実を、
持つことになるのです。


 

【PART1 Basic】ゲシュタルト療法
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意識的な生の効能

さて、今回は、

自己の限界を超えることと、

意識的な生の効能について、

書いてみましょう。

 

以前、

ゲシュタルト療法と、

アウトプットすることについて、

その関係を書きました。

ゲシュタルト療法の、

ワーク(セッション)の特徴である、

実験的な表現や、アウトプットが、

クライアントの方の、

それまでの人生の中での、

表現の境界を超え、

小さな越境となり、

自己の心理的プログラミングを、

書き換えていくことになる、

という事柄についてです。

 

さて、通常、

一般的な人生においては、

そのような限界を超えていく体験は、

自然発生的に生じます。

(そのため、必ずしも、

機会は多くないのです)

 

それらの多くは、

危機的な状況によるものです。

 

そのような場合に、

人は、事件に背中を押されるように、

行動をせざるえなくなり、

図らずも、

自分の表現の限界を超え、

心理的プログラミングも、

書き換えられることになるのです。

 

しかし、

それらは、大概、

望まれない事件的な出来事において、

生じる体験であり、

いたしかたなく、

受動的に発生する事柄です。

 

意欲的に、能動的に、

達成されるという類いの事柄では、

ありません。

 

そのような意味では、

たとえば、心理学の方法論などを使って、

自己の人格や能力、行動力を、

変化の対象にするというのは、

少し風変わりな、

「方法論的な生き方の取り組み」とも、

いえるものです。

 

そして、それは、

自らの人生を、

偶然任せではなく、

いくらか、

自らの探求的な統制のもとに

置いていこうという、

意欲の表れともいえます。

 

しかしながら、

結果的には、

このような人々は、

成長していきます。

 

日々を漫然と過ごすのではなく、

自己の成長に対する、

意識的な気づきとともに、

あるからです。

 

日々、たえず、

自己の存在と限界に気づき、

それを乗り越えようと努力する、

心の働きとともに、

あるからです。

 

そのような気づきと、

指向性自体が、

人生を濃くし、

人を成長させていくのです。

 

そのような人は、

長い時間軸で見た際に、

人生をぼんやりと過ごした人に較べて、

格段の差で、彼方の地点に、

到達してしまうものです。

 

同じ年齢の人間が、

同じだけの経験値を、

持っているわけではないのです。

その濃度は、

意識的な探求の内圧によって、

大きく変わるものです。

 

これは、

私たちの人生そのものの、

大いなる秘訣であるともいえるのです。

 

そのため、

意識的に生きるということは、

苦労多く、面倒臭いことではありますが、

また、実りについても、

大変豊かなものがあると考えてよいです。

 

 

【第一部 ゲシュタルト療法関連】

ゲシュタルト療法【基礎編】

ゲシュタルト療法【実践・技法編】

ゲシュタルト療法【応用編】

「セッション(ワーク)の実際」

体験的心理療法

NLP 普及・効果・課題

 

【第二部 気づきと変性意識】

変性意識状態(ASC)とは

「英雄の旅」とは

禅と日本的霊性

野生と自然

 

【第四部 当スペース関係】

フリー・ゲシュタルトについて

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X意識状態(XSC)と、意識の海の航海について


さて、当サイトでは、
変性意識状態(ASC)について、
さまざまな検討を行なっていますが、
当スペース独自の用語で、
X意識状態  X states of consciousness
というものがあります。

この意識状態は、

特に、新しい意識状態を定義したものでは、
ありません。

それは、日常意識と変性意識状態の間にあり、

その肯定的で、創造的な状態が働いている状態を指して、

使われている言葉です。
 

単なる変性意識状態と呼んでしまうと、

漠然としすぎて、その働きの焦点が定まらない。

一方、 フロー体験ほど、

完璧な調和性や一貫性を持っていない。

しかしながら、その間の帯域の中に、

創造的で、拡張された意識状態というものが、

さまざまに散在しているのです。


喩えると、
日常意識とは、
人工池の上に、小舟を浮かべた状態です。
一方、強度な変性意識状態(ASC)とは、
海に溺れかけている状態です。
そして、
X意識状態とは、
海を泳いだり、
海を航海している状態といえます。

 

X意識状態とは、

変性意識状態(ASC)と日常意識とが、

部分的に連携され、交錯し、

創造的に、活かされている意識状態なのです。

 

ところで、現実的な問題として、

変性意識状態(ASC)を考える際に重要な点は

それらが、日常意識と、

一定の統合的なつながりを持ててはじめて、

生活の中で、

創造的な意味(価値)を持つということです。

 

散発的な変性意識状態は、多くの場合、

興味深い挿話以上には、

なかなかなりません。

不思議なサイケデリック体験は、

世界中で体験されているのに、

創造的なアウトプットは、わずかなわけです。

 

X意識状態(XSC)とは、

そのような意味で、

日常意識と変性意識状態とが、

情報的交流や、凝集された焦点化を、

持っている状態です。

その交流において、

学習の階層があがった状態と、

いえます。

当スペースで別に使う

「夢見」という概念がありますが、

それと近い状態ともいえます。

(夢見の技法は、より焦点化された状態を想定していますが。

拙著『砂絵Ⅰ: 現代的エクスタシィの技法』参照)

 

そして、これは、

両方の意識状態を、
数多く行き来(往還)する体験を持ち、
その往還する感覚を鍛え、
訓練的に習熟することで、
獲得できる状態であるのです。


その訓練の中で、
日常意識と変性意識とが、
情報的交流や交錯を持ち、
二者の間に、統制された往還が、
なされている状態が、
できてくるのです。

さて、ところで、

プロセスワーク(プロセス指向心理学)では、

極限意識状態extreme states of consciousness
と呼ばれている意識状態があります。
それは、精神病的な圏域、いわゆる狂気の状態のことです。
通常は、一元的に否定的に価値づけられる、その状態を、

extremeと呼ぶことで、
脱価値化して、中立化しようとしたのだとも類推されます。

このような中立化は、実践的に、

その意識状態をとらえるのに役立ちます。


さて、X意識状態は、
extreme states of consciousnessのように、
場合によっては、コントロールしずらい、

極端な力の流出でありつつも、
主体に、創造的な価値をもたらす状態です。
しかし、部分的には、極限意識状態の一部とも重なる、
危険をはらんでいる意識状態ともいえます。

(変性意識状態自体は、良いものでも悪いものでもありません。

創造的な事柄の中でも、犯罪の中でも働いているものです)

 

極限意識状態(extreme states)においては、
喩えると、主体が、狂気の荒波や大波に、
大部分、溺れてしまっているとするなら、
X意識状態(X states)は、
危うくであれ、均衡を維持しつつ、

その大きな波を泳いでいたり、
波に乗っている状態といえます。
操作的・統御的に、

肯定的なエクスタシィ(意識拡張)や、
創造性発現の要素を、
保持している状態です。

→参考事例「「聖霊」の階層その3 意識の振動レベル」

 

エクストリーム・スポーツのスキルのように、
危険と隣りあわせで、

変性意識から極限意識の間を、
きわどく波乗りしている状態ともいえます。

そのため、エクストリーム・スポーツを、
Xスポーツと呼ぶように、

この状態を、当スペースでは、
Xステーツ(X states)と呼んで、
生活の中で現れる、この種の体験領域を、
創造的に焦点化していくことや、

そのスキルを磨くことを、

行なっているのです。



※気づきや夢見、変性意識状態(ASC)についての、

 統合的な方法論は

 拙著『砂絵Ⅰ 現代的エクスタシィの技法』

 →内容紹介

 

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クライストと天使的な速度

サバイバル的な限界の超出 アウトプットの必要と創造性

 

※変性意識状態(ASC)の活用に特化したサイト、

 →「Xステーツ・テクノロジー」ご覧下さい。

 


Xステーツとエクスタシィの技法




【PART1 Basic】ゲシュタルト療法

ゲシュタルト療法【基礎編】

ゲシュタルト療法【実践・技法編】

ゲシュタルト療法【応用編】

「セッション(ワーク)の実際」

 

【PART2 Standard】

気づきと変性意識の技法 基礎編

変性意識状態(ASC)とは

「英雄の旅」とは

体験的心理療法

NLP 普及・効果・課題

禅と日本的霊性

野生と自然

 

【PART3 Advanced】

気づきと変性意識の技法 上級編

変性意識状態(ASC)の活用

願望と創造性の技法

その他のエッセイ

 

【PART4 当スペース関係】

フリー・ゲシュタルトについて

セッションで得られる効果

 なぜ、ゲシュタルトなのか

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啐啄同時と、創造の機


さて、ここでは、

「啐啄同時(啐啄同機)」について、

書いてみたいと思います。

 

啐啄同時は、禅語であり、

有名な『碧巌録』の中にある話です。

 

啐啄とは、

つつくことを意味しており、

啐啄同時とは、

雛鳥が卵から孵る場面の描写と、

なっています。

 

啐とは、

雛鳥が、内側から卵の殻をつつく合図、

啄とは、

親鳥が、(雛鳥が、卵の外に出てくるのを助けるために)

外から卵の殻をつついて割ることをです。

そして、

この啐啄は、

同時でなければならないということを、

意味しています。

 

啐がないのに、

親が、卵の殻を割ったら、

育っていない、中の雛は死んでしまいます。

また逆に、

啐があったのに、

親が、卵の殻を割らなかったとしたら、

外に出られない、中の雛は死んでしまいます。

 

そのため、

啐啄は、同時でなければならないというのです。

啄は、

早すぎても、遅すぎても、

いけないのです。

 

『碧巌録』の中では、鏡清禅師の弟子が、

禅師に、悟りを手助けしてほしいと訴える、

そんなエピソードとして語られます。

 

そしてまた、この喩え話は、

教育における、タイミングの妙としても、

よく引かれます。

 

心理療法の世界においては、

クライアントの機が熟した時に、

「ちょうどその時に」

ファシリテーターが介入しないと、

効果的な介入にはならないことの、

喩えに使われます。

遅くても、早くても、それはダメなのです。

クライアントを活かせないのです。

 

さて、以上見たような事柄は、

実は、自分(個人)の中における、

創造性を考える場合においても、

示唆を投げかけてくれるのです。

 

以前、「大地性と待つこと」として、

私たちの、自分自身の、

成長してくれない心に対して、

待つことの重要性について触れました。

 

私たちの心が「啐」として、

内側からノックして来るまで、

忍耐して、待たなければならないこともあるのです。

気が急いて、卵の殻を割ってしまったために、

中の、まだ十分の育っていない心の力が、

死んでしまうこともあるのです。

外に出るのに、

十分な保育・養成期間というものが、

あるのです。

 

また一方、逆のケースもあります。

 

「啐」として、

内側から、心の創造力がノックしているのに、

外に出してあげなくて、

中の心が、死んでしまう、

ということもあるのです。

 

以前、「アウトプットの必要性」についても書きましたが、

現代の社会は、インプットすることが通例で、

個人的体験の価値や、個の創造性の発現が、

ないがしろにされている社会です。

そのことのせいで、

個人が、無力化し、衰弱している社会です。

現代においては、この側面での問題が、

多いのでは、ないでしょうか。

 

しかし、啐が起こり、

内部の機が熟しているのに、

創造的なアウトプットをしていかないと、

殻の中の心は、死んでしまうものです。

 

このような場合、

自分で、自分に、場や機会を与えて、

高まる内部の心や創造性を、

殻の外に、解き放っていくことが、

必要です。

 

これは、現代における、

個人の無力化や閉塞感の中で、

当スペースが、

特に重視している側面でもあります。

 

啐啄同時の喩えは、

そのような心の創造性の機微を、

教えてくれてもいるのです。

 

 

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弟子に準備ができた時、 師が現れる

「弟子に準備ができた時、

師が現れる」

という言葉があります。

 

この不思議な共時性は、

実際に、働いている実感があります。

 

ただ、対人関係を、

心理学的な投影関係の中で考えると、

このことは、

案外、普通の事柄とも言えます。

 

人は、

自己の心理的な成長とともに、

自分の中に芽生えて来た、

創造的な因子を

(鏡に映すように)

外部の他者に投影するようになり、

他人の優れた美質を、

見出しやすくなるとも、

言えるからです。

つまり、

内実の成長とともに、

他者の中に、

「師」(未来の可能性の自分)、

を見出しやすくなる、

というわけです。

 
 

………………………

 

さて、私たちの中には、

「複数の自我」がありますので、

それぞれの自我に、

対照するような形で、

外部の他者に、

萌芽しつつある、

その自我要素を見出していきます。

 

私たち自身が、

自己の中に、未だ端的に感じ取れない

心(自我)の要素を、

他者の上に、見出していくのです。

 

そして、

それらの他者との交流を通して、

その要素(自我)が、

だんだんとくっきりと育っていき、

自己の重要な属性に、

なっていくのです。

 

そして、

成長の果てに、

かつては、自分が目標とした人の、

或る美質が、

自分の中にも育って来たことを見出して、

深い感慨を得ることになります。

 

ヘルマン・ヘッセの小説、

『デミアン』は、

タイトルどおり、

魔霊(demon)のような、

不思議な友人()をめぐる、

ある青春の物語です。

 

批評家のブランショも指摘するように、

この物語自体が、

話り手の白昼夢であるような、

不思議な肌触りを持った小説です。

 

描かれる出来事も、

通常の日常的現実を超えるような、

どこか夢幻的な光輝を帯びています。

 

さて、その物語は、

戦地で砲弾を浴びた、

(死に近くいる)

主人公が、自分の心の中に、

かつての卓越した友人()のような、

自己の存在の姿を、

見出すところで終わっています。

これは、

上記で見たような事柄を考えると、

納得的な結末だといえるでしょう。

 

そして、

そのようなことは、

実際にあることなのです。


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夢見の技法 コルトレーンとヘンドリックス

まったく別のところで、

似たようなエピソードに行き当たると、

その背後にある、

普遍的な共通原理について、

思いを馳せることとなります

 

伝記的なドキュメンタリー映画を見ていて、

直接的には、関係のない2人に共通している。

あるエピソードに気づいて、

興味深く感じた記憶があります。

 

「彼が、会場に着く(いる)とすぐわかるんだ。

(演奏)が聞こえたからね」

と、友人たちが語る挿話です。

 

その2人とは、

ジミ・ヘンドリックスと、

ジョン・コルトレーンです。

 

彼らは、片時も、

ライブ会場の控え室でも、

演奏をやめなかったのです。

 

コルトレーンについては、

ライブの前に、すでにライブ1本分くらい、

吹いてしまうという、

エピソードもありました。

 

同時代(60年代)を生きた、

彼らは、ともに、黒人であり、

霊感に満ちた即興演奏を旨とし、

その卓越した創造力で、

それぞれのジャンル(ロック、ジャズ)の、

変革者となった人物です。

 

彼らは、なぜ、片時も、

演奏をやめなかったのか。

 

拙著の中では、

「夢見の技法」と題して、

私たちの人生を貫く、

夢の力とその扱い方について、

取り上げています。

 

2人はなぜ、

演奏をやめなかったのか。

 

筆者は、それを、

演奏を通す中で、

彼らを貫いていく、

電流のような夢の力のせいだと、

考えています。

 

演奏を通す中で、

メッセージのように、

現れてくる、

〈何か〉をつかみ、

具現化し、完了するために、

演奏(創造)するしかなかったのです。

 

彼らが、ともに燃え尽きた者の、

印象を与えるのは、

彼らを、内側から焼いた、

高圧電流のような、

強烈な夢の力(熱)を、

私たちも感じるからです。

 

芸術において、

ある内的な意味の単位とは、

自律的な生命をもって現れ、

完了されていきます。

 

演奏なりも、

音楽の自律的生命の、

この十全な発現をもって、

意味のまとまりとして

完了されます

 

その内的なプロセスは、

ホロトロピック・ブリージングの際に見た、

「オルガスム曲線」と同様です。

 

また、ゲシュタルト療法でいえば、

現れてきた未完了な感情を、
表現し、完了するプロセスと

同様の事柄です。

 

コルトレーンや、

ヘンドリックスは、

普段から、そのような、

たえず現れてくる

強度の夢の力に、

貫かれていたのでしょう。

 

それを、

完了させていくためには、

演奏し、表現し、

模索し、創造するしかなかったのでしょう。

アウトサイダー・アートについて触れたところで、

それらのある種、

非人間的な無尽蔵の力について、

書きました。

 

それは、容赦ない、 

根源的なエネルギーです。

 

コルトレーンや、

ヘンドリックスは、

そのような根源的なエネルギーに、

より近く、生きていたのでしょう。

 

また、ある意味、

彼らのたえざる演奏・創造的実践が、

彼らを、その近くに生きることを、

可能にしたともいえるのでしょう。
 

彼らのエピソードは、

深い創造性と夢見の技法について

考える際に、さまざまなヒントを、

与えてくれるのです。

 

 

 


 


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マイルス・デイヴィスの存在力・共振力

さて、

拙著『砂絵Ⅰ:現代的エクスタシィの技法』の中では、

その人の持つ「存在」の力が、

独特の力を発揮する事柄について、

少し触れました。

 

ここでは、

そのような存在力と創造性とに

関わる事例として、

マイルス・デイヴィスを、

取り上げてみたいと思います。

 

マイルスは、著名なジャズ・ミュージシャン、

トランペット奏者ですが、

マイルスを聴く人が、不思議に思うことがあります。

 

マイルスとともに活動にした、

数多い共演者たちは、

なぜ、彼らの生涯最高の演奏を、

しばしば、マイルスとの共演で持つのだろうか?

彼らは、マイルスから、

どのような影響を受けるのだろうか?と。

 

ここに、創造性に関わる、

存在の深い力についての秘密が、

あるように思われます。

 

このことに、光を当てる、

興味深いドキュメントがあります。 

1970年のワイト島の、

ミュージック・フェスティバルの映像、

『エレクトリック・マイルス』に付けられた、

生涯の共演者たちによる、

マイルスについての無数の証言です。

 

そこには、創造性にまつわる、

さまざまなヒントが、

当事者たちから、

生々しく語り出されています。

 

「あれほどパワフルな人と同じ空間にいると、

自分のパワーも自然に出てくる」

  デイヴ・ホランド

 

「歴史を振り返っても大勢が言うと思う。

マイルスとの演奏は、

誰も、他で再現できなかった。

その時しかできなかったんだ。

変わったわけじゃない。

マイルスと一緒に演奏した時は、

彼に力を引き出されたんだ」

  デイヴ・リーブマン

 

「マイルスは素晴らしい。

ずっと自分を与え続けたんだ」

  ジャック・ディジョネット

 

「マイルスは僕らに何かをくれたんだ。

言葉では表せないものを。

マイルスと組んだ人と会って、

マイルスの話題が出ると、

思わず皆、頷くんだ。

共通する体験があるから分かるんだ。

マイルスとの仕事で得たものは、

上手く言葉にできないけれど

なんというか、

一度経験すると、忘れられない」

  ハービー・ハンコック

 

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アウトサイダー・アートと永遠なる回帰

adolf-wolfli

Adolf Wolfli (1864-1930)




 

アウトサイダー・アートには、

さまざまな魅力があります。

 

その魅力を語る、決定的なロジックがないにも関わらず、

多くの人が、そこに強い魅力を感じているようでもあるので、

アウトサイダー・アートには、

私たちの精神に、独自に働きかける、

要素があるのだと思われます。

 

筆者にとって、

アウトサイダー・アートの魅力とは、

まず第一に、植物や昆虫のような、

原初の自然を予感させる、

その無尽蔵さにあります。

 

とりわけ、その夢魔のような、

尽きることない「反復性」です。

同じ作品内における形態の反復もそうですし、

同じ(ような)作品を、

何千枚何万枚も作り続ける

無尽蔵の反復エネルギーです。

一種、非人間的なエネルギー、

抑制のない徹底的なエネルギーを、

感じる点です。
 

実は、それこそ、

私たちを駆り立て、突き抜ける、

「夢見の力」の特性と考えられるからです。

 

そのため、アウトサイダー・アートの

反復性・回帰性に触れていると、

私たちは、一種、変性意識状態別種の意識を、

まざまざと感じさせられる気になります。

夢魔のような変性意識(ASC)に、

巻き込まれていくのです。

 

かつて、ハイデガーは、

ニーチェの永劫回帰の思想を、

「等しきものの永遠なる回帰」と、

呼びました。

 

ニーチェの永劫回帰の思想とは、

この今ここの出来事が、この瞬間が、

まったく変わらぬ姿で、

永遠に回帰するという、

夢魔のような、容赦ない存在肯定の思想です。

 

(そのため、ニーチェは、

ツァラトゥストラに、

「救済」とは、過去の「そうあった」を、

「私がそう欲した」に変えることだと語らせたのです。

私たちが、永劫回帰を生き抜くには、

変わらない、今ここを追い抜くくらいの、

肯定の強度が必要となるわけです)

 

アウトサイダー・アートの或る部分には、

「等しきものの永遠なる回帰」と似た、

生の厳粛な肯定性、無尽蔵さがあるのです。

 

さて、魅力の第二の点として、

「徹底的な直接性」という要素があります。

これは、植物的・昆虫的な無尽蔵さ、

その絶対的な肯定性とも重なりますが、

文化に飼いならされていない、

剥き出しの直接性と無尽蔵さを、

感じさせられる点です。

(なま)の沸騰の感覚です。

 

創造性の根底にある、

容赦ない〈自然〉の直接性を、

感じさせられる点です。

 

そして、上記の二つを通して、

私たちは、不思議な〈郷愁〉に導かれます。

それは、幼児の、

物心つくかつかない頃に感じていた世界のようです。

現在でも、私たちは、

このような、生の基底部の感覚を、

生の原型の姿として、

どこかに持っているような気がするのです。

 

アウトサイダー・アートの世界は、

そのようなことを、

私たちに感じさせてくれるのです。



※変性意識状態(ASC)や夢見への、

より統合的なアプローチ・方法論は、

 拙著『砂絵Ⅰ  現代的エクスタシィの技法』をご覧下さい

 

 

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サバイバル的な限界の超出 アウトプットの必要と創造性

さて、現代の生活において、
個人の体験の中で、
「物事をインプットすること」と、
「物事をアウトプットすること」を、
較べた場合、
「インプットすること」の方が
圧倒に多いのではないでしょうか。

一般に、私たちの中では、
何かを享受して、時間を消費することの方が、
大勢を占めているのではないかと思われます。
現代は、何もせずとも、
膨大な物事や情報を与えられてしまう環境に、
なっているからです。

しかし、
このことは、私たちから、
生きる力・創造力を、
奪うことでもあります。

個(個人)が生きる能力を拡充させる、
という点で考えた場合、
アウトプットする(外に出す)ことを鍛えることこそが、
私たちの生存力、
生きるサバイバル能力を、
高めていくといえるのです。

インプット、つまり、
他からの享受ばかりをしていると、
私たちは、
自己の内にあるものを生成させていく能力や、
自らを乗り越える力を、
退化させていくこととなります。

というのも、
アウトプットする(外に出す)ことは、
自己の内部にある、
リソース(資源)やスキルを練りあげ、
他者に、価値として展開していく、
という意味合いで、つねに、
「自己の価値」や、
「自己の限界」に、
直面する作業となるからです。

そこにおいては、
自己の人生経験の中身、
スキルや能力が問われ、
独立性や自立性の程度が、
問われるわけです。
「お前は、何者であるのか?」
と問われるわけです。

そのため、
アウトプット(外に出す)の作業に取り組むことは、
自己の限界を知り、
自己を超えていこうとする、
局面に、つねに、
人を直面させることとなるのです。

ところで、
人間が、元来、自然の中で、
サバイバルして生きている時代には、
そのような局面に、
いつも直面していたわけです。

自然界は、巨大かつ過剰な存在であり、
いつも、予測不能な力で、
人間に襲いかかって来るからです。
そこにおいては、
人は、
自己超出的、自己刷新的でないと、
生き残れないということです。

現代でも、
山奥などに入っていき、
文明的な補助を失うと、
人は、自身の脆弱さを、
痛感することとなります。

そのような意味合いで、
アウトプットに軸足をおいて、
日々の生活を、
自己の限界に接して生きることは、
自己超出や創造性開発の錬磨としても、
とても重要な姿勢であるのです。

さらには、
アウトプットには、
元となる栄養素としての、
インプット(経験や技能)も必要なのですが、
上記のようなサバイバル的錬磨は、
私たちに、
必要なインプットを見つける、的確な感度(判断力)や、
世の中で流布されているマヤカシの情報を、
回避する能力を、
与えていくことにもなるのです。

そのことで、私たちは、
より本来的な野生の力を持って、
生きていくことができるのです。

 

 

 

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おもろないやん

別に、拙著の中では、
道化の持つ創造性について
触れました。

私たちの心の中にある、
トリックスターのような、
ユーモラスで、壊乱的な、

創造力の要素(作用)についてです。

 

私たちの心の中には、
退屈な物事や生活を
くつがえし、かきみだし、
笑いを浴びせかけ、
物事を、リフレッシュに刷新する、
心な元型的な作用、

創造的な要素があります。

これは、停滞しがちな、
私たちの人生を、
豊かにする重要な霊感、
視点でもあります。

ところで、

関西では、

よく「おもろいこと」を
重視します。

 

時々の人生の選択肢で、
どちらにしようか迷った時に、
多少、リスクがあっても、
心が生き生きとする、
「おもろいこと」の方を、
選択していこうとする
心性でもあります。

それは、危険を取っても、
人生を、面白がり、
冒険していこうという、
心の奥の、内発的創造性の働きです。

逆の言い方をすると、
安全で、手堅い、
昨日と同じ、

変わり映えのしない、
見慣れた人生の風景の中で、
退屈に生きていくことを、
「おもろないやん」
と、拒否する心性です。
心の反撥力でもあります。

私たちにとって
生を沈静化し、
退屈にする最大の敵とは、
慣性・惰性です。
毎日の生活習慣です。

G・I・グルジェフは、
そんな人間の変わらない、
習慣的なシステムについて、
警鐘を鳴らし続けました。

 

「もし、君たちが、明日を違ったものにしたければ、

まず今日を違ったものにしなければならない。

もし、今日が単に昨日の結果であるなら、

明日もまったく同様に、今日の結果となるだろう」 

―G・I・グルジェフ  (ウスペンスキー『奇蹟を求めて』(浅井雅志訳、平川出版社)

 

昨日と同じことをやっていても、
人生は、まったく変わらないのです。

 

今日、「何か」違う、新しいことを、

行なわなければ、
「昨日のような明日」が、
続くだけなのです。

一生、
「昨日のような今日」を、

「今日のような明日」を、

生きるだけとなってしまいます。

惰性で繰り返される毎日を、
職場の仕事を、生活の細部の行ないを、

「おもろないやん」

と拒否することが必要なわけです。

 

少しだけ違った、
新しい「おもろいこと」を、
試してみること。
創造的への道を、
微細ながらも切り開いてみること。

そのことが、
私たちの人生を
少しずつ、確実に、

変えていくことになるのです。


 

【第一部 ゲシュタルト療法関連】

ゲシュタルト療法【基礎編】

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ゲシュタルト療法 セッション(ワーク)の実際

【目次】

◆はじめに

①信頼できる、安全な、場の空間づくり
②扱うテーマを決める
③リラックスして、3つの領域の情報に、気づきをひろげる。
④欲求(感情)に気づき、焦点化する。
⑤欲求(感情)を深め、展開する(流動化する)。体感を通して解決する
⑥現実に、より着地(統合)する

◆はじめに


ゲシュタルト療法では、
「ワーク」と呼ばれる、
セッションがあります。
 
ゲシュタルト療法同様の、
米国西海岸系の体験的心理療法では、
クライアントとして、セッションをすることを、
多く「ワークwork(作業)する」と呼びます。
 
ワークは、
クライアント(来談者)の方と、
ファシリテーター(セラピスト)との、
相互のやりとりで、
進行するセッションです。
1セッションは、
大体、30分~90分かけて行ないます。
 
この章では、実際に、
ゲシュタルト療法のワークで、
どのような事柄が行なわれるのか、
について、
描いてみたいと思います。
(ワークの大枠の構造的な流れは
「ワークの過程と構造」をご覧ください)
 
ここでは、
ワーク(セッション)の中で、
クライアントの方が、
どのような内的体験をするのか、
また、それが何故、効果を生むのか、
について、
ワークの流れ/プロセスにそって、
その内的構造について描いてみたいと思います。

 

世の中には、

ワークの、

外的な風景を描いたものは多いですが、

ここでの解説は、

より内的な構造(システム)を、

描いたものになっています。

実際に、ワーク(セッション)を、

受けた経験のある方には、

より腑に落ちる内容となっていると思います。


さて、

古典的なゲシュタルト療法は、
グループセラピーですので、
ワークを希望するクライアントが手を挙げて、
ファシリテーターと、皆の前で、
ワークを行ないます。
個人セッションの場合は、
クライアントの方とファシリテーターと、
二人だけで、
以下のようなことを行なっていきます。
 

 

◆気づき awarenessの力

 

ゲシュタルト療法のセッションでは、

クライアントの方は、

たえず、自分の欲求や感情に、

「気づく」ということを行なっていきます。

 

これは、「気づき」という機能が、

私たちの通常の日常意識や注意力に対して、

少し、メタ(上位)的な働きを含め持ち、

それらを統合していく能力(働き)を、

持っているからです。

逆にいうと、普段、私たちは、

あまり、気づきを持たない状態で、

生活しているといえます。

 

パールズは語ります。

 

「『気づく』ことは、

クライエントに自分は感じることができるのだ、

動くことができるのだ、考えることができるのだということを

自覚させることになる。

『気づく』ということは、

知的で意識的なことではない。

言葉や記憶による『~であった』という状態から、

まさに今しつつある経験へのシフトである。

『気づく』ことは意識に何かを投じてくれる。」
(パールズ『ゲシュタルト療法』倉戸ヨシヤ訳、ナカニシヤ出版)

 

また、

 

「『気づき』は常に、現在に起こるものであり、

行動への可能性をひらくものである。

決まりきったことや習慣は学習された機能であり、

それを変えるには

常に新しい気づきが与えられることが必要である。

何かを変えるには別の方法や考え、

ふるまいの可能性がなければ変えようということすら考えられない。

『気づき』がなければ新しい選択の可能性すら思い付かない。

『気づき』と『コンタクト』と『現在』は、

一つのことの違った側面であり、

自己を現実視するプロセスの違った側面である。」
(パールズ『ゲシュタルト療法』倉戸ヨシヤ訳、ナカニシヤ出版)

 

セッションの中では、

クライアントの方は、

静かな自己集中を通して、

このような〈気づき〉の状態を、

まざまざと体験していくこととなります。

そして、

自分が、人生で、

刻々と新しい行動をとれる存在であることを、

深く痛感(納得)していくことになるのです。