まず、思い出したのが、
これでした。
「可能性とロマン。人は追いつづける。
記録、それはつねに破られるさだめ。」
R・I・P
【PART1 Basic】ゲシュタルト療法
→ゲシュタルト療法【基礎編】
→ゲシュタルト療法【実践・技法編】
→ゲシュタルト療法【応用編】
→「セッション(ワーク)の実際」
【PART2 Standard】
気づきと変性意識の技法 基礎編
→変性意識状態(ASC)とは
→「英雄の旅」とは
→体験的心理療法
→NLP 普及・効果・課題
→禅と日本的霊性
→野生と自然
【PART3 Advanced】
気づきと変性意識の技法 応用編
→変性意識状態(ASC)の活用
→願望と創造性の技法
→その他のエッセイ
【PART4 当スペース関係】
→フリー・ゲシュタルトについて
→セッションで得られる効果
→なぜ、ゲシュタルトなのか
→メニュー/料金
→著作紹介
→メルマガ登録
→お問い合わせ
さて、今回は、
自己の限界を超えることと、
意識的な生の効能について、
書いてみましょう。
以前、
ゲシュタルト療法と、
アウトプットすることについて、
その関係を書きました。
ゲシュタルト療法の、
ワーク(セッション)の特徴である、
実験的な表現や、アウトプットが、
クライアントの方の、
それまでの人生の中での、
表現の境界を超え、
小さな越境となり、
自己の心理的プログラミングを、
書き換えていくことになる、
という事柄についてです。
さて、通常、
一般的な人生においては、
そのような限界を超えていく体験は、
自然発生的に生じます。
(そのため、必ずしも、
機会は多くないのです)
それらの多くは、
危機的な状況によるものです。
そのような場合に、
人は、事件に背中を押されるように、
行動をせざるえなくなり、
図らずも、
自分の表現の限界を超え、
心理的プログラミングも、
書き換えられることになるのです。
しかし、
それらは、大概、
望まれない事件的な出来事において、
生じる体験であり、
いたしかたなく、
受動的に発生する事柄です。
意欲的に、能動的に、
達成されるという類いの事柄では、
ありません。
そのような意味では、
たとえば、心理学の方法論などを使って、
自己の人格や能力、行動力を、
変化の対象にするというのは、
少し風変わりな、
「方法論的な生き方の取り組み」とも、
いえるものです。
そして、それは、
自らの人生を、
偶然任せではなく、
いくらか、
自らの探求的な統制のもとに
置いていこうという、
意欲の表れともいえます。
しかしながら、
結果的には、
このような人々は、
成長していきます。
日々を漫然と過ごすのではなく、
自己の成長に対する、
意識的な気づきとともに、
あるからです。
日々、たえず、
自己の存在と限界に気づき、
それを乗り越えようと努力する、
心の働きとともに、
あるからです。
そのような気づきと、
指向性自体が、
人生を濃くし、
人を成長させていくのです。
そのような人は、
長い時間軸で見た際に、
人生をぼんやりと過ごした人に較べて、
格段の差で、彼方の地点に、
到達してしまうものです。
同じ年齢の人間が、
同じだけの経験値を、
持っているわけではないのです。
その濃度は、
意識的な探求の内圧によって、
大きく変わるものです。
これは、
私たちの人生そのものの、
大いなる秘訣であるともいえるのです。
そのため、
意識的に生きるということは、
苦労多く、面倒臭いことではありますが、
また、実りについても、
大変豊かなものがあると考えてよいです。
※気づきや統合、変性意識状態(ASC)への
さて、
前回は、
ゲシュタルト療法における、
アウトプットの重視に、
ついて書きました。
また、それが、
日本文化の同調圧力的な、
抑圧的な世界の中では、
自立能力の育成と、大きな可能性を持つことについて、
触れました。
今回は、
もう少し具体的に、
セッション(ワーク)の中において、
どのように、
表現を育てるのかについて、
書いてみたいと思います。
古典的な、
ゲシュタルト療法では、
「やり残した仕事」を、
完了するために、
人生の中で、
未完了の体験となった場面を、
演劇的に再現して、
ロールプレイすることを、
書きました。
そして、
再現された場面の中に入っていき、
その時の情景の中に入っていき、
当時の感情になりきって、
「本当は、こう言いたかった」
のようなことを、
実際に言ってみるのです。
また、
行動をとってみるのです。
これは、
原理的には、
簡単に見えますが、
実際に体験してみると、
慣れないうちは、
なかなかに、
心理的抵抗が、
大きいのです。
芝居だとわかっていても、
想像上の空間だとわかっていても、
なかなかに、
心理的ブロックが
働きます。
動けなくなります。
(逆にいうと、実は、
こんな心理的な作用で、
私たちは、
普段の生活で、
動けなくなっているのです。
そのことを実感できます)
そして、
そのような、
再現場面の中で、
「あえて」
「何かを表現してみる」
「何かを言ってみる」
ということを、
やってみます。
「リスクを少しとって」
やってみるのです。
それは、決して、
無理に、ではありません。
自分の心が動き、
自分が、興味を持った場合に、
やってみるのです。
やってみることは、
ほんの小さな一歩です。
しかし、
この一歩は、
決定的な、
「突破の一歩」
となるのです。
無意識は、
事実と想像とを区別しないので、
「現実の体験」として、
私たちの心理プログラミングを、
書き換えて(上書きして)しまうのです。
今まで繰り返していた
「ゲーム」を、
少し踏み出したのです。
そして、
「新しいゲーム」
をはじめたのです。
これは、
決定的なことです。
そして、
それは、
「境界を超えていく」
ことになります。
私たちに、
新たな自由の可能性を、
照らし出してくれます。
そして、
このようなセッション(ワーク)を、
なんども繰り返し、
突破することに慣れ、
表現することに慣れてくることで、
アウトプットと、
個の自立の能力、
治癒と健康の要素も、
促進されていくことと、
なるのです。
それは、
私たちに、
人生の、
新しい次元の啓示として、
新しい可能性を、
教えてくれることになるのです。
※気づきや統合、変性意識状態(ASC)への
【第二部 気づきと変性意識】
【第四部 当スペース関係】
→著作紹介
ゲシュタルト療法を
実際に経験していくと、
おそらく、
それまでの人生で、
あまり経験してこなかったような類いの、
ある「行動」の重点・推奨に、
気づかれると思います。
それは、
「表現すること」
または、
「アウトプットすること」
です。
これは、
心理療法の技法としても、
特徴的ですし、
また
日本人の文化水準から見ても、
そのように言えるかと思います。
なので、
ある意味、
この点で、
ゲシュタルト療法は、
日本人にとって、
敷居が高くなる面があるのと同時に、
逆に、
爆発的な効果を持つという、
ことにもなります。
この点が、
ゲシュタルト療法が、
特に、
日本人に対して、
大きな可能性を持つ側面といえます。
普通、日本では
「個人として表現する」
とか、
「個としての表現」
というものを、
あまりしない(歓迎しない?)社会です。
まわりに合わせて、
自分の個としての表現を、
抑圧しがちです。
集団の中に、
個人が埋没する社会です。
それが、
推奨される社会です。
一方、
ゲシュタルト療法は、
真実の欲求や感情に根ざした、
個としての自立を、
とても重視します。
自分が外部から取り込み、
鵜呑みにして、
自分を抑圧している作用を、
否定します。
「ノーと言える能力」
を重視し、
育てます。
そういう面でも、
ゲシュタルト療法では、
個としての能力や、
尊厳を大切にします。
「ゲシュタルトの祈り」は、
そのような面の、
あらわれでもあります。
なので
ゲシュタルト療法では、
その場が、
安全・安心である、
という枠組みがあるからですが、
セッション(ワーク)の中で、
自分の、
「なまの感情」を出したり、
「なまの表現」をすることを、
大いに奨励します。
好き嫌いや、
肯定否定を、
明確にうち出すことを、
推奨します。
「実験として」
という枠組みで、「少しリスクをとって」
さまざまな自己表現することを、
試してもらいます。
そのアウトプットすることが、
個の自立能力を、
高めていくからです。
最初は、
おっかなびっくりで、
抵抗があった、
たどたどしい表現も、
手ごたえを感じて、
慣れてくると、
だんだんと、
自分の中心から、
感情表現できるように、
なっていきます。
表現やアウトプットすることに対する、
自信がついてきます。
より、
自発的に表現できるように、
なってきます。
個として、
その人らしい表現が、
行なえるように、
なっていきます。
それは、
前記したように、
安全な空間で、
実験として、
色々と、
ロールプレイが試せるからです。
そして、
身内に育った自信は、
実生活の中や、
人生の選択の中でも、
さまざまに、
役立っていきます。
「言うべきか、言わないべきか」の、
どちらかを選ぶ段で、
「あえて言う(表現する)」の方を、
選ぶこと、
(日本人は、たいがい、
言わない方を、選びますが)
それが、
人生の可能性を、
大きく開いていくということを、
経験として、
実体験として、
勘として、
つかんでいきます。
そのような、
アウトプットが、
自分の内奥の命を活かす道であるとともに、
他人の魂も覚醒させる道である、
ということに、
気づいていきます。
この点だけにおいても、
現代日本人に対して、
ゲシュタルト療法は、
真に必要なミッションを、
持っているとも言えるのです。
フリー・ゲシュタルト・ワークスが、
よって立つ、
大切な視点でもあります。
※気づきや統合、変性意識状態(ASC)への
【第二部 気づきと変性意識】
【第四部 当スペース関係】
→著作紹介
さて、ここでは、
「啐啄同時(啐啄同機)」について、
書いてみたいと思います。
啐啄同時は、禅語であり、
有名な『碧巌録』の中にある話です。
啐啄とは、
つつくことを意味しており、
啐啄同時とは、
雛鳥が卵から孵る場面の描写と、
なっています。
啐とは、
雛鳥が、内側から卵の殻をつつく合図、
啄とは、
親鳥が、(雛鳥が、卵の外に出てくるのを助けるために)
外から卵の殻をつついて割ることをです。
そして、
この啐啄は、
同時でなければならないということを、
意味しています。
啐がないのに、
親が、卵の殻を割ったら、
育っていない、中の雛は死んでしまいます。
また逆に、
啐があったのに、
親が、卵の殻を割らなかったとしたら、
外に出られない、中の雛は死んでしまいます。
そのため、
啐啄は、同時でなければならないというのです。
啄は、
早すぎても、遅すぎても、
いけないのです。
『碧巌録』の中では、鏡清禅師の弟子が、
禅師に、悟りを手助けしてほしいと訴える、
そんなエピソードとして語られます。
そしてまた、この喩え話は、
教育における、タイミングの妙としても、
よく引かれます。
心理療法の世界においては、
クライアントの機が熟した時に、
「ちょうどその時に」
ファシリテーターが介入しないと、
効果的な介入にはならないことの、
喩えに使われます。
遅くても、早くても、それはダメなのです。
クライアントを活かせないのです。
さて、以上見たような事柄は、
実は、自分(個人)の中における、
創造性を考える場合においても、
示唆を投げかけてくれるのです。
以前、「大地性と待つこと」として、
私たちの、自分自身の、
成長してくれない心に対して、
待つことの重要性について触れました。
私たちの心が「啐」として、
内側からノックして来るまで、
忍耐して、待たなければならないこともあるのです。
気が急いて、卵の殻を割ってしまったために、
中の、まだ十分の育っていない心の力が、
死んでしまうこともあるのです。
外に出るのに、
十分な保育・養成期間というものが、
あるのです。
また一方、逆のケースもあります。
「啐」として、
内側から、心の創造力がノックしているのに、
外に出してあげなくて、
中の心が、死んでしまう、
ということもあるのです。
以前、「アウトプットの必要性」についても書きましたが、
現代の社会は、インプットすることが通例で、
個人的体験の価値や、個の創造性の発現が、
ないがしろにされている社会です。
そのことのせいで、
個人が、無力化し、衰弱している社会です。
現代においては、この側面での問題が、
多いのでは、ないでしょうか。
しかし、啐が起こり、
内部の機が熟しているのに、
創造的なアウトプットをしていかないと、
殻の中の心は、死んでしまうものです。
このような場合、
自分で、自分に、場や機会を与えて、
高まる内部の心や創造性を、
殻の外に、解き放っていくことが、
必要です。
これは、現代における、
個人の無力化や閉塞感の中で、
当スペースが、
特に重視している側面でもあります。
啐啄同時の喩えは、
そのような心の創造性の機微を、
教えてくれてもいるのです。
※気づきや統合、変性意識状態(ASC)への
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