まず、思い出したのが、
これでした。
「可能性とロマン。人は追いつづける。
記録、それはつねに破られるさだめ。」
R・I・P
【PART1 Basic】ゲシュタルト療法
→ゲシュタルト療法【基礎編】
→ゲシュタルト療法【実践・技法編】
→ゲシュタルト療法【応用編】
→「セッション(ワーク)の実際」
【PART2 Standard】
気づきと変性意識の技法 基礎編
→変性意識状態(ASC)とは
→「英雄の旅」とは
→体験的心理療法
→NLP 普及・効果・課題
→禅と日本的霊性
→野生と自然
【PART3 Advanced】
気づきと変性意識の技法 応用編
→変性意識状態(ASC)の活用
→願望と創造性の技法
→その他のエッセイ
【PART4 当スペース関係】
→フリー・ゲシュタルトについて
→セッションで得られる効果
→なぜ、ゲシュタルトなのか
→メニュー/料金
→著作紹介
→メルマガ登録
→お問い合わせ
さて、
ゲシュタルト療法を、
継続的に行なっていくと、
顕著に現れてくる、
ある体感があります。
そのことについて、
まず、はじめに、
見ておきたいと思います。
ゴールや着地点がわかると、
イメージがつきやすくなるからです。
ゲシュタルト療法を、
行なっていくと、
やって来るもの、
それは、
①生きる力(エネルギー)の増大
②妨げのなさの感覚
というものです。
ゲシュタルト療法をやっていくと、
私たちは、
自分が、以前よりも、
純粋に物理的にエネルギーに満ちていると、
感じはじめるというわけです。
また、
自分を妨げたり
押しとどめて来たりする、
内部の妨害する力が、
少なくなったのを感じるのです。
その結果、自分が、
軽々と、
行動を起こしやすくなったと、
感じるようになるのです。
その仕組みは、
図にしてみると、
その構造的なイメージが、
つきやすくなります。
普段の私たちは、
自分の中に、
抑制感や、
なんらかの葛藤を持っています。
内側から、
表出しようという欲求(欲求A)が出て来ても、
外側の別の欲求(欲求B)によって、
押さえられてしまうという形なのです。
このように、
「やるべか、やらないでいるべきか」と、
いつも、内部で、
押し問答をしてしまっていることが、
私たちの、
一般的な姿(問題)であるのです。
このことは、
主観的には、
ある種の、
エネルギーの不足感や、
疲れ、疲労感として、
体感されたりもしています。
しかし、実は、
エネルギーが、
純粋に不足しているのではなく、
悶々とした葛藤によって、
無駄に使ってしまっているというのが、
実情なのです。
エネルギー不足ではなく、
エネルギーの浪費とロスが、
実態(問題)であるのです。
これが、普段の、
抑制感をもった、
私たちの姿だといえます。
それが、
ゲシュタルト療法を続けていくと、
欲求Aと欲求Bとの間に、
対話と交流、融解が起こり
この二つが、
融合・統合していくという事態が、
起こってきます。
その結果として、
欲求Aは、
(多少、変容して、A´になりますが)
よりダイレクトに、
自己の欲求を表出できるという事態が、
実現されてくるのです。
この際、
妨げるもの、妨害するものとして、
働いていた欲求Bも、欲求B´となり、
妨害することなく、
むしろ別の欲求として、
協働的に、サポート的に、
働いてくることに変わるのです。
つまりは、
主観的なイメージとしては、
元来、自分のやりたいこと(欲求)が、
バージョンアップして、
よりストレートに行なえている感覚、
表出できている感覚が、
生まれてくるのです。
そして、エネルギーは、
葛藤による浪費やロスがなくなったため、
自由に使える量が、
増えた感を持ちます。
これが、
「エネルギーの増大感」として、
感じられてくるのです。
エネルギーの増量感です。
また、
内部で、葛藤的に、
抑制するものがなくなったため、
「妨げのなさ」という感覚が、
生まれてくることにもなるのです。
自分の中の、
「妨害感」が、
なくなったのです。
分裂感がなくなったのです。
その結果として
自分が、
「ひとまとまり」の、
エネルギーの塊に、
なった感じがします。
ベクトル(方向性)を持った、
全身全霊の、
能動的な
エネルギーの塊です。
そして、
このような統合が進んだことにより、
内部での葛藤に費やされなくなった、
膨大なエネルギーは、
外の現実世界に溢れだし、
他者や、世界の物事に向かうように、
なるのです。
まわりの人々、他者や世界に、
よりベクトルをもって、
集中的に関わり、
これを変えるように、
働きかけるようにもなるのです。
少々の障害など、
ものともせず、
突破できるエネルギーや
能動的な意欲が、
湧いてくるのです。
その結果、私たちは、
人生自体を、
目覚ましく変えていくようにも、
なっていくのです。
これが、
ゲシュタルト療法を進めていくと、
現れてくる顕著な特性と、
いえるものなのです。
◆エネルギー水準の高まり
さて、このような、
「エネルギー感の高まり」は、
図にすると、
イメージしやすいものにもなります。
私たちは、通常、
エネルギーの或る平均値(値ゼロ)を持っています。
そして、調子が良いときもあれば、
悪いときもあるということで、
その上下を、
上がったり、下がったりしています。
それが、
ゲシュタルト療法を通して、
エネルギーが解放されて来ると、
以前に較べて、
恒常的に高いレベルに、
いることができるようになって来るのです。
ある種の、
エネルギーの「高原状態」とも、
いえるような事態の達成です。
ゲシュタルト療法を継続していくと、
生まれてくる顕著な成果を、
体感覚という側面から、見てみました。
このようにして、
ゲシュタルト療法の技法は、
人々の人生を変えていくのに、
役立っていくこととなるのです。
【PART1 Basic】ゲシュタルト療法
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ロロ・トマシとは、
映画『L.A.コンフィデンシャル』の中で、
決定的な意味を持つ名前です。
(以下ネタバレあり)
その名は、
登場人物のエクスリー警部補が、
自分がなぜ刑事になったのかを語る、
わずかな昔語りの中で触れられます。
彼の刑事だった父親は、
殺されたのです。
しかし、犯人はわからず、
彼は、その犯人を、
ロロ・トマシと名付け、
罪を逃れて、ほくそ笑むやつらの、
代名詞としたのです。
そのような挿話が、
出世の亡者のような嫌われ者として描かれていた、
エクスリー警部補の、
人生の背景として語られるのです。
映画の中では、
それまでの出世をフイにしてでも、
事件の真犯人、
ロロ・トマシをとらえたいという、
渇望に駆られ出した、
(心を蘇らせはじめた)
エクスリーの姿を映し出す、
象徴的な名前となっているのです。
そして、彼が、
ゆくりなくも語った、
この秘密の名前が、
思いがけず、事件を解決する、
導きの糸となっていくのです。
というのも、
その挿話を聞かされたヴィンセンス刑事が、
意外な真犯人に殺される際に、
その名を、
ダイイング・メッセージとして呟いたことが、
(この場面のスペイシーのかすかな微笑が素晴らしい)
その後、
真犯人が誰であるかを、
エクスリーに告げる、
決定的な鍵となったからです。
さて、
私たちの人生の中には、
映画におけるような、
現実の悪党ではありませんが、
心の中に、
影のようにつきまとう、
ロロ・トマシがいます。
それは、
私たちを駆り立て、
苦しめ、
また、渇かせ、
まるで運命のように、
打算を超えた、
非合理的な行動をとらせていきます。
私たちは、
その本当の姿を、
よく知りません。
若い頃は、
私たちは、
おおむね誰もが多感なため、
ロロ・トマシを、
身近に感じています。
しかし、歳をとっていくと
俗世間の雑務にまみれて鈍麻し、
物語のはじめにあったエクスリーのように、
ロロ・トマシのことを、
忘れがちになっていきます。
また、見ないようにしていきます。
しかし、
それを思い出し、
その気配を感じ、
それを探しつづけることは、
実は、とても大切なことなのです。
ロロ・トマシの背後(向こう)にこそ、
私たちの真の人生が、
待っているからです
ロロ・トマシの、
黒点のような存在を感じていくことが、
事件を解決するように、
真の人生を見つける、
導きの糸となるのです。
そして、
ロロ・トマシを追い、
紆余曲折しながらも、
扉の向こうに
ついに、彼を追い詰めた時に、
捕らえた時に、
私たちの人生は、
あたかも何かがほどけたかのように、
明るいものに、
変わっていくのです。
人生の、
違う白日の中に、
入り込んだことに気づくのです。
人生の次の次元に、
移っていくのです。
そのように、
私たちの心の秘められた智慧は、
ロロ・トマシを、
正体不明の真犯人を、
登場人物として、
人生の中に、
ひそませているのです。
影の中にこそ、
苦痛の中にこそ、
悪の向こうにこそ、
人生を解く、
秘密の鍵があるのです。
そのため、
私たちは、
その暗いけはいを感じとり、
それが、どこから来て、
今どこにいるのかを、
問いつづけることが、
とても大切なことなのです。
※気づきや統合、変性意識状態(ASC)への
さて、
真冬の寒い日々の中でさえ、
たまに気温の高い日があると、
すぐに羽虫などが涌いて来るものです。
また、すぐ寒くなって、
どうせ死んでしまうのに、
なぜ、そんなに慌てて、
すぐ生まれて来ようとするのか。
少し痛々しく、
また虚しい気がします。
そして、
ふと思うのです。
これらの命は、
何かをするdoingためではなく、
ただ在るBeingこと自体のために、
生まれて来ているのではないか、と。
実は、
ただ在るBeingこと自体が、
大したことであるからなのかもしれない、
とも、思うのです。
そのため、
宇宙の生命たちは、
わずかなスキマを見つけては、
ただ「在る」ことだけのために、
殺到するかのように、
この世に生まれて来ようとするのだと…
さて、ところで、
人は、歳をとって来ると、
かつて、ともに道を探求した仲間たちに
すでに亡くなってしまった者たちが、
だんだんと増えて来ます。
日々の中では、
そのように早世した誰彼を、
ふとした機会に、
思い出したりもします。
慌ただしくも、
あっけなく去っていった友人たちを…
そして、
信じられない気がします。
自分は、今も、
この現実を、
こんな風に感じながら、
道を探している。
しかし、
彼、彼女らが、この現実を、
もう経験していないとは、
いったいどういうことなのだろうかと。
若い頃、あんなに熱っぽく、
探求とその未来について語り明かしたのに、
(昨日のように思い出されます)
その彼らが、
今はもう探求していないとは、
どういうことなのだろうかと。
自分が、探求の末に、
ようやく小さな突破口、
真の人生のスタートに到達したと思ったら、
その時には、彼らは、
既にこの人生を終わらせ、
完結させてしまっていたとは、
どういうことなのだろうかと。
彼らは、探求の結論を、
少しでも、
得ることができたのだろうかと…
そして、
不思議な気がします。
自分の経験しているこの時間と、
彼らの何も経験していない時間…
もう何も経験していないとは、
どういう状態なのであろうか。
そして、
つくづく思います。
この「糞のような現実(世界)」でさえ、
彼らはもう何も経験していないのだと…
そして、
そのことを思うと、
この「薄絹」のような、
在るBeingについて、
まざまざと、
気づかされるのです。
自分のこの現実が、
一瞬のちまで、
存続していく保証など、
何も無いのだと。
(彼らだって、
そんなにも早く、
自らの生が終わるとは、
信じられなかったでしょう)
そして、
思うのです。
この薄氷のような、
現実の上を、
(彼らの分までも)
凝視するように、
綱渡りをするように、
仔細漏らさずに、
生きるべきではないか、と。
今にも終わってしまうかもしれない、
この存在を、
そんな風に色濃く味わいながら、
瞬間瞬間を、
生の意味を、
結晶させていくべきなのだ、と。
「在りてあれ!」
どこからか、
そんな声を、
聞くような思いがするのです。
※気づきや統合、変性意識状態(ASC)への
「人(あなた)は、○○すべきだ」
という言い方で、
相手に欲求(感情)を、
伝えようとします。
これは、
よく「一般化」として、
知られるものです。
「私」や「あなた」という主体を、
「世間一般」という、
抽象的な権威に変えて、
相手に何かを、
要求しようとするやり方です。
この内実は、
他者(や自分)の中にある、
権威的自我(精神分析の超自我、
ゲシュタルト療法のトップドッグ(勝ち犬))に、
訴える「操作的な」
言い方です。
このような言い方や、
他者操作は、
私たち自身の主体を、
超自我にスライドし、
私たち自身の、
欲求の中心を、
空洞化し、
無力化するものです。
また、
言われた相手も、
見えない権威(超自我)に訴える、
操作性や作為を、
メッセージに感じて、
反発心が出ます。
(相手のアンダードッグ(負け犬)が、
起き上がります)
素直に、
受け入れたくなくなります。
「あなたは、○○すべきだ」
ではなく、
むしろ、
「私は、あなたに○○して欲しいなぁ」
とストレートに、
自分の欲求(感情)として、
相手に伝えることは、
私たち話者に、
厚みある主体性の感覚を、
与えます。
また、
言われた相手も、
あなたという個人の願望なので、
(言われた通りにするかどうかは別にして)
それ自身として、
受け止めます。
それは、
欲求(感情)のやり取りとして、
ストレートで、
密度の濃いものになります。
ずっと、
「生きたもの」に、
なります。
それは、
私たち人間同士の、
関係性を、
生きた濃密なものに、
変えていくのです。
さて、今回も、
言い換えの技法について、
例を挙げてみてみました。
②のものなどは、
ワーク(セッション)の中でも、
義務への従属というパターンで、
しばしば現れて来る言い方であり、
クライアントの方に、
言い換えを、
体感してもらい、
気づきを深めてもらいます。
いずれにせよ、
これらの言い換えは、
私たちが、
自分の欲求(感情)とつながり、
主体として、
より生き生きと、
感じられるようにするための、
ひとつの方法なのです。
※気づきや統合、変性意識状態(ASC)への
【PART1 Basic】ゲシュタルト療法
【PART2 Standard】
気づきと変性意識の技法 基礎編
【PART3 Advanced】
気づきと変性意識の技法 上級編
【PART4 当スペース関係】
→著作紹介
ゲシュタルト療法では、
言葉の使い方に、
注意します。
言葉の使い方で、
自分の欲求(感情)を、
活かしも、
殺しも、
するからです。
私たちは、
日常で、
あまり意識しない、
言葉の使い方によって、
自分の欲求(感情)を、
ないがしろにしたり、
無力にしたり、
してしまっているのです。
そのため、
ゲシュタルト療法では、
ワーク(セッション)の中でも、
しばしば、
クライアントの方の、
言葉遣いについて、
指摘をします。
そして、
表現(言葉)の言い換えを、
してもらったりします。
そのことによって、
クライアントの方の感じ方が、
グッと変わり、
自分の欲求(感情)に、
コンタクトしやすくなったり、
するからです。
言い換え法にも、
パターンがいくつもありますが、
今回は、
そんな言葉の言い換えで、
ワーク(セッション)中に、
しばしば、
生ずるものについて、
取り上げてみましょう。
◆「でも」ではなく、「そして」
さて、
私たちは、
普段の生活でも、
ある人物に対して、
相反する感情を持つことが、
よくあります。
ゲシュタルト療法の、
ワーク(セッション)でも、
エンプティ・チェアを使った、
ロールプレイ場面などでも、
そのような風景が展開します。
そのような時、
人は言います。
「私は、あなたのことは好きです。
でも、○○なところは嫌いです。」
「私は、あなたのことが好きです。
でも、○○なところに怒っています。」
というような具合です。
相反する二つの気持ちを、
「でも」「しかし」「だけど」と、
逆接の接続詞で、
結ぶのです。
怒りや嫌悪という、
自分の認めがたい、
ネガティブな(陰性)感情の言い訳に、
好きだという、
ポジティブな(陽性)感情を、
引きあいに出している面も、
あります。
しかし、
ゲシュタルト療法では、
逆接の接続詞は、
それぞれの欲求(感情)を殺す言葉だと、
考えます。
二つの欲求(感情)を、
葛藤させ、ぶつけて、
相殺してしまう言葉遣いだと、
考えるわけです。
そのため、
ゲシュタルト療法では、
この逆接の接続詞を、
「そして」という、
並列の接続詞に、
言い換えてもらいます。
「私は、あなたのことは好きです。
そして、○○なところは嫌いです。」
「私は、あなたのことが好きです。
そして、○○なところに怒っています。」
普通、
耳にしない日本語です。
さて、
実際に、身近にある、
このような事例を、
思い出して、
声に出して、
それぞれの言い方で、
言ってみて下さい。
言い換えてみて、
その違いを、
味わってみて下さい。
からだの中で、
その感情が、
どう響くか、
感じてみて下さい。
この違いが、
分かったでしょうか?
並列の接続詞は、
それぞれの欲求(感情)を、
活かす言い方です。
ポジティブな(陽性)感情も、
ネガティブな(陰性)感情も、
どちらも、
自分の欲求(感情)として、
きちんと、
コンタクト(接触)することが、
できます。
その欲求(感情)に、
つながることが、
できるのです。
どちらの欲求(感情)も、
真っ直ぐに感じ、
パワーとして、
生きられるのです。
どちらの欲求(感情)も、
自分の欲求(感情)として、
責任をとって、
引き受けられるのです。
それ自身として、
受け入れられ、
肯定されるのです。
ゲシュタルト療法では、
自分の欲求(感情)は、
ポジティブな(陽性)感情であれ、
ネガティブな(陰性)感情であれ、
すべて、意味のあるものとして、
肯定します。
責任を取って、
受け入れて(受容して)いきます。
それが、
生体としての、
全体性を、
生きることに、
つながるからです。
そして、
それは、
このような言葉遣いの、
側面からも、
意図されているのです。
※気づきや統合、変性意識状態(ASC)への
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さて、
ゲシュタルト療法の
ワークには、
さまざまな効果や魅力がありますが、
(サイトでも、多角的にご紹介しましたが)
心理療法的な枠組みをとっぱらって、
他にあまりない、エッセンス(本質)だけを、
残す(取り出す)とすると、
その最良のもののひとつは、
ある種の「存在論的体験」だと、
いうことができます。
「自分が、存在していることをまざまざと実感すること」
「自分が、存在していることの不思議さに感じ入る」
そのようなことが、
ワークの中では、
強い気づきの体験として、
起こって来るのです。
世界が、新らしく瑞々しく立ち現れて来る、
そのような瞬間を、
しはしば体験できるのです。
それだけでも、
生の感覚を喪失し、
鈍麻した社会の中では、
意味のあることなのです。
「世界と、生きている自分」
を、強烈に感じて、
生きる力を獲得していく。
そんなシンプルで力強い道が、
ゲシュタルト療法の取り組み中では、
得られていきます。
そこには、
身体的・感情的に対する、
具体的なアプローチがあるために、
知覚力や感性が動かしやすい、
という側面があります。
即興的、遊戯的な動き、身体技法が、
気づきの閃きとが、
ひとつになっているようなものです。
一種、動的な禅といえる面があります。
さて、
「生きるためのゲシュタルト」とは、
筆者が、よく使うフレーズですが、
そのように、
ゲシュタルト療法を、
身近に置いて、
生を加速する鋭利な道具(姿勢)として、
さまざまな側面で役立てることが、
長い取り組みの中では、
可能となっていくのです。
さて、
拙著『砂絵Ⅰ:現代的エクスタシィの技法 心理学的手法による意識変容』の中では、
その人の持つ「存在」の力が、
独特の力を発揮する事柄について、
少し触れました。
ここでは、
そのような存在力と創造性とに
関わる事例として、
マイルス・デイヴィスを、
取り上げてみたいと思います。
マイルスは、著名なジャズ・ミュージシャン、
トランペット奏者ですが、
マイルスを聴く人が、不思議に思うことがあります。
マイルスとともに活動にした、
数多い共演者たちは、
なぜ、彼らの生涯最高の演奏を、
しばしば、マイルスとの共演で持つのだろうか?
彼らは、マイルスから、
どのような影響を受けるのだろうか?と。
ここに、創造性に関わる、
存在の深い力についての秘密が、
あるように思われます。
このことに、光を当てる、
興味深いドキュメントがあります。
1970年のワイト島の、
ミュージック・フェスティバルの映像、
『エレクトリック・マイルス』に付けられた、
生涯の共演者たちによる、
マイルスについての無数の証言です。
そこには、創造性にまつわる、
さまざまなヒントが、
当事者たちから、
生々しく語り出されています。
「あれほどパワフルな人と同じ空間にいると、
自分のパワーも自然に出てくる」
デイヴ・ホランド
「歴史を振り返っても大勢が言うと思う。
マイルスとの演奏は、
誰も、他で再現できなかった。
その時しかできなかったんだ。
変わったわけじゃない。
マイルスと一緒に演奏した時は、
彼に力を引き出されたんだ」
デイヴ・リーブマン
「マイルスは素晴らしい。
ずっと自分を与え続けたんだ」
ジャック・ディジョネット
「マイルスは僕らに何かをくれたんだ。
言葉では表せないものを。
マイルスと組んだ人と会って、
マイルスの話題が出ると、
思わず皆、頷くんだ。
共通する体験があるから分かるんだ。
マイルスとの仕事で得たものは、
上手く言葉にできないけれど
なんというか、
一度経験すると、忘れられない」
ハービー・ハンコック
別に、拙著の中では、
道化の持つ創造性について
触れました。
私たちの心の中にある、
トリックスターのような、
ユーモラスで、壊乱的な、
創造力の要素(作用)についてです。
私たちの心の中には、
退屈な物事や生活を
くつがえし、かきみだし、
笑いを浴びせかけ、
物事を、リフレッシュに刷新する、
心な元型的な作用、
創造的な要素があります。
これは、停滞しがちな、
私たちの人生を、
豊かにする重要な霊感、
視点でもあります。
ところで、
関西では、
よく「おもろいこと」を
重視します。
時々の人生の選択肢で、
どちらにしようか迷った時に、
多少、リスクがあっても、
心が生き生きとする、
「おもろいこと」の方を、
選択していこうとする
心性でもあります。
それは、危険を取っても、
人生を、面白がり、
冒険していこうという、
心の奥の、内発的創造性の働きです。
逆の言い方をすると、
安全で、手堅い、
昨日と同じ、
変わり映えのしない、
見慣れた人生の風景の中で、
退屈に生きていくことを、
「おもろないやん」
と、拒否する心性です。
心の反撥力でもあります。
私たちにとって
生を沈静化し、
退屈にする最大の敵とは、
慣性・惰性です。
毎日の生活習慣です。
G・I・グルジェフは、
そんな人間の変わらない、
習慣的なシステムについて、
警鐘を鳴らし続けました。
「もし、君たちが、明日を違ったものにしたければ、
まず今日を違ったものにしなければならない。
もし、今日が単に昨日の結果であるなら、
明日もまったく同様に、今日の結果となるだろう」
―G・I・グルジェフ (ウスペンスキー『奇蹟を求めて』(浅井雅志訳、平川出版社)
昨日と同じことをやっていても、
人生は、まったく変わらないのです。
今日、「何か」違う、新しいことを、
行なわなければ、
「昨日のような明日」が、
続くだけなのです。
一生、
「昨日のような今日」を、
「今日のような明日」を、
生きるだけとなってしまいます。
惰性で繰り返される毎日を、
職場の仕事を、生活の細部の行ないを、
「おもろないやん」
と拒否することが必要なわけです。
少しだけ違った、
新しい「おもろいこと」を、
試してみること。
創造的への道を、
微細ながらも切り開いてみること。
そのことが、
私たちの人生を
少しずつ、確実に、
変えていくことになるのです。
※気づきや統合、変性意識状態(ASC)への
アンクル・ロイが、ぼくを見てこう言った。
「タダシ、判断を急ぎすぎてはいけない。何が起きているのか、よーく見るんだ。そうすると、いつしか頭ではなく、ハートが『よし!』と判断をくだすときが来る。それを覚悟というんだ」
この言葉は、強烈に心に響いた。
「ワシテ!」
ラコタ族の人たちは、この言葉を好んで使う。「よっしゃ!」とか「OK!」というニュアンスの言葉だ。頭ではなく心で納得できたとき、ある種の覚悟が決まったとき、彼らの口から出る言葉が「ワシテ!= よっしゃ!」なんだとぼくは受けとめている。ぼく自身も大切にしている言葉のひとつだ。
もうひとつ、ぼくの好きなラコタ語がある。それは、
「ワァナホー」
という言葉だ。これは英語で言うと、
「Ready?」
に当たる言葉で、それに対して
「ワァナ!」
と応えるとき、
「今こそ、そのときだ!」
という意味になる。
アンクル・ロイは、よくこう言っていた。
「ハートが判断をくだして、いよいよ覚悟が決まったらなあ。そこから先は、すぐに行動に移すんだよ」
じっくり自分に問いかけて、覚悟が決まれば、
「ワァナ!」
で、今こそ歩き出そう。
自分のハートが「よし!」と言ったことに、人は決して後悔しないものだと思う。
松木正
※気づきや統合、変性意識状態(ASC)への
グラハム
彼はいいやつで―そして、ヘロイン中毒だった。ビジョン・クエストのことをはじめて聞いたのは、元中毒者(ジャンキー)たちの治療コミュニティにいた頃である。最初から、彼は自分の力試しとして、大自然の力とともに、ひとりで過ごすことに、誰よりも熱意を示していた。カウンセラーたちも皆、それが彼にとって、有益だろうと口をそろえた。
社交上は、彼はスターだった。活力に満ちた魅力的な男性で、気取らず、知性をもって話した。しかし、ひとたび、治療コニュニティの支援組織や友人たちと別れ、一人サン・ラファエロの街頭へ、昔のヤク仲間たちがひと嗅ぎやろうぜと待ち伏せ、彼も自分たちと同類なんだということをなんとか証明しようと手ぐすねひいているところに戻ったとき、彼がどうするか、誰にも分からなかった。
だから、彼は、治療コミュニティの友達連中を伴って、ネバダ州トイヤベ山脈のリーズ川源流へと赴いた。カウンセラーのアルと看護婦のアンジェラ(必要に応 じてメタドンを投与するため)も同行した。そこにいる間、彼は蛇がぬくもった岩にすり寄っていくように、山々になついた。アッパー・ソーミル・クリークの 土手で拾ってきたミミズを持って、レインボウズ川とイースタン川で、自分の限界に挑戦した。柳の木のうろで寝た。小谷を登っては、矢じりを握って帰って来 た。馬のように食べ、子羊のよう眠った。「これこそ、ぼくにぴったりの生活だ」と、彼は宣言し、カウボーイになるんだと話していた。彼が、治療コミュニティにおけるスターだとしたら、高地の荒れ野では、一輪の花だった。
ビジョン・クエストから戻ってきたとき、彼はひとまわり大きくなっていた。自己を試し、自己を分析するいい時間を過ごしたのだった。晩夏の陽光は力強く、 純粋だ。彼の肉体の不純物を焼き尽くした。断食は、内側から、彼を浄めた。彼は、川の近くに生えていた茂みから、野生のローズヒップを摘み、濃く甘やかな ハーブティをいれた。その眼は澄んで、動物のそれのように機敏だったし、体は引き締まり、こんがりと焼けていた。とにかく、とんでもなくいい状態のよう だった。
その夜、分かち合いとおびただしいみやげ話のあと、彼はもう戻らないつもりだ、とみんなに告げた。都会にはもうなんの興味もない。ここにとどまって、場合によっては谷間の牧場かどこかで雇われてもいい。
それから私たちは、帰ることについてじっくり語り合った。たき火は、芳しいジュニパーの香りを吸い込み、星々は忘却を誘う砂原の上をゆっくりと踊りながら 横切っていく。帰ってモンスターに直面することへの恐怖こそ、本当のモンスターなのだ、というのが私たちの結論だった。
翌朝、私たちは出発した。この時は、悲しかった。峡谷の斜面を登っていくとき、川は、緑色の蛇が柳の皮を脱いでいるかのようにキラキラときらめいていた。「ここで学んだことは決して忘れない」とグラハムは誓った。
一ヵ月後、彼は治療コミュニティを卒業して、サン・ラファエロに戻り、パタルマで養鶏場の清掃の仕事について暮らし始めた。仕事場へはバスで通勤し、毎晩 ぐったりと疲れて帰宅した。彼にヘロインの手ほどきをした昔のガールフレンドと、よりを戻した。でも、ヤクはやっていないよ、と私たちには話していた。
私は二度ほど、彼の住まいに立ち寄った。窓がなく、部屋の片隅にテレビがあるだけの気が滅入るようなアパートだった。もう一方の隅には神殿ができていた― 祭壇の絵の前に鹿の頭蓋骨―、一対の枝角、黒曜石の細片とビジョン・クエストの写真や記念の品を飾ったものである。彼はポイント・レヤやヨセミテへ行こう かと思う、とあいまいに話していたが、自分をすり減らしていくような今の生活に対する自己嫌悪にどっぷり漬かり、無力感にとらわれた様子だった。煙草をふ かし続けていた。
二ヶ月ほどして、彼のことが新聞に載った。ガールフレンドと一緒に、盗品と「量不明のヘロイン」所持で捕まったのだ。そして、刑務所に舞い戻った。スタート地点に戻ったわけだ。
長い間、彼の消息は知れなかった。そして三年後、私たちは高速道路ですれ違った。彼は、古いけれどまともな小型トラックの荷台に道具箱をのせて走っていた。「やあ」とやや興奮した感じで声をかけてきた。「やあ!」と私も叫び返した。「どうしてる?」
彼は窓から頭を突き出し、満面に笑みを浮かべてどなった。「足洗ったよ!」
S・フォスター&M・リトル『ビジョン・クエスト』(高橋裕子訳)
※気づきや統合、変性意識状態(ASC)への
たまきはる曠野のいのち夏草をおほひて遠く果てきいくさは
村上一郎
たまきはるいのち生きむと思ふ日のわが道はかたくただかたくあれ
村上一郎
※気づきや統合、変性意識状態(ASC)への
まず今日を違ったものにしなければならない。
もし、今日が単に昨日の結果であるなら、
明日もまったく同様に、今日の結果となるだろう。
―G・I・グルジェフ
さて、
当スペースでは、
前章に見た、
自己妨害の背後に、
「複数の自我(私)」の存在を、
見ています。
私たちの人格の中にある、
「複数の自我(私)」の存在によって、
4つの欲求混乱のパターンも、
より活性化されてしまうのです。
さて、
複数の自我があったとしても、
通常、私たちは、
どれか、ひとつの自我に、
同一化していて、
自分が、
複数の自我(私)であるとは、
気づきません。
そのため、
主観的には、
ただ塊としての苦痛や不自由、
悶々とした葛藤しか、
感じとれません。
ゲシュタルト療法では、
セッションによって、
この自我たちを、
目に見える形で取り出して、
自我の間の対話や調整を図ることで、
この自己妨害を、
解消していきます。
また、さきの
4つのパターンが、
どのように働いているのか、
まざまざと体験できることになります。
さて、よく葛藤とは、
「アクセル」と「ブレーキ」を、
同時に踏むようだと言いますが、
厳密な言い方をすると(深層の部分では)、
少し違います。
一見、
ブレーキをかけていような、
自我の言い分を
深く聞いていくと、
必ずその自我の、
「肯定的な意図」が分かります。
つまり、
実は両方とも、
アクセルなのです。
アクセル同士が、
互いを牽制しあい、
別のベクトルを向いているため、
葛藤が生じるのです。
◆「やる気が出ない」は、正しい
「やる気が出ない」
ということがありますが、
(変な言い方ですが)
それは、正しいのです。
それは理由があって、
「やる気が出ない」という、
気分表現になっているので、
その理由(真の意図)を知ることこそが、
重要なのです。
そこには、必ず、
自我間の葛藤があり、
それぞれの自我は、
深い「肯定的意図」をもって、
そのように作用しているのです。
その「自我たち」を知っていくことは、
自己自身をより深く知っていくこと、
自己の創造性を生きることに、
つながっていくのです。
世の中には、
「モチベーションUP」の書籍が、
氾濫しています。
多くの人が、そう願っているからでしょう。
しかし、いくら本を読んでも、
モチベーションを上げることは出来ないでしょう。
まず、やる気を上げたいのは、
今の自分が同一化している、
「やる気を上げたい自我」でしかなく、
その他の自我には、
そのことに反対する積極的な理由が、
あるからです。
安直なモチベーションUPではなく、
自分の心を、丁寧に見つめて、
ひも解いていくこと、
そこから、真の、
モチベーションUPが始まるのです。
◆ワーク(セッション)において
実際のセッションでは、
対立したり、
葛藤したりしている、
おのおのの自我を、
エンプティ・チェア(空の椅子)の技法などを使い、
丁寧に、取り出してきて、
各自我の意図(欲求)を聞き、
自我間の対話を行っていきます。
これが、
なぜ、エンプティ・チェアの技法で、
可能になるかと言いますと、
通常、私たちは、
「どれかひとつの自我にしか、
同一化できない」のですが、
エンプティ・チェアの技法においては、
その他の自我にも、
同一化することが、
技法(原理)的に可能になるからです。
これは、
催眠療法でいう、
アンカリングの原理によるものです。
(下図参照)
エンプティ・チェアの技法を使うと、
個々に対立していた自我の間に、
情報交流、
エネルギー的交流が起こり、
自我間の、対立する要素が減り、
別の特性(グループの仲間)として、
互いを尊重し、
協力したりできるようになります。
互いを妨げることなく、
より相乗的にパワーを、
発揮できるようになります。
セッション(ワーク)では、
そのことを実現するために、
時間をとって、じっくりと、
個々の自我の言い分(欲求・意図)を、
聞いていきます。
※気づきや統合、変性意識状態(ASC)への
【PART1 Basic】ゲシュタルト療法
→ゲシュタルト療法【基礎編】
→ゲシュタルト療法【実践・技法編】
→ゲシュタルト療法【応用編】
→「セッション(ワーク)の実際」
【PART2 Standard】
気づきと変性意識の技法 基礎編
→変性意識状態(ASC)とは
→「英雄の旅」とは
→体験的心理療法
→NLP 普及・効果・課題
→禅と日本的霊性
→野生と自然
【PART3 Advanced】
気づきと変性意識の技法 上級編
→変性意識状態(ASC)の活用
→願望と創造性の技法
→その他のエッセイ
【PART4 当スペース関係】
→フリー・ゲシュタルトについて
→セッションで得られる効果
→なぜ、ゲシュタルトなのか
→メニュー/料金
→著作紹介
→メルマガ登録
→お問い合わせ
さて、私たちが、
野生の動物たちのいる世界に、
入って行っても、
基本的には、(人馴れしていない)
本来の野生動物たちに出会うことは、
できません。
自然の動物の世界とは、
忍びあいの世界です。
お互い同士が、息を潜ませている世界です。
そのような、人間たちのいない、
基本的な野生の世界を、「ベースライン」の世界と呼びます。
私たち人間が、ズカズカと、
自然に踏み込んでいく時(その大分前に)、
動物たちは、気配を感じて、
いっせいに身を潜めてしまいます。
このような状態を、「ベースラインが乱れる」と言います。
そして、人間が起こした乱れが、
森に広がっていく姿を、
「波紋が広がる」と言います。
そのため、
通常、私たち人間は、本来のあり様では、
自然の姿を、ほとんど目にすることがないのです。
そのような、
ベースラインの世界に通暁し、
その世界の諸相について教えてくれるのが、
狩猟民の人々です。
彼らは、生きていく必要上から、
そのような自然の世界の奥に、
潜り込む必要があったからです。
そして、彼らが教えてくれることは、
私たち現代人が見失っている、
生の奥義に触れる、
繊細な生の技法なのです。
◆野生の視野 Wide Angle Vision
さて、両手を広げて、耳の延長上に
掌を持っていきます。
指をひらひらと動かしてみます。
視界の端で、それをとらえます。
視線を合わせるのではなく、
焦点を合わせない視線で、
白目の端で、それら両方を見ます。
それが、自然界の視線です。
自然界は、忍びあいの世界です。
いつ、敵が襲ってくるか、分かりません。
そのため、広い角度で、視界にあるものをとらえる、
というのが自然の企画です。
特に、草食動物は、目が頭の両横についていて、
視界が広くなっています。
大型の肉食動物は、目が比較的、
前についています。
より攻撃に特化したためでしょう。
しかし、視線自身は、基本、
Wide Angle Visionです。
焦点化することは、危険が伴うからです。
一方、焦点化する視線を、
Tunnel Visionといいます。
視野狭窄の状態です。
Tunnel Visionの視線は、
エネルギーが高い不自然な状態であり、
ベースラインの世界では、
違和感として、人間の存在の特徴として、
動物たちに、すぐに感じとられるといわれています。
鳥類などは、肌感覚で、
人間のTunnel Visionを、
感じとるといわれます。
自然に入る時は、
Wide Angle Visionでないと
いけないのです。
そのため、
私たちが、自然本来の姿を垣間見たいと思うなら、
歩き方や、忍び方は、もちろんのこと、
視線のあり様、意識のあり様から、変えていかないと、
野生本来の姿を目にすることは、できないのです。
※気づきや統合、変性意識状態(ASC)への
【PART1 Basic】ゲシュタルト療法
→ゲシュタルト療法【基礎編】
→ゲシュタルト療法【実践・技法編】
→ゲシュタルト療法【応用編】
→「セッション(ワーク)の実際」
【PART2 Standard】
気づきと変性意識の技法 基礎編
→変性意識状態(ASC)とは
→「英雄の旅」とは
→体験的心理療法
→NLP 普及・効果・課題
→禅と日本的霊性
→野生と自然
【PART3 Advanced】
気づきと変性意識の技法 上級編
→変性意識状態(ASC)の活用
→願望と創造性の技法
→その他のエッセイ
【PART4 当スペース関係】
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危険をとって生きている者は、
どんなことを、
その感覚のうちに、
知っているのでしょう。
通常、私たちは、「合意的現実」の中で、
その因果律の中で、
予測可能な現実を、
選んで生きています。
その場合、
私たちの見る未来は、
想定可能な未来でしかないでしょう。
しかし、
ギャンブラーのような、
リスク・テイカーは、
想定可能、予測可能ものの向こうに、
身を投げ出して、
冒険していくことを好みます。
おそらく、
その感覚と経験のなかで、
私たちが想定するもの以上の
ものを見ているのでしょう。
それは、
賭けと危険の感覚の中で鍛えられた、
野生の感覚、透視力と言えるでしょう。
※気づきや統合、変性意識状態(ASC)への
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