この動画では、
私たちがもつ、
という気分の背後にある、
心理的構造について、解説しています。
さて、「サイケデリック psychedelic 」という言葉は、音楽やデザインのイメージとして、その言葉がよく知られています。しかし、フワッとした印象だけで、その体験が、実際に「どのような体験内容を指しているのか」という点(質感/クオリア/実相)については、日本ではあまり一般には認知されていません。
ところで、変性意識状態(ASC)の研究も、トランスパーソナル心理学の出現も、1960年代の時代的な背景として、(合法であり、治療用でもあった向精神性物質による)サイケデリック・セラピーの手堅い研究があったからこそ、リアルで厚みのあるものになっていったという経緯(前提)があります。
◆時代の先駆け
ところで、時代に先駆けた先駆的な業績としては、英作家オルダス・ハクスリーが、「サイケデリック」という造語を考え出したハンフリー・オズモンド博士(その経緯はリンク先参照)のもとで、幻覚剤メスカリンの服用体験を記した『知覚の扉 The Doors of Perception 』という書物があります。
これはそのよう具体的なサイケデリック体験を記し、一般にその意味合いを知らしめた重要な作品となっています。
この書名『知覚の扉 The Doors of Perception 』は、これまたイギリス最重要の幻視家、W.ブレイクの詩句より来ています。
If the doors of perception were cleansed every thing would appear to man as it is, Infinite.
For man has closed himself up, til he sees all things thro’ narrow chinks of his cavern.
もし知覚の扉が浄められたなら、すべてのものがありのままに、無限のものとして現われるだろう。
というのも、人はすべてものを、彼の洞窟の狭い隙間を通して見るまでに、自らを閉ざしてしまっているからである。
(THE MARRIAGE OF HEAVEN AND HELL より)
ハクスリー自身がこのような事態(人間の閉ざされた事態)を、そのサイケデリック体験を通して痛感したからでしょう。彼自身は、非常に「知的な」作家でした。そのような面での限界を、彼自身が強く感じたことが、彼をこのような探求に向かわせたと考えられるのです。
ちなみに、詩人ブレイク自身は、この詩句の前節で、心身二元論をまずは消し去るべき考え方であると指摘しています。そして、見かけ上の表面を溶かし、隠れた無限をあらわにする(健康かつメディカルでもある)地獄的な方法について言及しているのです。
また、この書名は、アメリカの(サイケデリック・)ロック・バンドのドアーズ The Doors の名前の元となりました。シンガーのジム・モリソンが「自分たちは、既知と未知の間にある扉(ドア)になりたい」と考えたからでした(ちなみに、ジムは歌やバンドをはじめるよりもずっと前に、LSD(治療用幻覚剤)体験の中で自分が大聴衆の前で歌っているという未来のヴィジョンを見たといわれています)。
さて、ところで、この本の中で描写されている「メスカリン」は、そもそもネイティブ・アメリカンの或る部族が儀式でつかうサボテン(ペヨーテ)に含まれている物質でした。
つまり、伝統的な社会の中では、そのような体験が、世界観の中に受け入れられているということです。
そして、この本で記されているような哲学的洞察は、「サイケデリック体験」についての、後の時代への決定的な指針となったことがうかがえるような興味深いものとなっているのです。
変性意識状態(ASC)や、トランスパーソナル心理学が、そもそも何を目指しているのかを考えるのに際しても、とてもヒントになるものであるのです。そのようなわけで、ハクスリー自身は、まだ手探りの状態にあった初期段階からエサレン研究所(後の新しい体験的心理療法の総本山)の後見人にもなったりしたわけでした。
『知覚の扉』の中で、ハクスリーは、そのメスカリン体験を記しています。
「…私が眼にしていたもの、それはアダムが自分の創造の朝に見たもの―裸の実在が一瞬一瞬目の前に開示していく奇蹟であった。イスティヒカイト。存在そのもの―エクハルト(※ドイツの神秘家)が好んで使ったのは、この言葉ではなかったか?イズネス、存在そのもの。プラトン哲学の実在―ただし、プラトンは、実在と生成を区別し、その実在を数学的抽象観念イデアと同一視するという、途方もなく大きな、奇怪な誤りを犯したように思われる。だから、可哀想な男プラトンには、花々がそれ自身の内部から放つ自らの光で輝き、その身に背負った意味深さの重みにほとんど震えるばかりになっているこの花束のような存在は、絶対に眼にすることができなかったに相違ない。また彼は、これほど強く意味深さを付与されたバラ、アイリス、カーネーションが、彼らがそこに存在するもの、彼らが彼らであるもの以上のものでも、以下のものでもないということを知ることも、絶対にできなかったに相違ない。彼らが彼らであるもの、花々の存在そのものとは―はかなさ、だがそれがまた永遠の生命であり、間断なき衰凋、だがそれは同時に純粋実在の姿であり、小さな個々の特殊の束、だがその中にこそある表現を超えた、しかし、自明のパラドックスとして全ての存在の聖なる源泉が見られる…というものであった。」ハックスレー『知覚の扉』今村光一訳、河出書房新社
また、
「…私は花々を見つめ続けた。そして花々の生命を持った光の中に、呼吸と同じ性質のものが存在しているのを看たように思った―だが、その呼吸は、満ち干を繰返して、もとのところにもどることのある呼吸ではなかった。その呼吸は、美からより高められた美へ、意味深さからより深い意味深さへと向かってだけ間断なく流れ続けていた。グレイス(神の恩寵)、トランスフィギュレーション(変貌、とくに事物が神々しく変貌すること)といったような言葉が、私の心に浮かんできた。むろん、これらの言葉は、私が眼にする外界の事物に顕わされて顕われていたのである。バラからカーネーションへ、羽毛のような灼熱の輝きから生命をもった紫水晶の装飾模様―それがアイリスであった―へと私の眼は少しずつ渉っていった。神の示現、至福の自覚―私は生まれて初めて、これらの言葉の意味するものを理解した。…仏陀の悟りが奥庭の生垣であることは、いうまでもないことなのであった。そして同時にまた、私が眼にしていた花々も、私―いや『私』という名のノドを締め付けるような束縛から解放されていたこの時の『私でない私』―が見つめようとするものは、どれもこれも仏陀の悟りなのであった。」(前掲書)
そして、そのような体験について考察をめぐらせます。
…宗教上の言葉で“この世”と呼ばれている世界が、すなわちこの世界であり、その世界では濾過されて残った意識内容だけが言葉によって表現される世界、そしてさらにいえば、言葉によって生命を失って石化されてしまっている世界である。ほとんどの人々は、その人生のほとんどの時において、減量バルブを通して減量された意識内容で、方言にすぎない人間の言語が本当に真実のものだというお墨付けを付けたものだけしか知ることがない。減量バルブの表街道に対して、これを出し抜く一種のバイパスというべき裏街道が存在する。そしてある種の人々は、このバイパスを生まれつき持っているように思われる。」(前掲書) ※太字強調引用者
引用文の中で、ハクスリーの「減量バルブ」という言葉が出てきますが、これはフランスの重要な哲学者ベルクソンが考えているような観点、つまり、私たちの「脳」というものは、情報を濾過し、減量する性質を持つものであるという観点に拠っているものです。
私たちのこの地上での生存の都合上、余計な情報は濾過して、認知しないような機能を、脳は担っているという視点です。脳は「抑制するための装置/減量バルブ」ということです。
「バイパス」とは、そのような「脳の濾過機能」をかいくぐって、本来ある豊饒な情報にアクセスする抜け道という意味合いです。
◆サイケデリック(意識拡張)の研究
では参考に、他の人物による、サイケデリック体験、治療用幻覚剤LSDの体験セッションの報告も見てみましょう。
LSDといえば、今では、まるで「ドラッグ」のように思われていますが、元々は、精神医療の中で使用されていた治療用の幻覚剤です(当然、当時は合法です)。しかし、そもそも、この「幻覚剤」という日本語自体が、事実を歪曲した表現でもあります。通常、「幻覚」とは「現実でない」ことを意味しているからです。※「LSD(リゼルグ酸ジエチルアミド lysergic acid diethylamide )」
サイケデリック・セラピーの権威スタニスラフ・グロフ博士は、LSDについて、むしろ逆のことを語っています。
「それらは、他の薬物のように、薬物特有の状態を誘発するのではなく、むしろ、無意識的プロセスの特定しえない触媒もしくは増幅器として働き、人間精神エネルギー・レベルをあげることにより、その深層の内容と生得的なダイナミクスを顕在化させるのである」(グロフ『自己発見の冒険』吉福伸逸他訳 春秋社)
LSDは、深層意識そのもののリアリティ(現実性)を開示するということです。そのため、心理療法のツールとして効果を上げたのです。例えば、通常、私たちが過去のことを思い出すといっても(記憶力を振り絞っても)、幼い頃のことなどなかなか思い出せません。しかし、LSDでは、簡単にほんの幼少期の記憶まで鮮明によみがえってきます。また、乳幼児や胎児の頃の記憶まで出てくるということが普通にあったのです。
そのため、当時、ハーバード大学の教授であったティモシー・リアリー博士らも、LSDを精神解放のツールとして、「サイケデリック体験」用として、これを大いに喧伝したのです。
さて、そのようなLSDですが、ここでは、少し極端な事例を見てみましょう。その方が、それがもたらす「意識拡張」という意味合いがよくわかるからです。
次の例は、或る精神科医が、LSD体験セッションの中で、自分が「精子」にまで戻り、「胎児」として生長する体験をすることになりました。
「しばらくして、大変驚いたことに、自分が一個の精子であり、規則正しい爆発的な律動が、震動するように動いている私の長い鞭毛に伝えられた生物的なペースメーカーのビートであることを、認識することができた。私は、誘惑的で抵抗しがたい性質を持った、何らかの化学的メッセージの源泉をめざす熱狂的なスーパーレースに巻き込まれていたのだ。その頃には(教育を受けた大人の知識を使って)、卵子を到達しその中に突入し受精することがゴールだということがわかった。この場面全体が私の科学的な精神にはばかばかしくこっけいに見えたが、ものすごいエネルギーを要するこの大真面目で不思議なレースに夢中にならずにはいられなかった。
卵子を求めて張り合う精子の体験をしながら、関与するすべてのプロセスを私は意識した。起こっていることは、医学校で教わった通りの生理学的な出来事の基本的特性を備えていた。とはいえ、それら加えて、日常の意識状態ではとても思い描けない次元もたくさんあった。この精子の細胞意識はひとつのまとまりをもった自律的な小宇宙で、独自の世界だった。私は核原形質の生化学的なプロセスの複雑さを明確に意識し、染色体、遺伝子、DNA分子を漠然と意識していた」
「(卵子と)融合した後も、体験はまだ速いペースで続いた。受胎後、圧縮され加速された形で胎児の成長を体験した。それには、組織の成長、細胞分裂、さらにはさまざまな生化学的プロセスについての完全に意識的な自覚が伴っていた。立ち向かわなければならない数多くの課題、その時おりの挑戦、克服すべき決定的な時期がいくつかあった。私は、組織の分かと新しい器官の形成を目撃していた。そして、脈打つ胎児の心臓、円柱状の肝臓の細胞、腸の粘膜の皮膜組織になった。胎児の発達にはエネルギーと光の莫大な放出が伴っていた。このまばゆい金色の輝きは、細胞と組織の急速な成長にまつわる生化学的なエネルギーと関係しているように感じた」(グロフ『深層からの回帰』菅靖彦他訳 青土社 ※太字強調引用者)
次の事例では、被験者は、その体験セッションの中で、「自分を、鉱物の意識状態と同一化していく」という非常に奇妙な体験をしていきます。
「次の例は、琥珀、水晶、ダイヤモンドと次々に同一化した人物の報告だが、無機的な世界を巻きこむ体験の性質と複雑さをよく示している。(中略)
それから体験は変化しはじめ、私の視覚環境がどんどん透明になっていった。自分自身を琥珀として体験するかわりに、水晶に関連した意識状態につながっているという感じがした。それは大変力強い状態で、なぜか自然のいくつかの根源的な力を凝縮したような状態に思われた。一瞬にして私は、水晶がなぜシャーマニズムのパワー・オブジェクトとして土着的な文化で重要な役割を果たすのか、そしてシャーマンがなぜ水晶を凝固した光と考えるのか、理解した。(中略)
私の意識状態は別の浄化のプロセスを経、完全に汚れのない光輝となった。それがダイヤモンドの意識であることを私は認識した。ダイヤモンドは化学的に純粋な炭素であり、われわれが知るすべての生命がそれに基づいている元素であることに気づいた。ダイヤモンドがものすごい高温、高圧で作られることは、意味深長で注目に値することだと思われた。ダイヤモンドがどういうわけか最高の宇宙コンピュータのように、完全に純粋で、凝縮された、抽象的な形で、自然と生命に関する全情報を含み込んでいるという非常に抗しがたい感覚を覚えた。
ダイヤモンドの他のすべての物質的特性、たとえば、美しさ、透明性、光沢、永遠性、不変性、白光を驚くべき色彩のスペクトルに変える力などは、その形而上的な意味を指示しているように思われた。チベット仏教がヴァジュラヤーナ(金剛乗)と呼ばれる理由が分かったような気がした(ヴァジュラは「金剛」ないし「雷光」を意味し、ヤーナは「乗物」を意味する)。この究極的な宇宙的エクスタシーの状態は、「金剛の意識」としか表現しようがなかった。時間と空間を超越した純粋意識としての宇宙の創造的な知性とエネルギーのすべてがここに存在しているように思われた。それは完全に抽象的であったが、あらゆる創造の形態を包含していた」 ※太字強調引用者 グロフ『深層からの回帰』菅靖彦他訳(青土社)
上記のセッションを指導した、精神科医のスタニスラフ・グロフ博士は、(「自己実現」で有名な)A.マズローとともに、「トランスパーソナル心理学」立ち上げた重要人物です。そして、「サイケデリック研究」の権威です。
博士は、元々チェコで、合法だった時代の、LSDを使って、サイケデリック・セラピー(LSDセラピー)を行なっていた人でした。数千回(直接に三千回、間接に二千回)にわたるサイケデリック・セッションにたずさわり、人間の深い治癒プロセスと、〈意識 consciousness 〉の不可思議な能力を目の当たりにしていったのです。
そして、このような観察結果/研究内容が、最晩年のマズローを突き動かして、トランスパーソナル心理学設立へと駆り立てたのでした。
しかし、グロフ博士がたどり着いた結論は(本人自身がそれを受け入れがたく、長年、精神的に葛藤したと語るように)、今現在、一般に流通しているメインストリームの科学的世界観とそぐわないものとなったのです。
彼は、それらに至る経緯を語っています。
「LSD研究のなかでわたしはとうの昔に、ただ単に現代科学の基本的諸仮定と相容れないという理由で、絶えまなく押し寄せる驚異的なデータ群に目をつぶりつづけることが不可能なことを思い知った。また、自分ではどんなに想像たくましくしても思い描けないが、きっと何か合理的な説明が成り立つはずだと独り合点することもやめなければならなかった。そうして今日の科学的世界観が、その多くの歴史的前例同様、皮相的で、不正確かつ不適当なものであるかもしれないという可能性を受け容れたのである。その時点でわたしは、不可解で議論の的となるようなあらゆる知見を、判断や説明をさしはさまず注意深く記録しはじめた。ひとたび旧来のモデルに対する依存心を捨て、ひたすらプロセスの参加者兼観察者に徹すると、古代あるいは東洋の諸哲学と現代の西洋科学双方のなかに、大きな可能性を秘めた新しいエキサイティングな概念的転換をもたらす重要なモデルがあることを少しずつ認識できるようになった」(グロフ『脳を超えて』吉福伸逸他訳、春秋社) ※太字強調引用者
新しい見方をとっていくことで、上に引用した「鉱物との同一化」やその他の無数に起こる奇妙な体験の数々を受け容れることができるようになっていったのです。「判断や説明をさしはさまず注意深く記録」していくことによってです。しかし、それらは、現在一般に信じられている科学的世界観とはそぐわないものでもあったのです。しかし、これはまた、変性意識状態(ASC)全般について言えることでもあるのです。
彼は、サイケデリック(意識拡張)・セッションでの結論を次のように語ります。
「サイケデリック体験の重要な特徴は、それは時間と空間を超越することである。それは、日常的意識状態では絶対不可欠なものと映る、微視的世界と大宇宙との間の直線的連続を無視してしまう。現れる対象は、原子や分子、単一の細胞から巨大な天体、恒星系、銀河といったものまであらゆる次元にわたる。われわれの五感で直接とらえられる「中間的次元帯」の現象も、ふつうなら顕微鏡や望遠鏡など複雑なテクノロジーを用いなければ人間の五感でとらえられない現象と、同じ経験連続体上にあるらしい。経験論的観点からいえば、小宇宙と大宇宙の区別は確実なものではない。どちらも同じ経験内に共存しうるし、たやすく入れ替わることもできる。あるLSD被験者が、自分を単一の細胞として、胎児として、銀河として経験することは可能であり、しかも、これら三つの状態は同時に、あるいはただ焦点を変えるだけで交互に起こりうるのである」
「サイケデリックな意識状態は、われわれの日常的存在を特徴づけるニュートン的な線形的時間および三次元空間に代わりうる多くの異種体験をもたらす。非日常的意識状態では、時間的遠近を問わず過去や未来の出来事が、日常的意識なら現瞬間でしか味わえないような鮮明さと複雑さともなって経験できる。サイケデリック体験の数ある様式(モード)のなかには、時間が遅くなったり、途方もなく加速したり、逆流したり、完全に超越されて存在しなくなったりする例もある。時間が循環的になったり、循環的であると同時に線型的になったり、螺旋軌道を描いて進んだり、特定の偏りや歪みのパターンを見せたりしうるのである。またしばしば、一つの次元としての時間が超越されて空間的特性を帯びることがある。過去・現在・未来が本質的に並置され、現瞬間のなかに共存するのだ。ときおり、LSDの被験者たちはさまざまなかたちの時間旅行(タイム・トラベル)も経験する。歴史的時間を遡ったり、ぐるぐる回転したり、完全に時間次元から抜け出て、歴史上のちがった時点に再突入したりといった具合だ」
「非日常意識状態についてふれておきたい最後の驚くべき特徴は、自我(エゴ)と外部の諸要素との差異、もしくはもっと一般的にいって、部分と全体との差異の超越である。LSDセッションにおいては、自己本来のアイデンティティを維持したまま、あるいはそれを喪失した状態で、自分をほかの人やほかのものとして経験することがありうる。自分を限りなく小さい独立した宇宙の一部分として経験することと、同時にその別の部分、もしくは存在全体になる経験とは相容れないものではないらしい。LSD被験者は同時にあるいは交互に、たくさんのちがったかたちのアイデンティティを経験することができる。その一方の極は、一つの物理的身体に住まう、分離し、限定され、疎外された生物に完全に同一化すること、つまりいまのこのからだをもつということだろう。こういうかたちでは、個人はほかのどんな人やものともちがうし、全体のなかの無限に小さな、究極的には無視してかまわない一部分にすぎない。もう一方の極は、〈宇宙心(ユニヴァーサル・マインド)〉ないし〈空無(ボイド)〉という未分化の意識、つまり全宇宙的ネットワークおよび存在の全体性との完全な経験的同一化である。」(グロフ前掲書) ※太字強調引用者
このような結論は、その体験の中で現れてくる意識状態そのものの不可思議さもあり、「『意識』そのものがどのようなものであるのか」という大問題にも関わるので、簡単に理解しがたいものですが、精神と心を探求する者にとって、とても示唆の多いものとなっているのです。そして、ケン・ウィルバーのいう「意識のスペクトル」論などへも、現象的な意味で、重要な光を照らすものとなっているのです。
◆まとめ
さて、このセッションでは、「サイケデリック」について、ハクスリーやスタニスラフ・グロフ博士の研究について見てきました。
とても興味深く、不思議な世界ではないでしょうか?
しかし、このような世界は、必ずしもサイケデリック物質(ドラッグ)を摂らなくとも得ることができるものなのです。
実際、上のグロフ博士は、LSDの使用に法的規制がかかった後は、体験的心理療法/(呼吸法を使った)「ブリージング・セラピー」を使って、近似した効果を上げていくことになりました。
なぜなら、サイケデリック物質は、きっかけでしかなく、意識の変容した状態である変性意識状態(ASC)さえちゃんと生み出せれば、方法論はなんでも良いからです。
さらに言うと、変性意識状態(ASC)さえ、きっかけであり、私たちの本源にある「〈意識 consciousness〉の本性」そのものに深くコンタクト(接触)できれば、深い次元の体験をできるからです。
次の女性の事例は、そのブリージング・セッションの中で、「自分を鯨としてまざまざと体験する(同一化する)」という、奇妙な、サイケデリック体験と同様の体験をしていきます。
「意識がはっきりと大洋的な性質を帯びてきたという感覚が高まり、ついに、大洋の意識と表現するのが一番ふさわしいものに、自分が実際になるという感覚を覚えた。いくつかの大きな体が近くにいることに気づき、それが鯨の群れであることを悟った。
気がつくと、頭部を冷たい空気が流れるのを感じ、口の中に塩辛い海水の味がした。明らかに人間のものではない異質な感覚や気持ちが微妙に私の意識をのっとった。周囲にいる他の大型の身体との原初的なつながりから新しい巨大な身体イメージが形成されはじめ、自分が彼らの仲間のひとりになったことを悟った。腹の内部にもうひとつの生命形態を感じ、それが自分の赤ん坊であることを知った。自分が妊娠している雌鯨であることに何の疑いも持たなかった」(グロフ前掲書)
体験的心理療法は、私たちの閉ざされた知覚や心身を、心身一元論的に溶解し、知覚を流動化させていくことで、変性意識状態(ASC)や、超越的な、トランスパーソナル(超個的)な次元が体験されてくることになるからです。それは、いみじくも、幻視家W.ブレイクの語った通りです。別に、映画『マトリックス』を素材にそのことを解説してみました。
→「映画『マトリックス』のメタファー(暗喩) 残像としての世界」
また、さきのハクスリーの言葉の中で、「バイパス」の話が出てきました。バイパスとは、「脳の濾過機能」をかいくぐって、本来ある豊饒な情報にアクセスする抜け道という意味合いです。
しかし、歴史的に考えると、それらは伝統的には、シャーマニズム的な世界の中で、昔から存在していたものでもありました。「抜け道」的な意味合いとしては、文化的にはある種、トリックスター的なふるまい(回路)としても存在していたのです。
それは、部族(人類)が、必要なものとして、社会装置の中につくっていたのでした。
そして、実際のところ、そのような「バイパス(変性意識)」は多様に存在しているのです。そして、それは向精神性物質のようなものに限定されているわけでもないです。
実際のところ、古今東西、この世の中には(表向きには隠されているにしても)さまざまな方法論が、宗教や魔術、現代では体験的セラピーとして存在していて、実践されていて、バイパスのような成果を上げてきたからです。
そして、その中でも、「心身一元論的な心を変容させる技法(体験的心理療法)」は、比較的安全かつ的確に、私たちの中に、そのような「バイパス(変性意識)」を作り出していくためのものなのです。
筆者自身、十代の頃に、音楽の影響からハクスリーを読み、強い感銘を受けて、その後、意識の拡張を目指し、ゲシュタルト療法他さまざまな体験的心理療法等に取り組み、さまざまな興味深い変性意識を体験していくことになりました。その結果、実際に「知覚の扉の彼方」にある、まばゆい光明の世界にたどり着くことにもなったのです。
ですので、ハクスリーのような記述は、決して特別な事でも絵空事でもないのです。
私たちが、通常の地道な探求の果てに得られるものでもあるのです。
実際、その後のハクスリーは、アメリカのエサレン研究所 Esalen Institute という、二人の若者がつくる能力開発センターの後見人になりました。ここから、前衛的な体験的心理療法が、世界に広まっていったのです。
→『エスリンとアメリカの覚醒―人間の可能性への挑戦』
エサレン研究所は、ワークショップ・センターであり、アカデミックな機関ではありません。そのため、当時のさまざまな先端的な人々同士が交流する場となり、新しい思想と実践的なメソッドが醸成する空間となったのでした。
有名な人々では、思想家のグレゴリー・ベイトソンやゲシュタルト療法のフリッツ・パールズ、トランスパーソナル心理学のスタニスラフ・グロフらが長期居住者となり、さまざまなワークショップやレクチャーを行ないました。
下記に紹介しているスタニスラフ・グロフのインタビュー動画の中でも、博士はこのエサレン研究所について、「人間ラボラトリー」「潜在能力センター」「どの研究機関や大学よりも、心理学と精神医学に貢献してきた」と語っています。
ハクスリー他の記述に「何か響くもの」を感じた方は、ぜひ、意識拡張の可能性を信じて、薬物という方法でなくとも、色々な探求の旅に出られてみることをおすすめいたします。
→実際の変性意識状態(ASC)の体験事例
また、サイケデリック体験には、上記のような肯定的な面ばかりでなく、薬物中毒の問題以外にも、多くの否定面や問題もありますので、そのあたりは下記をご覧ください。この点の方が、世間的な印象かもしれません。しかし、ある面では、その「直観」は正しいのです。
→変性意識状態(ASC)とは何か advanced 編「統合すれば超越する」 6.なぜ、幼稚なものが多いのか 超個(トランスパーソナル)と前個(プレパーソナル)の違い
→ラム・ダス(リチャード・アルパート)『ビー・ヒア・ナウ』
さきにも触れた、トランスパーソナル心理学を、A.マズローとともに立ち上げた、スタニスラフ・グロフ博士は、元々チェコで、合法だった治療用幻覚剤LSDを使って、数千回にわたるサイケデリック・セラピーを行なっていた最重要人物です。
下の彼のインタビュー動画は、サイケデリック(LSD)の登場、効果、普及の理由などを、彼自身の個人的体験として、歴史的に回顧する大変興味深いものとなっています。↓
https://www.ntticc.or.jp/ja/hive/interview-series/icc-stanislav-grof/
※インタビュー中の、「イサレム」はエサレン、「バルド界」と訳されているものは、「チベットの死者の書」でいう「バルドゥ(中有)」のことです。
付記 「サイケデリック psychedelic 」という言葉の由来
参考までに、(日本では今でも)意味が伝わりづらい「サイケデリック psychedelic 」という言葉(用語、名称)が採用され、公式に世に出された経緯(由来、語源)を下記に引用しておきます。その言葉をつくったオズモンド博士は、まだ医療用の向精神性薬物が開発される前の時代に、精神科医として、統合失調症(精神分裂症)の脳内で起こっている生化学的プロセスに興味をもった人物でした。その生化学的プロセスがわかれば、治療になると考えて、精神に作用する物質を研究しはじめたのでした。しかし、そのような物質の薬効を体験し、調べているうちに、そのような物質は、もっと能動的で、積極的、創造的な作用を心にもたらすことに気づいていったのです。
LSD体験を説明した科学論文の用語は、オズモンドにはぴんとこなかった。幻覚とか精神障害という用語は、悪い精神状態しか意味していない。ほんとうに客観性を重んじる科学であれば、たとえ異常な、あるいは正気でないような精神状態を生みだす化学薬品に対しても、価値判断はくださないのが筋なのに、精神分析の用語は病理的意味あいを反映していた。オルダス・ハックスリーも、病理学的用語は、不適切だと感じていた。このドラッグの総体的な効能を完全に包含するには、新しい名称をつくるしかない、オズモンドもハックスリーもこの点では意見が同じだった。
オズモンドはハックスリーがはじめてメスカリン体験をしたときの縁で、親友づきあいをしており、頻繁に手紙をやりとりしていた。最初ハックスリーは「ファネロシーム」ではどうかと提案した。語源は「精神」とか「魂」という意味である。オズモンドあての手紙には、つぎのような対句が書かれていた。このつまらない世界に荘厳さが欲しければ、
ファネロシーム半グラムをのみたまえ。これに対してオズモンドは、こう返歌を書いた。
地獄のどん底、天使の高みを極めたければ、
サイケデリックをひとつまみだけやりたまえこうして「サイケデリック」ということばが、つくられたのである。オズモンドは、一九五七年、このことばを精神分析学会に紹介した。ニューヨーク科学学会の会合で研究報告したとき、彼はLSDなどの幻覚剤は単なる精神障害誘発剤を「はるかにこえる」機能を持っており、したがってこれにふさわしい名称には、「精神をゆたかにし、ヴィジョンを拡大する側面をふくめる」必要があると主張した。そして、「精神障害誘発剤」のかわりに、あたりさわりのない用語を披露したが、これは意味がはっきりしなかった。文字どおりにはサイケデリックは「精神を開示する」という意味で、いわんとするところは、この種のドラッグは予測のつくできごとを開示するのではなく、意識下にかくされていたものを表面にひきだす機能を持つということである。
マーティン・A・リー他 越智道雄訳『アシッド・ドリームズ』(第三書館)
関連記事
→心理学的に見た「チベットの死者の書」
→サイケデリック体験とチベットの死者の書
→実際の変性意識状態(ASC)の体験事例
→拙著『砂絵Ⅰ 現代的エクスタシィの技法 心理学的手法による意識変容』
【ブックガイド】
変性意識状態(ASC)への入り方など、その詳細な概要と実践技法は、
入門ガイド
『気づきと変性意識の技法:流れる虹のマインドフルネス』
をご覧下さい。
また、上記のような変性意識状態が導く深淵な光明(世界)を知りたい方は、事例も含んだ拙著↓
『砂絵Ⅰ 現代的エクスタシィの技法 心理学的手法による意識変容』
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2023/04/17 21:48:07
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さて、前回、
G・I・グルジェフのいう、
自己想起self-rememberingを取り上げ、
気づきawarenessと、
そのあるべき姿について、
考えてみました。
→気づきawarenessと自己想起self-remembering
今回は、
その続きで
気づきawarenessや、
自己想起self-remembering、
覚醒awakenessについて、
また少し見ていきたいと思います。
ところで、
グルジェフ Gurdjieff については、
ミュージシャンの中に、
信奉者が多いのですが、
特に、
ピアニストのキース・ジャレットや、
キング・クリムゾンのロバート・フリップなど、
即興演奏を重視するミュージシャンに、
その信奉者が多いことは、
注目すべきことでもあります。
実は、それは、
即興表現というものに内在した、
必然的な事態でもあるからです。
さて、
ところで、
世の優れた即興演奏の中には、
あたかも、
その演奏(音楽)が、
慣性的な時間に逆らい、
時間の流れに逆行して、
今ここの空間を切り拓き、
時空を創出するかのような印象を、
受けるものがあります。
その音楽の中で、
私たちは、
時間の水平的な流れに対して
(私たちは普段それに流されているわけですが)
あたかも、その上に立つかのように、
垂直的な在り方をするかのようにも、
感じられたりするものです。
存在(時間)を対象化する、
「存在論的な印象」を、
受けるのです。
存在論的な感覚も、
存在に対して、
あたかも、
その上位に立つかのような、
メタ的な、
垂直的な印象を与えるものだからです。
かつて、批評家の間章が、
エリック・ドルフィー Eric Dolphyに
感じ取ったのも、
おそらく、
そのような垂直的な印象だと、
考えられます。
ドルフィーの軽やかさは、
反慣性的で、
反重力的な性質のものです。
そして、これは、
自己想起self-rememberingの持つ、
覚醒感awakenessと、
即興演奏との、
ある種の親和性でも、
あるのです。
今回は、
そのような親和性を、
明確な方法論として位置づけている、
キース・ジャレットKeith Jarrettの言葉を引いて、
この内実を、
見ていきたいと思います。
その著書『インナービューズ』(山下邦彦訳、太田出版)
における、彼の言葉は、
とても示唆に富んでいます。
そこで、
ジャレットは、
気づきや覚醒、熱望(欲望)、
演奏や経験について、
大変興味深い考えや洞察を、
数々示しているのです。
そこで、
彼が語っている覚醒awakeness
というのは、
当然、自己想起self-rememberingに近い、
存在論的な状態のことを、
指していると思われます。
それは、
前回引いた、
タート博士の言葉によれば、
「ある種の透明さ」
「その瞬間の現実に、
より敏感で、
より存在しているという感じ」
としても、
表現されているようなものです。
「人々が
『感じること、見ること、聞くこと』を
初めて試みる時、
彼らは、しばしば、
ある種の微妙な透明さ―
その瞬間の現実に、
より敏感で、
より存在しているという感じ―
を体験する。
それは、
合意的意識では味わうことができず、
また、事実、
言葉では適切に述べることができない、
そういう種類の透明さである。」
(タート『覚醒のメカニズム』〔原題:waking up〕
吉田豊訳、コスモス・ライブラリー)
さて、
キース・ジャレットは語ります。
「実は、ぼく自身、
自分のことを音楽家だというふうには、
考えていない。
どういうことかって言うと、
ぼくは自分の演奏を聴いていて
ほんとうは音楽が問題なのではない
ということがよくわかるんだ。
ぼくにとって、音楽というのは、
目覚めた状態、覚醒したawake状態に
自分を置き、
その知覚、意識awareness、覚醒awakenessを
認知し続けることに
かかわったものなんだ。」
「ぼくにとって、音楽のすべての形式は、
それ自体は、なんの意味もない。
その音楽を演奏している人間が
覚醒した状態にいるからこそ
(仮面の表情の奥で覚醒しているからこそ)、
その音楽は意味を持ってくるんだ。
演奏している人間が覚醒しているなら、
その人間の演奏するあらゆる音楽が
重要になってくる。
この覚醒こそ、最も重要なものなんだ。」
「自分を覚醒した状態にするための
ひとつの方法は、
できるだけ自然のままので、
自発的な状態でいることだ。
きみが自発的な状態でいれば、
自分のくだらないアイディアと
良いアイディアの区別が
よく聞こえてくる。
なにもかも準備した状態では、
そのような経験を持つことは
けっしてないだろう。」
「ぼくにとって、“欲望(want)”というのは、
覚醒した状態、目覚めた状態にいることであり、
きれいな音を出すとか、
耳に心地よい快適な音を出すとか
ということではない。」
「ミニマリズムによって弾かれる1音と、
覚醒した状態にある誰かによって
弾かれる1音との間には、
信じられないほどの違いがある。
覚醒した状態にある人間は、
眠った状態におちいりたくない。
かれはそのひとつの音を、
可能な限りのあらゆる方法で弾いて、
覚醒した状態を
持続するよう努力するだろう。
この時彼は、聴衆から
緊張を取り除こうとしているのではない。
むしろ、緊張の存在に
気がつくようにしているのだ。」
「とにかく、
彼は音楽を聞くためにやって来たのだから、
ぼくは音楽で対処する。
『きみにはある期待がある』
これはぼくが彼に語りかけているわけ。
『きみは期待している。
しかし、その期待は
過去にもとづいているもので、
現在にもとづいたものではない。
きみがそういう期待をもっていることを
否定はしない。
でもぼくは期待以上のものをあげよう。
きみに“ 今”をあげよう。
きみが自分の期待をのぞきこむことのできる
鏡をあげよう』」
「こういったことが、
ぼく自身、
自分のことを音楽家だというふうには、
考えていないという理由なんだ。
(たとえばトリックのようなものは)
音楽上の興味としてはあるかもしれない。
しかし、人生はまた別のものだ。
ぼくはなんとか
その中間に位置したいと思っている。
ぼくはたしかに音楽をやっているけれど、
それは音楽的理由だけのために
やっているのではない、ということなんだ。
でも、ぼくはこういうことを
教えようとしているのではない。
経験しようとしているんだ。
この経験こそが、
コミュニケーションだ。」
「自分が何を弾いているのかということも
たしかに重要だけれど、
もっと重要なことは、
『これはどこから来ているのか?』
『今、こう弾きたいという衝動は
どこから来たのか?』
ということだ。」
(前掲書)
さて、以上、
キース・ジャレットの言葉を
見てみましたが、
通常の音楽家とは、
演奏に求めている事柄が、
少し違うことが分かるかと
思われます。
また、
グルジェフについても、
決して、生半可な理解で、
言及しているのではないことも、
分かります。
そして、
このような彼の言葉が、
彼の音楽を聴くに際して、
(多くの場合そうであるように)
邪魔にならないばかりか、
かえって、
覚醒的awakenessなものにする、
という点も、
興味深いことであるのです。
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さて、以前、
映画『攻殻機動隊』を素材に、
「ゴーストの変性意識状態(ASC)」と題して、
私たちの心の持つ、
階層構造やその可能性について、
考えてみました。
→映画『攻殻機動隊』ゴーストGhostの変性意識
また、そのような、
心の階層構造の可能性についても、
別に、ジョン・C・リリー博士の事例などとともに、
考えてみました。
→「聖霊」の階層、あるいはメタ・プログラマー
そして、他にも、NLPの、
ニューロ・ロジカル・レベル(神経論理レベル)などを素材に、
私たちの持つ、
「信念体系(ビリーフ・システム)」の影響範囲について、
考えてみました。
→NLPニューロ・ロジカル・レベル(神経論理レベル)の効果的な利用法
さて、今回は、
そのような事柄と関連して、
『攻殻機動隊』の続編、
映画『イノセンス』を素材に、
心や変性意識状態(ASC)が持つ、
さまざまな可能性や能力について、
考えてみたいと思います。
さて、
映画のストーリーは、
前作の後日談となっています。
人形使いのゴーストGhostと融合して、
「上部構造にシフト」してしまった、
草薙素子(少佐)は失踪扱い、
前作で、一番身近にいて、
素子の最後の義体まで用意した、
相棒のバトーが、
今作では、主人公となっています。
そのバトーが、
ネットに遍在するかのような、
(元)少佐のゴーストと、
交流する姿を描くのが、
本作となっています。
ところで、本作ですが、
事故や殺人事件を起こす、
ガイノイド(人形)の謎を、
捜査で追っていくのが、
メインの筋書きとなっています。
さて、
そのような捜査の中で、
バトーや、相棒のトグサは、
ガイノイド製造元のロクス・ソルス社より、
(雇われた傭兵のキムより)
ゴーストハックによる捜査妨害を、
受けます。
つまり、
心Ghostを、
ハッキングされ(侵入、乗っ取られ)、
疑似体験を、
させられてしまうのです。
そのせいにより、
バトーは、
コンビニで、銃を乱射したり、
ドグサは、
フィリップ・K・ディックの小説のような、
現実だか、幻覚だか分からないような、
テープ・ループのような反復体験に、
巻き込まれていくことになるのです。
映画の中で、
バトーは、トグサに、
その体験を説明するために、
「疑似体験の迷路」
という言葉を、使いました。
◆疑似体験の迷路
さて、ところで、
映画の中では、
キムの、ゴーストハックによる、
疑似体験の注入であったため、
それが「疑似」体験であると、
いえるわけですが、
では、
この私たちの現実体験とは、
どのように、
なっているのでしょうか?
映画の中では、
疑似体験と対比的に、
物理現実という言葉が、
使われています。
物理現実であれば、
疑似体験ではないということです。
ところで、以前、
映画『マトリックス』を素材に、
考えてみたところで、
私たちの、
この日常的現実が、
マトリックスの作り出す、
幻想世界と、
さほど違っているわけではないこと、
について記しました。
→映画『マトリックス』のメタファー(暗喩) 残像としての世界
私たちは、
成育過程の中で得た、
さまざまな信念体系や、
知覚的拘束の中で、
この世界を見ている(見させられている)、
というわけです。
そのように考えると、
私たちが、
「物理的現実」と呼び、
唯一の実在性を、信じたい知覚世界も、
必ずしも疑似体験ではないと、
言い切れるわけではないのです。
というよりも、
この日常的現実も、
その構成成分の多くが、
疑似体験である、
と考えた方が、良いのです。
◆信念体系と疑似体験の迷路
さて、NLPの、
ニューロロジカルレベル(神経論理レベル)
について見たところで、
その信念体系(ビリーフ・システム)が、
非常に高い階層に属しており、
私たちの現実を創り出す、
大きな要因と、
なっていることを見ました。
→NLPニューロ・ロジカル・レベル(神経論理レベル)の効果的な利用法
このモデルの妥当性は、
保留したとしても、
信念体系(ビリーフ・システム)が、
私たちの日常意識や、
日常的現実を生み出す、
決定的な要因であることは、
間違いないことです。
そのような、
信念体系のフレームの中で、
私たちは、
オートポイエーシス的に、
日常的現実を、
意識の内に、
自己産出し続けているのです。
場合によって、
人は、一生を、
疑似体験の迷路の中で、
過ごすと言ってもいいのです。
そして、
この疑似体験に気づくためには、
システム的に、
この疑似体験自体を、
相対化する要素が、
必要となって来るわけなのです。
◆守護天使(聖霊)の階層
さて、
映画の中では、
バトーが、
ゴーストハック攻撃を受けている時に、
(元)少佐、草薙素子が、
さまざまな合図を送ってくれます。
今している体験が、
疑似体験の罠であることを、
知らせてくれるのです。
コンビニにおけるシーンでは、
バトーは、
スルーしてしまったわけですが、
「キルゾーンに踏み込んでるわよ」
と、はっきりと、
メッセージをくれています。
つまり、
日常意識よりも、
高い階層にいる少佐は、
疑似体験に占拠されている日常意識を、
見抜き、透視することが、
できるわけなのです。
のちに、バトーは、
キムとの会話の中で、
「俺には、守護天使がついている」と、
発言しています。
キムは、
自分が組み上げた防壁の中に、
何者かが、
書き込みを入れているのを見て、
驚くわけです。
彼の考えでは、
そんな芸当ができる人間など、
想像できないわけです。
また、
ロクス・ソルス社艦内の、
戦闘シーンで、
ガイノイドに、ロードして、
バトーの救援に現れた、
少佐に対して、
バトーは、
「聖霊は現れ給えり」
と表現したわけです。
比喩としても、
バトーやキムよりも、
高い階層にいる(元)少佐の在り様が、
暗示されているわけです。
しかしながら、
このような上部階層の心(意識)は、
必ずしも、
守護天使や聖霊でなくとも、
私たちの心のシステム自体として、
存在していると、
考えてもよいのです。
本サイトや、拙著でも、
さまざまに記していますが、
世界中の変性意識状態(ASC)の報告は、
そのような可能性を、
示唆してもいるのです。
→内容紹介 拙著『砂絵Ⅰ: 現代的エクスタシィの技法 心理学的手法による意識変容』
それは、
何らかのきっかけをもって作動し、
私たちを、
疑似体験の迷路の外に、
連れ出してくれるのです。
その風景を、
見せてくれるのです。
そして、
私たちが、現代社会の、
閉塞したキルゾーンの中にいることを、
教えてくれるのです。
私たちは、
変性意識状態(ASC)への旅や、
その世界との往還を、
数多く繰り返し、
学習していくことで、
そのような意識の帯域(往還コース)を、
拡張していくことが、
できるのです。
そして、
これはまた、
多くのシャーマニズムの伝統が、
行なって来たことでも、
あるのです。
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◆知らされた消息
その昔、アレハンドロ・ホドロフスキー監督といえば、ジョン・レノンが惚れ込んだ『エル・トポ』やその後の『ホーリー・マウンテン』などのカルト・ムービーの映画監督として有名でした。
その後は『サンタ・サングレ』など、わずかな作品の紹介はありましたが、長くその消息を耳にすることもなく、彼が活動しているのかしていないのかさえ分からない状況でもありました(昨今では、その映画をはじめ、多彩な活動が日本でも知られる状態となっており、昔日の状況を思うと少し不思議な気持ちにさせられます)。
さて、そのように長く知られない状態があったため、自伝として突然届けられた『リアリティのダンス』(青木 健史訳/文遊社)は、ホドロフスキー氏のその間の消息を伝えてくれる貴重なドキュメントとなっていたわけです。
そして、その内容は、『エル・トポ』以前も以後も、彼が実に濃密で精力的な活動を生涯の探求として推し進めていたことを知らせてくれるものでもあったのです。
◆サイコマジックとサイコシャーマニズム
さて、その自伝的な内容ですが、シュルレアリスム(超現実主義)やアラバールのパニック演劇との関係などアート系の活動は、比較的予想がつく範囲内での内容であったわけですが、その延長・周辺でさまざまな精神的探求の活動も同時に推し進めていたというのは、驚きでもあり納得的な事柄でもありました。(『サンタ・サングレ』は心理療法的な物語でした)
そして、本書は、(本物らしき?)カルロス・カスタネダやアリカ研究所のオスカー・イチャーソなど、その関係での人々との交流やその体験描写もとても興味深い内容となっていたのでした。
中でも、多くの紙数を割いている、サイコマジック、サイコシャーマニズム関連の記述は、その内容の具体性からも方法論的な見地からも大変貴重なドキュメントとなっているものです。
当スペースのように、心理療法や変性意識状態(ASC)、シャーマニズムや創造性開発を方法論的なテーマにしている者にとっては特にそうであったわけです。
ところで、彼のいうシャーマニズムとは、いわば「本物に近いシャーマニズム」です。
通常、現代社会の中でシャーマニズムという言葉が、方法論的な概念として使われる場合(当スペースなどもそうですが)、多くは、その構造的なモデルを比喩的に呼ぶために使われているものです。
変性意識状態(ASC)を含んだ意識の拡張範囲や可動域、潜在意識の力動性、心理的変容を描くのに、伝統的なシャーマニズムのモデルがとても有効に働くという見地からです。
→内容紹介『砂絵Ⅰ: 現代的エクスタシィの技法 心理学的手法による意識変容』
それは、必ずしも伝統社会のシャーマニズムのように、まるごとの信念体系(世界観)として使われているわけではないのです。
そのような意味では、ホドロフスキー氏のシャーマニズムは、方法論的に、より本物のシャーマニズムにスタンスともなっているわけです。
そこでは、肉体的な病気の治療に見られるように、精神(潜在意識の力動性)が、肉体物質の情報を書き換える力を持つことを、もしくはその区分が無い領域を前提としているものでもあるからです。
まさに、マジック・リアリズム(魔術的現実主義)なわけです。
そして、もし、ホドロフスキー氏の施術を事実として受け止めるならば、私たちは、物質や精神についての近代的な世界観(メインストリームでの区分)を考え直さなければならないというわけなのです。(しかし、現場的な実感からすれば、事態はまったくそのようなことでもあるのです)
そのような意味においても、本の中では、施術のディテールを詳細に記してくれているので、その点でも非常に参考となるものになっているわけです。
そして、その評価については、各人がさまざまな実践や実経験を通して、検証していくしかないものとなっているのです。
これらの事象を、人々が盲信している近代的な世界観や先入観によって、ありえないこととして裁くことは無意味なことです。
実際、筆者自身は、自分のさまざまな変性意識状態による変容は、クライアントの方に起こる不思議な変容経験からも、これらの現象は、まったく違和感なく受け取れるともいえます。また、その原理的な面にも照明が当てられており、大変ありがたく感じることでもあるのです。
◆心と信念の影響範囲
さて、この最後の点(世界観)について、身近な例を挙げれば、以前取り上げた、NLP(神経言語プログラミング)の神経論理レベルの中における、信念(ビリーフ)などとも関係して来る事柄といえます。
→NLPニューロ・ロジカル・レベル(神経論理レベル)の効果的な利用法
ディルツ氏の考えた「神経論理レベル」においては、「信念」という階層が実現可能性(できる)の上に位置しています。
このこと(世界観)は、通常、人は信念の内あることのみを実現できるということを意味しているわけです。信念体系が、人のリアリティの範囲を確定しているという原理構造です。NLPでは、この信念体験を書き換える作業を行なうというのですが、残念ながら(実際のところ)、深層レベルまでのプログラムの書き換えを実現できる威力はNLPにはありません。
ところが、(筆者の現場実践にもとづく直観ですが)ホドロフスキー氏の施術では、それを実現できる可能性があるのです。それは、ホドロフスキー氏が「潜在意識(無意識)の力動性」とそのパワーを、感覚的に(芸術的な造形感覚で)しっかりとつかんでいるからです。 その点が、彼のサイコマジックやサイコシャーマニズムの素晴らしい点であり、尽きせぬ霊感を与えてくれる点なのです。
ところで、ホドロフスキー氏のサイコ・マジックを原案にし、彼自身も出演した映画『Ritual(邦題ホドロフスキーのサイコマジック・ストーリー)』では、主人公が癒しのために受ける儀式(施術)に対して、恋人の男がしきりに「信じるな」と連呼します。彼の世界観では、魔女のような施術者が行なう儀式などは迷信以外の何ものでもないというところなのでしょう。そして、映画の最後は、主人公の儀式(施術)を妨害して台無しにした結果、その恋人が主人公に殺されてしまうという結末となっています(本当は、この施術の結果として主人公の苦痛と妄念は取り除かれるはずたったのです)。
つまり、恋人の男は「信じない」ことによって、自らの命を落としたともいえるでしょう。
では逆に、彼が信じていた世界とは果たしてどのような世界だったのでしょう。主人公や施術者が信じる世界より彩り豊かな世界だったのでしょうか…
さて、ホドロフスキー氏の作品や活動は、この他にも非常に多岐に渡っていますが、そのどれもが、現代社会を覆う私たちの制限的な信念(リミティング・ビリーフ)を超えた、生や現実の豊かさを教えてくれるものとなっているのです。
そのような意味において、ホドロフスキー氏の世界は、現代では数少ない本物のマジック・リアリズム(魔術的現実主義)となっているわけなのです。
※気づきや統合、変性意識状態(ASC)へのより総合的な方法論は拙著↓
入門ガイド
『気づきと変性意識の技法:流れる虹のマインドフルネス』
および、
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をご覧下さい。
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→禅と日本的霊性
→野生と自然
【PART3 Advanced】
気づきと変性意識の技法 上級編
→変性意識状態(ASC)の活用
→願望と創造性の技法
→その他のエッセイ
【PART4 当スペース関係】
→フリー・ゲシュタルトについて
→セッションで得られる効果
→なぜ、ゲシュタルトなのか
→メニュー/料金
→著作紹介
→メルマガ登録
→お問い合わせ
フロー体験に見られるように、
環境と、表出(表現)と、内容(生体)との、
ギリギリの極限的な相互フィードバックの中で、
生成して来るものなのです。
つまり、
物語の設定でいえば、
宇宙における戦争・戦闘という極限状態の中での、
拡張された表出身体(モビルスーツ)と、
内容(パイロットの知覚力・意識)との、
高度的な相互フィードバックの中で、
生成して来るものなのです。
モビルスーツがなければ、
ニュータイプも生まれなかった。
こう考える方が、
面白いと思います。
【PART1 Basic】ゲシュタルト療法
【PART2 Standard】
気づきと変性意識の技法 基礎編
【PART3 Advanced】
気づきと変性意識の技法 上級編
【PART4 当スペース関係】
→著作紹介
さて、
真冬の寒い日々の中でさえ、
たまに気温の高い日があると、
すぐに羽虫などが涌いて来るものです。
また、すぐ寒くなって、
どうせ死んでしまうのに、
なぜ、そんなに慌てて、
すぐ生まれて来ようとするのか。
少し痛々しく、
また虚しい気がします。
そして、
ふと思うのです。
これらの命は、
何かをするdoingためではなく、
ただ在るBeingこと自体のために、
生まれて来ているのではないか、と。
実は、
ただ在るBeingこと自体が、
大したことであるからなのかもしれない、
とも、思うのです。
そのため、
宇宙の生命たちは、
わずかなスキマを見つけては、
ただ「在る」ことだけのために、
殺到するかのように、
この世に生まれて来ようとするのだと…
さて、ところで、
人は、歳をとって来ると、
かつて、ともに道を探求した仲間たちに
すでに亡くなってしまった者たちが、
だんだんと増えて来ます。
日々の中では、
そのように早世した誰彼を、
ふとした機会に、
思い出したりもします。
慌ただしくも、
あっけなく去っていった友人たちを…
そして、
信じられない気がします。
自分は、今も、
この現実を、
こんな風に感じながら、
道を探している。
しかし、
彼、彼女らが、この現実を、
もう経験していないとは、
いったいどういうことなのだろうかと。
若い頃、あんなに熱っぽく、
探求とその未来について語り明かしたのに、
(昨日のように思い出されます)
その彼らが、
今はもう探求していないとは、
どういうことなのだろうかと。
自分が、探求の末に、
ようやく小さな突破口、
真の人生のスタートに到達したと思ったら、
その時には、彼らは、
既にこの人生を終わらせ、
完結させてしまっていたとは、
どういうことなのだろうかと。
彼らは、探求の結論を、
少しでも、
得ることができたのだろうかと…
そして、
不思議な気がします。
自分の経験しているこの時間と、
彼らの何も経験していない時間…
もう何も経験していないとは、
どういう状態なのであろうか。
そして、
つくづく思います。
この「糞のような現実(世界)」でさえ、
彼らはもう何も経験していないのだと…
そして、
そのことを思うと、
この「薄絹」のような、
在るBeingについて、
まざまざと、
気づかされるのです。
自分のこの現実が、
一瞬のちまで、
存続していく保証など、
何も無いのだと。
(彼らだって、
そんなにも早く、
自らの生が終わるとは、
信じられなかったでしょう)
そして、
思うのです。
この薄氷のような、
現実の上を、
(彼らの分までも)
凝視するように、
綱渡りをするように、
仔細漏らさずに、
生きるべきではないか、と。
今にも終わってしまうかもしれない、
この存在を、
そんな風に色濃く味わいながら、
瞬間瞬間を、
生の意味を、
結晶させていくべきなのだ、と。
「在りてあれ!」
どこからか、
そんな声を、
聞くような思いがするのです。
※気づきや統合、変性意識状態(ASC)への
※気づきや統合、変性意識状態(ASC)への
さて、今回は、
自己の限界を超えることと、
意識的な生の効能について、
書いてみましょう。
以前、
ゲシュタルト療法と、
アウトプットすることについて、
その関係を書きました。
ゲシュタルト療法の、
ワーク(セッション)の特徴である、
実験的な表現や、アウトプットが、
クライアントの方の、
それまでの人生の中での、
表現の境界を超え、
小さな越境となり、
自己の心理的プログラミングを、
書き換えていくことになる、
という事柄についてです。
さて、通常、
一般的な人生においては、
そのような限界を超えていく体験は、
自然発生的に生じます。
(そのため、必ずしも、
機会は多くないのです)
それらの多くは、
危機的な状況によるものです。
そのような場合に、
人は、事件に背中を押されるように、
行動をせざるえなくなり、
図らずも、
自分の表現の限界を超え、
心理的プログラミングも、
書き換えられることになるのです。
しかし、
それらは、大概、
望まれない事件的な出来事において、
生じる体験であり、
いたしかたなく、
受動的に発生する事柄です。
意欲的に、能動的に、
達成されるという類いの事柄では、
ありません。
そのような意味では、
たとえば、心理学の方法論などを使って、
自己の人格や能力、行動力を、
変化の対象にするというのは、
少し風変わりな、
「方法論的な生き方の取り組み」とも、
いえるものです。
そして、それは、
自らの人生を、
偶然任せではなく、
いくらか、
自らの探求的な統制のもとに
置いていこうという、
意欲の表れともいえます。
しかしながら、
結果的には、
このような人々は、
成長していきます。
日々を漫然と過ごすのではなく、
自己の成長に対する、
意識的な気づきとともに、
あるからです。
日々、たえず、
自己の存在と限界に気づき、
それを乗り越えようと努力する、
心の働きとともに、
あるからです。
そのような気づきと、
指向性自体が、
人生を濃くし、
人を成長させていくのです。
そのような人は、
長い時間軸で見た際に、
人生をぼんやりと過ごした人に較べて、
格段の差で、彼方の地点に、
到達してしまうものです。
同じ年齢の人間が、
同じだけの経験値を、
持っているわけではないのです。
その濃度は、
意識的な探求の内圧によって、
大きく変わるものです。
これは、
私たちの人生そのものの、
大いなる秘訣であるともいえるのです。
そのため、
意識的に生きるということは、
苦労多く、面倒臭いことではありますが、
また、実りについても、
大変豊かなものがあると考えてよいです。
※気づきや統合、変性意識状態(ASC)への
ここでは、
「未来からの未完了の体験」
ということについて、
見てみたいと思います。
しかし、これは変な言い方です。
過去の出来事によって、
未完了の欲求不満が生じ、
未完了の体験が生まれるのに、
未だ存在しない未来の体験から、
未完了の体験が生ずるとは変な話です。
当然、これは、ひとつの喩え話です。
ところで、よく、ゲシュタルト療法の中では、
未完了の体験がなくなったら、
どうなるのかという問いかけがあります。
教科書的な答えは、
過去の未完了の体験に妨害されることなく、
「今ここの、ありのままの現実を体験できる」
というものです。
これは、程度の問題はありますが、
実際、そのようなことが起こってきます。
セッションでの取り組みを通して、
私たちの中で、ざわめくさまざまな心的ノイズが、
消失していくに従い、
より直接的に、ダイレクトに、
「現実」を感じ取れるようになっていくのです。
しかし、一方、
人生経験の中では、常に、
新しい未知の事態に直面していくものなので、
そこで葛藤は生じ、
それほど酷いものではありませんが、
軽度な未完了の体験(ゲシュタルト)は、
多かれ少なかれ、
創られ続けていくのです。
それは、ゲシュタルト療法の、
標準仕様の姿なのです。
しかし、ここでは、
もっとその先にある、
心の、大きな全体性という視点から、
生じて来る、未完了のゲシュタルトについて、
考えてみたいと思います。
ところで、実際、長年、
ワーク(セッション)を繰り返して、
心を掘り進んでいくと、
少し毛色の変わった、
「未完了的なテーマ」らしきものが、
浮上してくるというは、
あることなのです。
そのテーマの性質や姿は、
単純な過去の出来事に起因するのとは、
違うタイプのものです。
過去の生活史を探ってみても、
その事実の中に、
その痕跡をつかまえることはできません。
単なる未完了の事柄とは、
違った印象を受けます。
さて、どうやら、
私たちの秘められた心とは、
より深部に潜めている、
全体性・完全性を、
実現しよう、成就しようという、
強い欲求を持っているようなのです。
そのため、
過去の人生にあった、
未完了の体験を完了(無く)していくと、
今度は、さらに違ったレベルの、
心の全体性を、
実現したがりはじめるのです。
未来の心の全体性が、
現在の人生の中に、
押し入り、侵入して来るかのようです。
それは、心の、
ダイナミックで、
創造的な側面ともいえます。
拙著の中では、
このことを、
人生の中に現れて来る、
「夢の力」として、
重要な事柄として取り扱っています。
そのため、
当スペースでは、
未完了の体験を完了させていくと、
今度は、心は、次の、
「より大きな未完了(完全性)を、
引き寄せるだろう」とします。
そのことは、
徒労感を感じさせるでしょうか?
しかし、
それは、創造的で、
エキサイティングな事柄なのです。
※気づきや統合、変性意識状態(ASC)への
【第一部 ゲシュタルト療法関連】
【第二部 気づきと変性意識】
【第四部 当スペース関係】
→著作紹介
拙著『砂絵Ⅰ』において、
私たちの存在を完成させていくのに、
必要となる、
「火」と「大地性」について、
触れました。
→内容紹介『砂絵Ⅰ: 現代的エクスタシィの技法 心理学的手法による意識変容』
「火」は、
神話における、
「神の火」を盗む行為などに見られるように、
人間的次元を超えたエネルギーを、
表象しています。
また、別のところでは、
鈴木大拙の「大地性」について、
触れました。
「大地」というものは、
私たちの存在を、
受肉し、根づかせ、
私たちを、
より実在化・実体化させるための、
半身のように、
重要な統合的要素です。
それなくては、
存在の成就が起こらない、
大切な要素です。
ここでは、
そのような、
「火」と「大地性」について、
別の象徴的な角度から見て、
私たちの存在を深化させる、
別種の方法論を、
考えてみたいと思います。
ところで、
フランスの哲学者、
G・バシュラールが、
批評に使う概念のひとつに、
「物質的想像力」
というものがあります。
彼は、
私たちの想像力には、
その基盤となるような、
存在的な基底があると、
仮定したのです。<
そして、
その傾向性を、
作家の想像的世界のタイプから、
ギリシャの四大元素に分類しました。
つまり、
火、風、水、大地です。
さて、
ところで、
そのようなバシュラールの著作群の中に、
「火」と「大地性」についても、
不思議な結びつきについて、
言及している作品があります。
『火の精神分析』(せりか書房)で
扱われている、
ノヴァーリス・コンプレックス、
というものです。
ノヴァーリス・コンプレックスとは、
バシュラールが、
ドイツ・ロマン派の詩人、
ノヴァーリスの作品の中に見出した、
火と大地性に関係する、
ある力動的なイメージです。
バシュラールは、
ノヴァーリスの作品の中に現れる、
鉱物的なイメージや、
それにまつわる、
〈熱〉の性質のあり様を追いつつ、
火と大地の交わりにおける、
摩擦や、熱、性愛(愛)、
原初の火の直観、
幸福の始原など、
そこに付随する重要なテーマを、
見出していくことになるのです。
そして、
つまりは、
「青い花」とは、
実は、
赤いのである、
と結論づけたのです。
バシュラールは、
ノヴァーリス本人の言葉を、
引きます。
「あなたは、
わたしの物語の中に、
光と影の戯れに対するわたしの反感と、
明澄で熱く
しかも
滲透的なエーテルに対する希求とを、
みてとることができましょう」と。
(『火の精神分析』前田耕作訳/せりか書房)
さて、
そのような、
ノヴァーリス・コンプレックスの中に、
見者であるノヴァーリスの、
大地を母体とした、
意識(透視力)拡張の技法、
それらを統合する、
再生(生成)のヴィジョンを、
見ていくことができるのです。
それは、
ノヴァーリス自身が、
許婚の死や、
それと関連した神秘的体験、
夜の彷徨の果てに
深化させていった幻視とも、
いえるものです。
そして、
バシュラールの指摘する、
ノヴァーリスの詩的性格、
つまり、
「そのポエジーとは、
『原初性』を追体験する努力である」(前掲書)
を読み込んでいくと、
私たちは、そこに、
ノヴァーリスの、
ある種のグノーシス的な性格をも、
読み取れるように、
思われるのです。
彼は、自分の思想を
「魔術的観念論」と、
呼んでいます。
例えば、
「明澄で熱くしかも
滲透的なエーテルに対する希求」などは、
どこかで、
ユングのグノーシス的なテクスト、
『死者への七つの語らい』における、
原初の神性プレローマと、
物質的・創造的なクレアツールとの、
交錯を思い出させたりもするのです。
そこにおいては、
透明に浸透する、姿なきプレローマは、
物質的なクレアツールの中でこそ、
受肉し、個となり、
物体化し、
存在を、成就することが、
できるものとなっています。
そして、
さらにはまた、
このような要素(象徴的属性)は、
心理学的な世界においては、
S・グロフ博士の唱える、
そのフェーズⅢの段階を、
思い出させる要素でもあるのです。
グロフ博士の、
分娩前後マトリックスとは、
ブリージング・セラピーの項で紹介したように、
私たちの心の奥に潜む、
出生の時の記憶です。
そして、
「分娩前後マトリックス(BPM)Ⅲ」とは、
胎児が産道を通って、
彼方に脱出(生誕)しようという状況であり、
「火山的エクスタシィ」が
体験されるともいう、
摩擦的な熱い状態でもあるのです。
そして、そこには、
ある種の覚醒感、
「明澄で熱くしかも
滲透的なエーテルに対する希求」
があるのです。
ところで、
グロフ博士は、
分娩前後マトリックスに関して、
その元型な内的体験の世界を、
芸術的に表現してる画家として、
H・R・ギーガーについて、
よく言及しています。
BPMⅢ的な側面だけを取り上げても、
ギーガーの絵画には、
ノヴァーリス・コンプレックスにみられる、
硬質性、胎内性、エロス、熱狂、火、恍惚が、
数多く描かれています。
しかし、それでいながら、
興味深いことに、
その絵画の奥には、
「明澄で熱くしかも
滲透的なエーテルに対する希求」
の幻視が、
感じ取られたりもするのです。
このようにして見ると、
一般的には、
一見「天使的な」ノヴァーリスと、
通俗的には、
一見「悪魔的な」ギーガーとが、
大地(胎内)の中における、
火の目覚め(意識)という点において、
ともに、
共通する要素を持つ幻視家であることも、
感じられて来るわけです。
そして、
このことは、
シャーマニズム的な見地からも、
また、
夢見(エクスタシィ)の技法からしても、
さまざまなヒントを、
投げかけてくれるものと
なっているわけなのです。
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※気づきや統合、変性意識状態(ASC)への
【PART1 Basic】ゲシュタルト療法
【PART2 Standard】
気づきと変性意識の技法 基礎編
【PART3 Advanced】
気づきと変性意識の技法 上級編
【PART4 当スペース関係】
→著作紹介
さて、
前回は、
ゲシュタルト療法における、
アウトプットの重視に、
ついて書きました。
また、それが、
日本文化の同調圧力的な、
抑圧的な世界の中では、
自立能力の育成と、大きな可能性を持つことについて、
触れました。
今回は、
もう少し具体的に、
セッション(ワーク)の中において、
どのように、
表現を育てるのかについて、
書いてみたいと思います。
古典的な、
ゲシュタルト療法では、
「やり残した仕事」を、
完了するために、
人生の中で、
未完了の体験となった場面を、
演劇的に再現して、
ロールプレイすることを、
書きました。
そして、
再現された場面の中に入っていき、
その時の情景の中に入っていき、
当時の感情になりきって、
「本当は、こう言いたかった」
のようなことを、
実際に言ってみるのです。
また、
行動をとってみるのです。
これは、
原理的には、
簡単に見えますが、
実際に体験してみると、
慣れないうちは、
なかなかに、
心理的抵抗が、
大きいのです。
芝居だとわかっていても、
想像上の空間だとわかっていても、
なかなかに、
心理的ブロックが
働きます。
動けなくなります。
(逆にいうと、実は、
こんな心理的な作用で、
私たちは、
普段の生活で、
動けなくなっているのです。
そのことを実感できます)
そして、
そのような、
再現場面の中で、
「あえて」
「何かを表現してみる」
「何かを言ってみる」
ということを、
やってみます。
「リスクを少しとって」
やってみるのです。
それは、決して、
無理に、ではありません。
自分の心が動き、
自分が、興味を持った場合に、
やってみるのです。
やってみることは、
ほんの小さな一歩です。
しかし、
この一歩は、
決定的な、
「突破の一歩」
となるのです。
無意識は、
事実と想像とを区別しないので、
「現実の体験」として、
私たちの心理プログラミングを、
書き換えて(上書きして)しまうのです。
今まで繰り返していた
「ゲーム」を、
少し踏み出したのです。
そして、
「新しいゲーム」
をはじめたのです。
これは、
決定的なことです。
そして、
それは、
「境界を超えていく」
ことになります。
私たちに、
新たな自由の可能性を、
照らし出してくれます。
そして、
このようなセッション(ワーク)を、
なんども繰り返し、
突破することに慣れ、
表現することに慣れてくることで、
アウトプットと、
個の自立の能力、
治癒と健康の要素も、
促進されていくことと、
なるのです。
それは、
私たちに、
人生の、
新しい次元の啓示として、
新しい可能性を、
教えてくれることになるのです。
※気づきや統合、変性意識状態(ASC)への
【第二部 気づきと変性意識】
【第四部 当スペース関係】
→著作紹介
ゲシュタルト療法を
実際に経験していくと、
おそらく、
それまでの人生で、
あまり経験してこなかったような類いの、
ある「行動」の重点・推奨に、
気づかれると思います。
それは、
「表現すること」
または、
「アウトプットすること」
です。
これは、
心理療法の技法としても、
特徴的ですし、
また
日本人の文化水準から見ても、
そのように言えるかと思います。
なので、
ある意味、
この点で、
ゲシュタルト療法は、
日本人にとって、
敷居が高くなる面があるのと同時に、
逆に、
爆発的な効果を持つという、
ことにもなります。
この点が、
ゲシュタルト療法が、
特に、
日本人に対して、
大きな可能性を持つ側面といえます。
普通、日本では
「個人として表現する」
とか、
「個としての表現」
というものを、
あまりしない(歓迎しない?)社会です。
まわりに合わせて、
自分の個としての表現を、
抑圧しがちです。
集団の中に、
個人が埋没する社会です。
それが、
推奨される社会です。
一方、
ゲシュタルト療法は、
真実の欲求や感情に根ざした、
個としての自立を、
とても重視します。
自分が外部から取り込み、
鵜呑みにして、
自分を抑圧している作用を、
否定します。
「ノーと言える能力」
を重視し、
育てます。
そういう面でも、
ゲシュタルト療法では、
個としての能力や、
尊厳を大切にします。
「ゲシュタルトの祈り」は、
そのような面の、
あらわれでもあります。
なので
ゲシュタルト療法では、
その場が、
安全・安心である、
という枠組みがあるからですが、
セッション(ワーク)の中で、
自分の、
「なまの感情」を出したり、
「なまの表現」をすることを、
大いに奨励します。
好き嫌いや、
肯定否定を、
明確にうち出すことを、
推奨します。
「実験として」
という枠組みで、「少しリスクをとって」
さまざまな自己表現することを、
試してもらいます。
そのアウトプットすることが、
個の自立能力を、
高めていくからです。
最初は、
おっかなびっくりで、
抵抗があった、
たどたどしい表現も、
手ごたえを感じて、
慣れてくると、
だんだんと、
自分の中心から、
感情表現できるように、
なっていきます。
表現やアウトプットすることに対する、
自信がついてきます。
より、
自発的に表現できるように、
なってきます。
個として、
その人らしい表現が、
行なえるように、
なっていきます。
それは、
前記したように、
安全な空間で、
実験として、
色々と、
ロールプレイが試せるからです。
そして、
身内に育った自信は、
実生活の中や、
人生の選択の中でも、
さまざまに、
役立っていきます。
「言うべきか、言わないべきか」の、
どちらかを選ぶ段で、
「あえて言う(表現する)」の方を、
選ぶこと、
(日本人は、たいがい、
言わない方を、選びますが)
それが、
人生の可能性を、
大きく開いていくということを、
経験として、
実体験として、
勘として、
つかんでいきます。
そのような、
アウトプットが、
自分の内奥の命を活かす道であるとともに、
他人の魂も覚醒させる道である、
ということに、
気づいていきます。
この点だけにおいても、
現代日本人に対して、
ゲシュタルト療法は、
真に必要なミッションを、
持っているとも言えるのです。
フリー・ゲシュタルト・ワークスが、
よって立つ、
大切な視点でもあります。
※気づきや統合、変性意識状態(ASC)への
【第二部 気づきと変性意識】
【第四部 当スペース関係】
→著作紹介
さて、ここでは、
「啐啄同時(啐啄同機)」について、
書いてみたいと思います。
啐啄同時は、禅語であり、
有名な『碧巌録』の中にある話です。
啐啄とは、
つつくことを意味しており、
啐啄同時とは、
雛鳥が卵から孵る場面の描写と、
なっています。
啐とは、
雛鳥が、内側から卵の殻をつつく合図、
啄とは、
親鳥が、(雛鳥が、卵の外に出てくるのを助けるために)
外から卵の殻をつついて割ることをです。
そして、
この啐啄は、
同時でなければならないということを、
意味しています。
啐がないのに、
親が、卵の殻を割ったら、
育っていない、中の雛は死んでしまいます。
また逆に、
啐があったのに、
親が、卵の殻を割らなかったとしたら、
外に出られない、中の雛は死んでしまいます。
そのため、
啐啄は、同時でなければならないというのです。
啄は、
早すぎても、遅すぎても、
いけないのです。
『碧巌録』の中では、鏡清禅師の弟子が、
禅師に、悟りを手助けしてほしいと訴える、
そんなエピソードとして語られます。
そしてまた、この喩え話は、
教育における、タイミングの妙としても、
よく引かれます。
心理療法の世界においては、
クライアントの機が熟した時に、
「ちょうどその時に」
ファシリテーターが介入しないと、
効果的な介入にはならないことの、
喩えに使われます。
遅くても、早くても、それはダメなのです。
クライアントを活かせないのです。
さて、以上見たような事柄は、
実は、自分(個人)の中における、
創造性を考える場合においても、
示唆を投げかけてくれるのです。
以前、「大地性と待つこと」として、
私たちの、自分自身の、
成長してくれない心に対して、
待つことの重要性について触れました。
私たちの心が「啐」として、
内側からノックして来るまで、
忍耐して、待たなければならないこともあるのです。
気が急いて、卵の殻を割ってしまったために、
中の、まだ十分の育っていない心の力が、
死んでしまうこともあるのです。
外に出るのに、
十分な保育・養成期間というものが、
あるのです。
また一方、逆のケースもあります。
「啐」として、
内側から、心の創造力がノックしているのに、
外に出してあげなくて、
中の心が、死んでしまう、
ということもあるのです。
以前、「アウトプットの必要性」についても書きましたが、
現代の社会は、インプットすることが通例で、
個人的体験の価値や、個の創造性の発現が、
ないがしろにされている社会です。
そのことのせいで、
個人が、無力化し、衰弱している社会です。
現代においては、この側面での問題が、
多いのでは、ないでしょうか。
しかし、啐が起こり、
内部の機が熟しているのに、
創造的なアウトプットをしていかないと、
殻の中の心は、死んでしまうものです。
このような場合、
自分で、自分に、場や機会を与えて、
高まる内部の心や創造性を、
殻の外に、解き放っていくことが、
必要です。
これは、現代における、
個人の無力化や閉塞感の中で、
当スペースが、
特に重視している側面でもあります。
啐啄同時の喩えは、
そのような心の創造性の機微を、
教えてくれてもいるのです。
「弟子に準備ができた時、
師が現れる」
という言葉があります。
この不思議な共時性は、
実際に、働いている実感があります。
ただ、対人関係を、
心理学的な投影関係の中で考えると、
このことは、
案外、普通の事柄とも言えます。
人は、
自己の心理的な成長とともに、
自分の中に芽生えて来た、
創造的な因子を
(鏡に映すように)
外部の他者に投影するようになり、
他人の優れた美質を、
見出しやすくなるとも、
言えるからです。
つまり、
内実の成長とともに、
他者の中に、
「師」(未来の可能性の自分)、
を見出しやすくなる、
というわけです。
………………………
さて、私たちの中には、
「複数の自我」がありますので、
それぞれの自我に、
対照するような形で、
外部の他者に、
萌芽しつつある、
その自我要素を見出していきます。
私たち自身が、
自己の中に、未だ端的に感じ取れない、
心(自我)の要素を、
他者の上に、見出していくのです。
そして、
それらの他者との交流を通して、
その要素(自我)が、
だんだんとくっきりと育っていき、
自己の重要な属性に、
なっていくのです。
そして、
成長の果てに、
かつては、自分が目標とした人の、
或る美質が、
自分の中にも育って来たことを見出して、
深い感慨を得ることになります。
ヘルマン・ヘッセの小説、
『デミアン』は、
タイトルどおり、
魔霊(demon)のような、
不思議な友人(師)をめぐる、
ある青春の物語です。
批評家のブランショも指摘するように、
この物語自体が、
話り手の白昼夢であるような、
不思議な肌触りを持った小説です。
描かれる出来事も、
通常の日常的現実を超えるような、
どこか夢幻的な光輝を帯びています。
さて、その物語は、
戦地で砲弾を浴びた、
(死に近くいる)
主人公が、自分の心の中に、
かつての卓越した友人(師)のような、
自己の存在の姿を、
見出すところで終わっています。
これは、
上記で見たような事柄を考えると、
納得的な結末だといえるでしょう。
そして、
そのようなことは、
実際にあることなのです。
※気づきや統合、変性意識状態(ASC)への
【PART1 Basic】ゲシュタルト療法
【PART2 Standard】
気づきと変性意識の技法 基礎編
【PART3 Advanced】
気づきと変性意識の技法 上級編
【PART4 当スペース関係】
→著作紹介
※気づきや統合、変性意識状態(ASC)への
【PART1 Basic】ゲシュタルト療法
→ゲシュタルト療法【基礎編】
→ゲシュタルト療法【実践・技法編】
→ゲシュタルト療法【応用編】
→「セッション(ワーク)の実際」
【PART2 Standard】
気づきと変性意識の技法 基礎編
→変性意識状態(ASC)とは
→「英雄の旅」とは
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【PART3 Advanced】
気づきと変性意識の技法 上級編
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【PART4 当スペース関係】
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さて、
拙著『砂絵Ⅰ:現代的エクスタシィの技法 心理学的手法による意識変容』の中では、
その人の持つ「存在」の力が、
独特の力を発揮する事柄について、
少し触れました。
ここでは、
そのような存在力と創造性とに
関わる事例として、
マイルス・デイヴィスを、
取り上げてみたいと思います。
マイルスは、著名なジャズ・ミュージシャン、
トランペット奏者ですが、
マイルスを聴く人が、不思議に思うことがあります。
マイルスとともに活動にした、
数多い共演者たちは、
なぜ、彼らの生涯最高の演奏を、
しばしば、マイルスとの共演で持つのだろうか?
彼らは、マイルスから、
どのような影響を受けるのだろうか?と。
ここに、創造性に関わる、
存在の深い力についての秘密が、
あるように思われます。
このことに、光を当てる、
興味深いドキュメントがあります。
1970年のワイト島の、
ミュージック・フェスティバルの映像、
『エレクトリック・マイルス』に付けられた、
生涯の共演者たちによる、
マイルスについての無数の証言です。
そこには、創造性にまつわる、
さまざまなヒントが、
当事者たちから、
生々しく語り出されています。
「あれほどパワフルな人と同じ空間にいると、
自分のパワーも自然に出てくる」
デイヴ・ホランド
「歴史を振り返っても大勢が言うと思う。
マイルスとの演奏は、
誰も、他で再現できなかった。
その時しかできなかったんだ。
変わったわけじゃない。
マイルスと一緒に演奏した時は、
彼に力を引き出されたんだ」
デイヴ・リーブマン
「マイルスは素晴らしい。
ずっと自分を与え続けたんだ」
ジャック・ディジョネット
「マイルスは僕らに何かをくれたんだ。
言葉では表せないものを。
マイルスと組んだ人と会って、
マイルスの話題が出ると、
思わず皆、頷くんだ。
共通する体験があるから分かるんだ。
マイルスとの仕事で得たものは、
上手く言葉にできないけれど
なんというか、
一度経験すると、忘れられない」
ハービー・ハンコック
Adolf Wolfli (1864-1930)
アウトサイダー・アートには、
さまざまな魅力があります。
その魅力を語る、決定的なロジックがないにも関わらず、
多くの人が、そこに強い魅力を感じているようでもあるので、
アウトサイダー・アートには、
私たちの精神に、独自に働きかける、
要素があるのだと思われます。
筆者にとって、
アウトサイダー・アートの魅力とは、
まず第一に、植物や昆虫のような、
原初の自然を予感させる、
その無尽蔵さにあります。
とりわけ、その夢魔のような、
尽きることない「反復性」です。
同じ作品内における形態の反復もそうですし、
同じ(ような)作品を、
何千枚何万枚も作り続ける
無尽蔵の反復エネルギーです。
一種、非人間的なエネルギー、
抑制のない徹底的なエネルギーを、
感じる点です。
実は、それこそ、
私たちを駆り立て、突き抜ける、
「夢見の力」の特性と考えられるからです。
そのため、アウトサイダー・アートの
反復性・回帰性に触れていると、
私たちは、一種、変性意識状態な別種の意識を、
まざまざと感じさせられる気になります。
夢魔のような変性意識(ASC)に、
巻き込まれていくのです。
かつて、ハイデガーは、
ニーチェの永劫回帰の思想を、
「等しきものの永遠なる回帰」と、
呼びました。
ニーチェの永劫回帰の思想とは、
この今ここの出来事が、この瞬間が、
まったく変わらぬ姿で、
永遠に回帰するという、
夢魔のような、容赦ない存在肯定の思想です。
(そのため、ニーチェは、
ツァラトゥストラに、
「救済」とは、過去の「そうあった」を、
「私がそう欲した」に変えることだと語らせたのです。
私たちが、永劫回帰を生き抜くには、
変わらない、今ここを追い抜くくらいの、
肯定の強度が必要となるわけです)
アウトサイダー・アートの或る部分には、
「等しきものの永遠なる回帰」と似た、
生の厳粛な肯定性、無尽蔵さがあるのです。
さて、魅力の第二の点として、
「徹底的な直接性」という要素があります。
これは、植物的・昆虫的な無尽蔵さ、
その絶対的な肯定性とも重なりますが、
文化に飼いならされていない、
剥き出しの直接性と無尽蔵さを、
感じさせられる点です。
生(なま)の沸騰の感覚です。
創造性の根底にある、
容赦ない〈自然〉の直接性を、
感じさせられる点です。
そして、上記の二つを通して、
私たちは、不思議な〈郷愁〉に導かれます。
それは、幼児の、
物心つくかつかない頃に感じていた世界のようです。
現在でも、私たちは、
このような、生の基底部の感覚を、
生の原型の姿として、
どこかに持っているような気がするのです。
アウトサイダー・アートの世界は、
そのようなことを、
私たちに感じさせてくれるのです。
※気づきや統合、変性意識状態(ASC)への
※気づきや統合、変性意識状態(ASC)への
別に、拙著の中では、
道化の持つ創造性について
触れました。
私たちの心の中にある、
トリックスターのような、
ユーモラスで、壊乱的な、
創造力の要素(作用)についてです。
私たちの心の中には、
退屈な物事や生活を
くつがえし、かきみだし、
笑いを浴びせかけ、
物事を、リフレッシュに刷新する、
心な元型的な作用、
創造的な要素があります。
これは、停滞しがちな、
私たちの人生を、
豊かにする重要な霊感、
視点でもあります。
ところで、
関西では、
よく「おもろいこと」を
重視します。
時々の人生の選択肢で、
どちらにしようか迷った時に、
多少、リスクがあっても、
心が生き生きとする、
「おもろいこと」の方を、
選択していこうとする
心性でもあります。
それは、危険を取っても、
人生を、面白がり、
冒険していこうという、
心の奥の、内発的創造性の働きです。
逆の言い方をすると、
安全で、手堅い、
昨日と同じ、
変わり映えのしない、
見慣れた人生の風景の中で、
退屈に生きていくことを、
「おもろないやん」
と、拒否する心性です。
心の反撥力でもあります。
私たちにとって
生を沈静化し、
退屈にする最大の敵とは、
慣性・惰性です。
毎日の生活習慣です。
G・I・グルジェフは、
そんな人間の変わらない、
習慣的なシステムについて、
警鐘を鳴らし続けました。
「もし、君たちが、明日を違ったものにしたければ、
まず今日を違ったものにしなければならない。
もし、今日が単に昨日の結果であるなら、
明日もまったく同様に、今日の結果となるだろう」
―G・I・グルジェフ (ウスペンスキー『奇蹟を求めて』(浅井雅志訳、平川出版社)
昨日と同じことをやっていても、
人生は、まったく変わらないのです。
今日、「何か」違う、新しいことを、
行なわなければ、
「昨日のような明日」が、
続くだけなのです。
一生、
「昨日のような今日」を、
「今日のような明日」を、
生きるだけとなってしまいます。
惰性で繰り返される毎日を、
職場の仕事を、生活の細部の行ないを、
「おもろないやん」
と拒否することが必要なわけです。
少しだけ違った、
新しい「おもろいこと」を、
試してみること。
創造的への道を、
微細ながらも切り開いてみること。
そのことが、
私たちの人生を
少しずつ、確実に、
変えていくことになるのです。
※気づきや統合、変性意識状態(ASC)への
・自分の好きなことを見つける
・自分を受容し、尊重し、楽しむ
・他者とより創造的に協力しあう。
・寛容な精神を生み出す。
・自分のペース、リズム、タイミングを発見する。
・自分をもっと効果的に表現する。
・深い層の高次の自己に自分を明け渡す。
・遊ぶ能力を快復する。
・古いパターンを破る。
・心の制約から自由になる。
・他人とものを尊重する。
・現在の瞬間のすみずみに注意を向ける。
・あらゆる状況下で、自発的で建設的な行動をする能力を高める。
・ストレスをなくす。
・自己の内なる能力に自信を持つ。
・新しいコミュニケーションの形を実験する。
・共感をもちながら自分と他者を笑う。
・心を開放する。
リッキー・リビングストン
(吉福伸逸訳)
※気づきや統合、変性意識状態(ASC)への
危険をとって生きている者は、
どんなことを、
その感覚のうちに、
知っているのでしょう。
通常、私たちは、「合意的現実」の中で、
その因果律の中で、
予測可能な現実を、
選んで生きています。
その場合、
私たちの見る未来は、
想定可能な未来でしかないでしょう。
しかし、
ギャンブラーのような、
リスク・テイカーは、
想定可能、予測可能ものの向こうに、
身を投げ出して、
冒険していくことを好みます。
おそらく、
その感覚と経験のなかで、
私たちが想定するもの以上の
ものを見ているのでしょう。
それは、
賭けと危険の感覚の中で鍛えられた、
野生の感覚、透視力と言えるでしょう。
※気づきや統合、変性意識状態(ASC)への
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