さて、今回は、
自己の限界を超えることと、
意識的な生の効能について、
書いてみましょう。
以前、
ゲシュタルト療法と、
アウトプットすることについて、
その関係を書きました。
ゲシュタルト療法の、
ワーク(セッション)の特徴である、
実験的な表現や、アウトプットが、
クライアントの方の、
それまでの人生の中での、
表現の境界を超え、
小さな越境となり、
自己の心理的プログラミングを、
書き換えていくことになる、
という事柄についてです。
さて、通常、
一般的な人生においては、
そのような限界を超えていく体験は、
自然発生的に生じます。
(そのため、必ずしも、
機会は多くないのです)
それらの多くは、
危機的な状況によるものです。
そのような場合に、
人は、事件に背中を押されるように、
行動をせざるえなくなり、
図らずも、
自分の表現の限界を超え、
心理的プログラミングも、
書き換えられることになるのです。
しかし、
それらは、大概、
望まれない事件的な出来事において、
生じる体験であり、
いたしかたなく、
受動的に発生する事柄です。
意欲的に、能動的に、
達成されるという類いの事柄では、
ありません。
そのような意味では、
たとえば、心理学の方法論などを使って、
自己の人格や能力、行動力を、
変化の対象にするというのは、
少し風変わりな、
「方法論的な生き方の取り組み」とも、
いえるものです。
そして、それは、
自らの人生を、
偶然任せではなく、
いくらか、
自らの探求的な統制のもとに
置いていこうという、
意欲の表れともいえます。
しかしながら、
結果的には、
このような人々は、
成長していきます。
日々を漫然と過ごすのではなく、
自己の成長に対する、
意識的な気づきとともに、
あるからです。
日々、たえず、
自己の存在と限界に気づき、
それを乗り越えようと努力する、
心の働きとともに、
あるからです。
そのような気づきと、
指向性自体が、
人生を濃くし、
人を成長させていくのです。
そのような人は、
長い時間軸で見た際に、
人生をぼんやりと過ごした人に較べて、
格段の差で、彼方の地点に、
到達してしまうものです。
同じ年齢の人間が、
同じだけの経験値を、
持っているわけではないのです。
その濃度は、
意識的な探求の内圧によって、
大きく変わるものです。
これは、
私たちの人生そのものの、
大いなる秘訣であるともいえるのです。
そのため、
意識的に生きるということは、
苦労多く、面倒臭いことではありますが、
また、実りについても、
大変豊かなものがあると考えてよいです。
※気づきや統合、変性意識状態(ASC)への