さて、ここでは、
「啐啄同時(啐啄同機)」について、
書いてみたいと思います。
啐啄同時は、禅語であり、
有名な『碧巌録』の中にある話です。
啐啄とは、
つつくことを意味しており、
啐啄同時とは、
雛鳥が卵から孵る場面の描写と、
なっています。
啐とは、
雛鳥が、内側から卵の殻をつつく合図、
啄とは、
親鳥が、(雛鳥が、卵の外に出てくるのを助けるために)
外から卵の殻をつついて割ることをです。
そして、
この啐啄は、
同時でなければならないということを、
意味しています。
啐がないのに、
親が、卵の殻を割ったら、
育っていない、中の雛は死んでしまいます。
また逆に、
啐があったのに、
親が、卵の殻を割らなかったとしたら、
外に出られない、中の雛は死んでしまいます。
そのため、
啐啄は、同時でなければならないというのです。
啄は、
早すぎても、遅すぎても、
いけないのです。
『碧巌録』の中では、鏡清禅師の弟子が、
禅師に、悟りを手助けしてほしいと訴える、
そんなエピソードとして語られます。
そしてまた、この喩え話は、
教育における、タイミングの妙としても、
よく引かれます。
心理療法の世界においては、
クライアントの機が熟した時に、
「ちょうどその時に」
ファシリテーターが介入しないと、
効果的な介入にはならないことの、
喩えに使われます。
遅くても、早くても、それはダメなのです。
クライアントを活かせないのです。
さて、以上見たような事柄は、
実は、自分(個人)の中における、
創造性を考える場合においても、
示唆を投げかけてくれるのです。
以前、「大地性と待つこと」として、
私たちの、自分自身の、
成長してくれない心に対して、
待つことの重要性について触れました。
私たちの心が「啐」として、
内側からノックして来るまで、
忍耐して、待たなければならないこともあるのです。
気が急いて、卵の殻を割ってしまったために、
中の、まだ十分の育っていない心の力が、
死んでしまうこともあるのです。
外に出るのに、
十分な保育・養成期間というものが、
あるのです。
また一方、逆のケースもあります。
「啐」として、
内側から、心の創造力がノックしているのに、
外に出してあげなくて、
中の心が、死んでしまう、
ということもあるのです。
以前、「アウトプットの必要性」についても書きましたが、
現代の社会は、インプットすることが通例で、
個人的体験の価値や、個の創造性の発現が、
ないがしろにされている社会です。
そのことのせいで、
個人が、無力化し、衰弱している社会です。
現代においては、この側面での問題が、
多いのでは、ないでしょうか。
しかし、啐が起こり、
内部の機が熟しているのに、
創造的なアウトプットをしていかないと、
殻の中の心は、死んでしまうものです。
このような場合、
自分で、自分に、場や機会を与えて、
高まる内部の心や創造性を、
殻の外に、解き放っていくことが、
必要です。
これは、現代における、
個人の無力化や閉塞感の中で、
当スペースが、
特に重視している側面でもあります。
啐啄同時の喩えは、
そのような心の創造性の機微を、
教えてくれてもいるのです。