「流れる虹のマインドフルネス」とは、ある拡張された意識状態‐存在状態のことです。
それは、意識変容や心身変容への真摯な取り組みの果てに、自然に獲得されてくるものです。
このような拡張された意識‐存在状態は、人類の歴史の中、古今東西の精神的・宗教的伝統の中では繰り返し語られてきました。決して不思議なものでもないです。
現代では、トランスパーソナル心理学などが、そのような意識状態について理論的に語るものとなっています。しかし、それを獲得するための実践的な方法論や取り組みが弱い点が課題といえます。
普段の気づき awareness の中に、虹のように透明で鮮やかな
微光が浸透しているため、当スペースでは、その状態を「流れる虹のマインドフルネス」と呼んでいるのです。

その状態でいる時、私たちは、あたかも流れるようなまばゆいエネルギーの次元とともにいるかのようです。とても微細なエネルギーのまばゆさに透過されているようです。
その微細なエネルギーは、あたかも、意識や肉体、見ている風景の背後にひろがる広大無辺な〈光〉の次元‐空間から射すよう浸透してくるかのようです。
世界の内側から微細な〈光〉がまばゆく透過してくるので、意識や肉体、あたりの風景は、不思議にも、固形物ではなくあたかも「光の粒の集まり」のように、「光の泡立ち」のように感じられたりもします。
そこでは、あらゆるものが、「固体」ではなく「流体」として、「実体」ではなく「空」として感じられるかのようです。
物理的な法則なども稀薄に感じられます。
物理的な因果や作用反作用などは当然あるのですが、それは大して重要なことではなく、この宇宙というゲームの任意の設定程度にしか感じられないのです。
それよりも、まぢかに、流れるようまばゆく渦巻く、非因果的な、膨大な可能性と自由な飛躍の力を強く感じているのです。
明晰さは一段深い透視的な明晰さとなり、事物の隠れた結びつきや微細な関連を滑らかに見通すようにもなっているのです。

自然界と現象の彩りあざやかな無限の戯れ、その美しさ、その核にある存在の〈本質〉に注意が向いているのです。

また、そこでは、「自分自身」を生きることも、あまりこだわりのない事柄になっているのです。
自分自身よりも本質的な、大きな〈光〉が内側から透過して、自分を押し流し、価値づけ、肯定し、生きてしまっているからです。「何事か」が成就されてしまっているかのようです。
あれほど長い期間、苦心惨憺、七転八倒し、物事をコントロールしながら、人生を切り拓いてきたこの主体、「自分自身」が今では大して重要なものには感じられないのです。
それは芝居の「役」のように、人生を冒険し、創造するための場所(役)として、気楽に、遊戯的に、楽しみに感じられているのです。
それは、生きていくのにとても快適な、好奇心にみちた状態でもあります。
そして、ふと気づくと、この人生の劇そのものが、光に満ちた広大無辺な次元‐空間の浸透によって救われてしまっているかのようでもあるのです…

また、その状態は、物事や事業に取り組んで、創造的なものをつくり出すことについても豊かな状態となっているのです。
広大で超意識的な空間が背後にあり、隣にある魔法の部屋から物を取り出すかのように、深い想像と夢見の中から、忽然とモノを引き出せるようにもなっているからです。
あたかもそこには、無尽蔵に豊かな創造の遊戯が、まばゆく沸騰しているかのようなのです…

さて、以上は、「流れる虹のマインドフルネス」状態のひとつであり、ある種、マズローのいう至高体験 peak-experience に近い様相のものですが(他にもさまざまな態がありますが)、これらの意識‐存在状態が、私たちをどのような自由と歓びの境地に招いているかは、容易に想像がつくかと思われます。
そして、肝心なポイントは、このような意識状態‐創造的状態は、決して偶然に、偶発的に起こるものではなく、「心身変容への体系的な取り組み」の果てに獲得されていくものであるということなのです。また、それらが恒常的な状態、意識構造になっていくということなのです。