フリー・ゲシュタルトな気づき

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マインドフルネスの光明その2 無為のゲシュタルト

さて、前回、
ゲシュタルト療法に、
長く取り組む中で、
ワーク(セッション)の中で、
「しないこと」が、
重要になる側面について、
取り上げました。

「しないこと」の中で、
気づきの力を働かすことが、
ゲシュタルト療法でいう、
気づきの連続体awareness continuumを、
より深め、
自発的な心の動きを、
湧出させることについて、
触れました。

「しないことのゲシュタルト」
という姿勢が、
気づきと自由の、確保のために、
必要となって来るというわけなのです。
しないことのゲシュタルトへ マインドフルネスの光明

そして、
この「しないこと」ができるようになると、
逆に、
真に、「すること」も、
できるようになって来るのです。

そして、ここが、
重要な点でも、
あるわけなのです。

それは例えば、
次のような事柄を、
思い起こさせます。

精神分析家の、
D・ウィニコットWinnicottの概念に、
「独りでいられる能力the capacity to be alone」
というものがあります。

子どもの心理発達の中で、
母子一体の融合状態から、
子どもが、
徐々に分離成長して、
人が、自分自身になっていく過程の中で、
育って来る能力です。

親がそばに、
いても、いなくても、
平然と、自立して、
内的な意味で、
独りでいられる能力です。

それは、
最終的な成長の姿としては、
大勢の人の中にいても(いなくても)、
他者(他の人々)に妨げられないで、
泰然と、独りで完結した、
「自分自身でいられる」という、
自立的・独立的な能力に、
つながっていきます。

しかし、
「独りでいられる能力」が低い人、
つまり、
「独りでいられない人」とは、
大勢の人の中にいると、
他者の存在が気になって、
(他者の存在に毀損されて)
自分独りという、
完結した存在(自分自身)に、
なかなか、
なりきれないものなのです。

「独りでいられる能力」とは、
「自分自身でいられる能力」
ともいえるものなのです。

つまり、逆にいうと、
「独りでいられない人」とは、
「自分自身でいられない人」
とも言い換えられるのです。

そして、
「独りでいられない人」
においては、
本当の意味で、
「他者と出遭う」ことや、
「他者と共にいる」
という力もまた、
弱くなってしまうのです。
自分自身の存在が、
曖昧で、
自立していないからです。

つまり、
真に「独りでいられる人」のみが、
真に「共にいるwithness」ことができる人、
とも、いえるのです。

これは、
真に「しないこと」ができるようになると、
真に「すること」ができるようになることとも、
一脈通じる事態であるのです。

そして、
「何もしない」
という完全な無為が、
完璧に統合・集中された、
稲妻のような行為を生み出す、
基盤となっていくのです。

そして、
この「しないこと」を育てるためにも、
マインドフルネス瞑想は、
とても有効な方法論と、
なっていくものなのです。


◆マインドフルネス瞑想

それでは、
マインドフルネスを巷に広めた、
ジョン・カバットジン博士の言葉を、
いくつか見ていきましょう。

「私はこの“注意を集中する”ということを、
“マインドフルネス”と呼んでいます。
今では、瞑想の意味は
かなり知られてきています。
注意を集中することは、
いつもとまではいえなくても、
誰もがふだんから行っていることです。
つまり、瞑想は、
かつて考えられていたような
得体の知れないものではなく、
生活の中で
私たちがふだん体験しているものなのです。」
(『マインドフルネスストレス低減法』春木豊訳、北大路書房)

ところで、
博士は、別のところで、
マインドフルネスとは、
気づきawarenessだといっています。

このことは、
少し分かりにくいところなので、
解説しましょう。

まず、
注意力と、気づきawarenessでは、
心の中における階層が、
少し違います。
(当然、それらは地続きで重なっていますが)

そして、
注意を「集中する」状態とは、
注意力を「意図的」に働かせている状態であり、
注意力そのものより、
上位の働き(意図・能力)が、
「少し」加わっている状態なのです。

注意力を、「意図的に」操作できるのは、
注意力よりも上位の力です。

この上位の力の中に、
気づきawarenessは、
含まれているのです。

そのため、
以下のような気づきawarenessも、
可能となって来るのです。

「さて、瞑想をする時のように
自分の心の動きに注意をしていくと、
自分の心が、
現在よりも過去や未来に
思いを馳せている時間のほうが
ずっと長いことに
気がつかれると思います。
つまり、実際、
“ 今”起きていることについては、
ほんのすこししか自覚していない、
ということなのです。
そして、私たちは、
“ 今”というこの瞬間を十分に意識していないために、
多くの瞬間を
失ってしまっているのです。
この無自覚さが
あなたの心を支配し、
やることすべてに
影響を与えるのです。
私たちは、
自分のしていることや
経験していることを
十分に自覚しないまま、
多くの時を
“ 自動操縦状態”で
習慣的にすごしているのです。
いわば半眠半醒の状態に
あるようなものなのです。」
(前掲書)

ここでは、
「注意を集中する」プロセスの中で、
気づかれて来る、さまざまな状態、
「無自覚」「自動操縦状態」「半眠半醒の状態」などが、
洞察されています。

ところで、
ゲシュタルト療法においても、
今、実在する目の前の風景から離れて、
実在しない過去や未来に対して、
無益な空回りをすることが、
神経症的態度だと、
かつてより指摘していたものでした。

実在していない未来に対する、
行き場のない危惧の興奮を指して、
「不安とは、抑圧された興奮である」
と言ったのは、
フリッツ・パールズです。

まずは、その興奮に、
コンタクト(接触)して、
内容を知れという、
意味合いでです。

また、さきの文中で言われる、
「自動操縦状態」「半眠半醒」などの言葉が、
以前に見た、
G・I・グルジェフの言葉と
響きあうものであることも、
まことに納得的な事柄でもあるのです。
自己想起 self-remembering の効能

そして、
醒めた状態awakenessとは、
気づきawarenessの、
持続された状態であるわけなのです。

カバットジン博士は、
私たちの心が、
普段、ストレスに満たされた時の、
無自覚な心の状態を、
次のように描写します。

「心の中を、許容範囲以上の
不満足感や無意識が
支配するようになると、
おだやかさやリラックスした感じは、
味わえなくなります。
その代わりに、
分裂した感じや追い込まれる感じに
さいなまれるようになります。
「ああだ、こうだ」と考え、
「ああしたい、こうしたい」と
思うようになります。
ところが、えてして
こうした想念は互いに矛盾しあい、
その結果、何かを行う能力を、
大きく狂わせてしまいます。
こんなとき、
私たちは自分が何を考えているのか、
何を感じているのか、
何をしているのかが
わからなくなっているのです。
さらに悪いことに、
私たちは、
自分がわかっていない、
ということにも
気づくことができなくなっているのです。」
(前掲書)

このような時にこそ、
自己の心に対して、
気づきawarenessを持つことが、
必要となります。

そのため、
ゲシュタルト療法では、
ワーク(セッション)の空間において、
分裂した感情や自我のそれぞれに、
丁寧に気づきawarenessを当て、
それらを解きほぐし、
統合していくということを、
行なっていきます。

そして、そのためにも、
まず第一に、
自己に注意を集中することや、
気づきawarenessを働かせることが、
必要となって来るものなのです。

博士は、述べています。

「注意を集中することによって、
文字どおりあなたは目ざめていきます。
意識せずに、
機械的にものごとを見たり、
行ったりするいつものやりかたから
脱出することができるのです。
このように、
自分が何かをしている最中に、
自分がしていることを
意識できるようにするのが、
『マインドフルネス瞑想法』の本質です。
『マインドフルネス瞑想法』には、
特に変わったところも
神秘的なところもないということが
おわかりいただけたと思います。
瞑想とは、瞬間、瞬間の体験に
注意を向けるためだけに
行うものなのです。
そして瞑想によって、
自分の人生を見つめ、
瞬間の中で生きるという
新しい生き方ができるように
なっていくのです。
“ 現在”という瞬間には、
その存在を認めて尊重しさえすれば、
魔法のような特殊な力が
秘められています。
それは、
誰もがもっている
かけがえのない瞬間なのです。
私たちが知らなければならないのは、
“ 現在”という瞬間だけです。
“ 現在”という瞬間だけを
知覚し、学び、行動し、変え、
癒さなければなりません。
だからこそ、
“ 瞬間瞬間を意識する”
ということが
とても大切になってくるのです。
瞬間をより意識できるようにする方法は、
瞑想トレーニングを通じて
学んでいくことになりますが、
そこでは、
努力するということ自体が
目的なのです。
努力することによって、
あなたの体験は
より生き生きしたものになり、
人生は
より本当のものになっていくのです。」
(前掲書)<

……………………
さて、以上、
カバットジン博士の言葉を、
見てみましたが、
このように、
マインドフルネス瞑想の姿勢は、
ゲシュタルト療法の方法論と、
大変、共通したものであると、
いえるものなのです。

そして、
ある面では、
ゲシュタルト療法が、
ややもすれば、
おろそかにしてしまう、
本来的な意味での、
気づきawarenessの力を、
唯一の技法としているという点においても、
マインドフルネス瞑想は、
ゲシュタルト療法を補完するという意味で、
とても有効なアプローチと、
いえるものなのです。


※気づきや統合、変性意識状態(ASC)への
より総合的な方法論については、拙著↓
『砂絵Ⅰ 現代的エクスタシィの技法』
をご覧下さい。


buddha-on-black-300x203

【PART1 Basic】ゲシュタルト療法
ゲシュタルト療法【基礎編】
ゲシュタルト療法【実践・技法編】
ゲシュタルト療法【応用編】
「セッション(ワーク)の実際」

【PART2 Standard】
気づきと変性意識の技法 基礎編
変性意識状態(ASC)とは
「英雄の旅」とは
体験的心理療法
NLP 普及・効果・課題
禅と日本的霊性
野生と自然

【PART3 Advanced】
気づきと変性意識の技法 上級編
変性意識状態(ASC)の活用
願望と創造性の技法
その他のエッセイ

【PART4 当スペース関係】
フリー・ゲシュタルトについて
セッションで得られる効果
なぜ、ゲシュタルトなのか
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しないことのゲシュタルトへ マインドフルネスの光明

さて、
拙著『砂絵Ⅰ』では、
心理的な変容過程(行きて帰りし旅)において、
その最終的な局面の中で、
気づきawarenessの力が、
とりわけ重要なことについて、
特に強調しました。
拙著『砂絵Ⅰ: 現代的エクスタシィの技法』

この指摘は、
ゲシュタルト療法や体験的心理療法が、
多く陥りがちな落とし穴と、
私たちの心理的変容と拡充を、
さらに進化させるための必須事項として、
記したものです。

気づきawarenessの能力は、
ゲシュタルト療法の、
入口であると同時に、
出口でもあるのです。

しかし、往々にして、
ゲシュタルト療法をやっている人の中でも、
このawarenessの核心部分が見失われて、
マンネリや、悪循環に、
はまっていくという事態に、
なっているのです。

そして、また、
ゲシュタルト療法の中でも
この悪循環の仕組みが
公式化されていないのです。

これ自体が、まさに、
気づきawarenessの欠如、
という事態でもあるわけなのです。

今回は、
巷でも認知度も上がって来た、
「マインドフルネス」
という概念(補助線)を使って、
この問題点の中身を、
見ていきたいと思います。

ゲシュタルト療法を、
長くやっているにも関わらず、
なんか自分は、行き詰っているなぁと、
感じられているような方にとっては、
参考にしていただける内容に、
なっていると思われます。


◆気づきawarenessの力

気づきawarenessという能力の中には、
さまざまな状態や帯域があります。

しかし、
通常、ゲシュタルト療法の中では、
「気づき」という日常用語を、
漠然と使っているため、
どのような状態や要素を指しているのか、
焦点化されにくくもなっているのです。

人は、自分は、
なんでも「簡単に気づける」と、
思ってしまっているわけです。

しかし、
ゲシュタルト療法の中では、
気づきawarenessは、
ある種のスキルであり、
訓練によってこそ、
研ぎ澄まされていくものなのです。

いわば、普通の人の生活は、
気づきawarenessのない生活とも、
いえるものなのです。

ところで、
ゲシュタルト療法の中では、
気づきの連続体awareness continuum
として知られている、
気づきの姿勢があります。
気づきの3つの領域 エクササイズ

刻々と瞬間瞬間、
三つの領域に、
気づき続けているような状態です。

紹介したように、
エクササイズもありますが、
これは、あくまで、
イメージをつかむためのものにすぎません。

実際には、
毎日の生活の中で、
いつでもどこでも、
これを行なっていることが大切なのです。

つねに、
気づきの連続体awareness continuum
として存在できることが、
ベースラインであり、
覚醒awakenessなわけなのです。

そして、
このスキルが、
私たちの心理的統合を進め、
実際的にも、
ワーク(セッション)を、
進め(深め)やすくもするものなのです。

実は、
この気づきの連続体awareness continuumとは、
正規の文脈でいわれている、
マインドフルネスそのものでもあるのです。
判断を挿し込まない、
オープンな気づきの状態である、
ということなのです。


◆気づくことの違い 同一化と脱同一化

さて、
気づきawarenessそのものは、
気づきの連続体awareness continuumとしての、
マインドフルネスなのですが、
そのことが、
ゲシュタルト療法の実践の中でも、
見失われたり、
間違われていく理由(要因)が、
いくつかあります。

まず、それは、
実践上で、起こって来ます。

ゲシュタルト療法のワーク(セッション)を、
長期にわたって継続的に続けていくと、
ワーク自体が、
ある感情的なテーマなどを中心に展開されるため、
その内容(テーマ)そのものに、
気を取られてしまう(同一化してしまう)、
という点が、
まず第一の理由です。

ワークの実践においては、
ある微かな感情に気づきを持ち、
それに深く没入して、
それをさまざまに展開していくことが、
重要となります。

そのことが、
私たちの葛藤を解きほぐし、
情動的に深く、
解放していくことになるからです。

この場合の、
「ある感情」とは、
「ある部分的な自我」に、
由来しているものです。
私たちは、普段、
それらになかなか気づけません。
ワークの中の、
変性意識状態(ASC)でこそ、
それらが気づかれやすくなるのです。
複数の自我(私)について ―心のグループ活動

ところで、
ワークの中のこの場面で、
私たちの心は、
「2つの働き方」を、
しています。

ひとつは、
ある部分的な自我(感情)に、
気づくawarenessという状態です。

これは、
その感情を、
対象化している状態であり、
主体は、
その感情そのものとは、
少し離れた状態、
つまり、脱同一化している状態にある、
ということです。
このわずかな差異、
脱同一化が、
気づきawarenessの状態の核心なのです。

もうひとつの働き方は、
その感情そのものに、
深く没入し、同一化している状態です。
深く同一化しているからこそ、
その感情(自我)を内側から深く把握し、
そのものとして、
自発的に展開していくことが、
可能となるのです。

ワークの中で、
私たちの心は、
この2つの働き(同一化と脱同一化)を、
同時に、2局面で、
振幅しながら、
行なっているのです。

そして、
この2つ(同一化と脱同一化)を
振幅しながら、
行なえることが、
ワークが、
私たちを深く展開し、
統合していく、
肝の力なのです。

この同一化と脱同一化は、
車の両輪のように、
働くものなのです。

そして、
ワークの変性意識状態(ASC)の中では、
このことが、
可能となるわけなのです。


…………
さて、
話をもとに戻しますと、
ではなぜ、
ゲシュタルト療法の中で、
気づきの連続体awareness continuum
という、マインドフルネスが、
なぜ、見失われがちになるのか、
という点です。

それは、
今、前述に見たワークの場面に即して言うと、
ワークの中で起こる、
ダイナミックに情動を解放していく側面、
つまり、各感情や自我と、
「同一化」する側面ばかりに、
私たちが、
気を取られていくことに、
なるからなのです。

そのことが、
ワークの中で、私たちに、
大きなカタルシスや解放をもたらすものなので、
その成功体験に引っ張られて、
これらの体験を、無意識裡に、
繰り返そうとしてしまうのです。

そして、そのことと、
ゲシュタルト療法のやり方そのものを、
同一視してしまいがちなのです。

そして、その際、
気づき(脱同一化)の側面よりも、
同一化の側面に、
意識がいってしまうのです。

また、その結果として、
同一化する心理的内容(各感情や自我)を、
探しはじめることにも、
なってしまうのです。
そして、これが、
落とし穴のはじまりなのです。

よく、
ゲシュタルト療法のサークルでは、
自分の持っている、
問題やテーマ、パターンなどが、
取り沙汰されます。
ワーク(セッション)の、
素材(ネタ)となるものたちです。

そのため、
人によっては、
ワークのための、
問題やテーマ、パターンを、
探しはじめることにもなります。

しかし、本来、
各感情や自我は、
自発的、かつ繊細に、
気づかれるawarenessべきものたちなのです。
無理に、ベタに、
設定するものではないのです。

そのような設定は、
先入観やビリーフ(信念)をつくり出し、
かえって、
ワークと気づきawarenessを、
阻害するものに、
なったりもするのです。

そして、このような態度は、
結果的に、
ワークの類型における、
「することのゲシュタルト」という、
間違った姿勢にも、
つながっていくこととなるのです。


◆「することのゲシュタルト」という落とし穴

さて、
ワーク(セッション)においては、
気づきと情動的な解放、
脱同一化と同一化の振幅が、
表裏一体のものとなって、
深い心理的統合も可能となります。

しかし、
ワークの中で、
情動的な解放による、
「問題解決」や「答え」ばかりを、
求めていくと、
起こっている事態への、
今ここの気づきawarenessが、
根本から、見失われていくことにも、
なっていくのです。

同一化すべき感情ばかりを探して、
自己の、その時の状態への気づきawarenessが、
失われていってしまうのです。

そのようなワーク(セッション)においては、
クライアントの方は、
しばしば、心焦って、
答えを求めて、
「何かをしよう」とばかりをします。

これが、
「することのゲシュタルト」
という落とし穴です。

しかし、
ワークにおいて、
第一に、
何よりも重要なのは、
「何かをすること」
でなく、
「何もしないで」、
ただ、自分の状態に、
気づいてawarenessいることなのです。

自分の中で起こっていることに、
ただ、
気づいてawarenessいることなのです。

「答えを求めている」自分に、
ただ、
気づいてawarenessいることなのです。

その中でこそ、
自己の内側から、
真に自発的な表現、
活路が現れて来るのです。



◆マインドフルネスと、しないことのゲシュタルト

さて、マインドフルネスの流れは、
さまざまな文脈で、
日本でも知られはじめましたが、
その大元は、
ゲシュタルト療法が広まる背景でもあった、
米国西海岸で、
ヴィパサナー瞑想や、上座部仏教の瞑想法として、
広まっていたものでした。

日本では、鬱病への特効薬がない中で、
認知行動心理療法のひとつとして、
認知度があがっていったのかもしれません。

その立役者の一人でもある、
『マインドフルネスストレス低減法』(春木豊訳、北大路書房)
の著者、ジョン・カバットジン博士は、
マインドフルネスとは、気づきawarenessのことだと、
端的に語っています。

その著書の中で、
博士は、プログラムの参加者が、
プログラムに取り組む様子を、
次のように描写します。

「彼らが行っているのは、
“ 何もしない”ということです。
そして、
一つの瞬間から次の瞬間へと連なっていく、
一つひとつの瞬間を自覚し、意識するために、
一つひとつの瞬間に意欲的に集中しようとしているのです。
つまり、彼らは、
“ 注意を集中する”トレーニングをしているのです。
別の言い方をすれば、
彼らは
自分が“ 存在すること”を学んでいるともいえます。
彼らは、
何かをすることによって時をすごすのではなく、
意図的に何かをするのをやめ、
“ 今”という瞬間の中で、
自分を解放しようとしているのです。
心に気がかりなことがあったとしても、
体が何か不快感を感じていたとしても、
その瞬間の中で、
意図的に、心と体に安息を与えようとしているのです。
“ 生きている”ということ、
“ 存在している”ということの本質に
踏み込もうとしているのです。
彼らは、
何かを変えようとするのではなく、
ただ自分の置かれているありのままの状況と共に
その瞬間を過ごそうとしているのです。」
(前掲書)

さて、
ゲシュタルト療法においても、
気づきawarenessのベースラインは、
ここにあります。

ワーク(セッション)で、
何かをすることは、
必須ではないのです。

しないことの中にこそ、
豊饒な気づきawarenessが、
あるのです。

これが、
しないことのゲシュタルト、
です。

見たくない自分も含めて、
判断しないで、
刻々の、
剥き出しの自分を、
ありのままに、
ただ気づいていくことなのです。

それだけでも、
ワーク(セッション)は、
成立するのです。

そしてまた、
ゲシュタルト療法の中では、
「変化の逆説」法則として、
知られているものがあります。

つまり、
何かを変えようとすると、
逆に、
変化というものは起きないのです。
しかし、
変化を期待せずに、
ただその状態を受け入れると、
変化は起こるのです。

変化を求めないと、
変化が起きるのです。

「変化は起こすのではなく、起こるのだ」
とは、パールズの言葉です。

マインドフルネスの姿勢は、
この本来の、
ゲシュタルト療法の姿勢を、
より明確に、
照らし出してくれるものなのです。


※気づきや統合、変性意識状態(ASC)への
より総合的な方法論については、拙著↓
『砂絵Ⅰ 現代的エクスタシィの技法』
をご覧下さい。


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【PART1 Basic】ゲシュタルト療法
ゲシュタルト療法【基礎編】
ゲシュタルト療法【実践・技法編】
ゲシュタルト療法【応用編】
「セッション(ワーク)の実際」

【PART2 Standard】
気づきと変性意識の技法 基礎編
変性意識状態(ASC)とは
「英雄の旅」とは
体験的心理療法
NLP 普及・効果・課題
禅と日本的霊性
野生と自然

【PART3 Advanced】
気づきと変性意識の技法 上級編
変性意識状態(ASC)の活用
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その他のエッセイ

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明晰夢の効力 2 映画『マトリックス』の世界へ


さて、以前、
映画『マトリックス』について、
取り上げてみました。

そこにおいて、
物語の中で描かれている、
(マトリックスのつくり出す)
仮想世界というものが、
私たちが今生きている、
この現実世界と、
非常に近いものであることについて、
考えてみました。
マトリックスの暗喩(メタファー) 残像としての世界

つまり、
マトリックスの世界とは、
決して、
絵空事とばかりは、
いえないものである
ということについてです。

今回は、
そのような、
マトリックスの世界観と、
特異な夢の一種である、
「明晰夢」との関連性について
少し考えみたいと思います。

ところで、
明晰夢 lucid dream についても、
以前、少し取り上げて、
みたことがあります。
「明晰夢」の効力 夢の中で掌を見る

また、
拙著『砂絵Ⅰ』においても、
夢見の技法のひとつとして、
この明晰夢を、
重要な実践として、
取り上げました。
内容紹介『砂絵Ⅰ: 現代的エクスタシィの技法』

明晰夢とは、
夢の中で、
人が、
自分が夢を見ていることに気づいて、
その上で、
行動しているような夢のことです。

現在では、
心理学的にも、
研究が進んでいますが、
歴史的には、
チベット密教や、
シャーマニズムの中で、
その存在が、
知られていたものでした。

さて、
ところで、
明晰夢の世界とは、
大変、興味深い世界です。

そこでは、
自分の、
見て、
聞いて、
感じている、
まわりの世界すべてが、
自分のつくり出した仮想世界だと
理解しながら、
その感覚を味わっている、
そんな世界です。

それは、
奇妙な世界です。

たとえば、
明晰夢のなかでは、
今はもう、
物理的には存在しない、
昔の家や部屋にいることが、
あります。

「この部屋は、
もう存在していない」
ということは、
夢の中でも、
分かっています。

目の前に、
存在している物や風景が、
「夢がつくり出している」
ということを分かって、
それらを見たり、
感じたりしているのです。

しかし、
それらはありありと、
存在しています。

夢特有の、
多少感覚のぼやけた感じはありますが、
それでも、
それらの物に触れると、
現実で触れるのと、
同じような感覚が、
得られるのです。

それは、
不思議な感覚です。

たとえば、
それは、
昔、懐かしい部屋だったりします。

そこには、
今ではすっかり、
忘れてしまっていたような、
風景や物の細部が、
再現されています。

「そういえば、
こんな物が、
部屋の片隅に、
いつもあったなぁ」

とか、

「そういえば、
ここには、
こんな感じで、
よく、埃が積もっていたなぁ」
と、
現実に存在しない、
物や風景が、
そこには、
今も、在るのです。

そして、
それらの物に、
実際に触れてみると、
とても懐かしい触感が、
得られたりするのです。

それは、
深い感慨と、
愛惜の世界と、
いえるものでもあります…


さて、
このように、
明晰夢は、
体験それ自体においても、
充分に、
感銘的なものであるのですが、
その影響力は、
さらに、
より深い作用を、
私たちに、
もたらして来るものでも、
あるのです。

つまりは、
興味深いことに、
このような、
明晰夢の感覚は、
普段の、
日常生活に、
影響を与えて来る、
ということなのです。

というのも、
明晰夢の中では、
まわりの風景のすべてが、
「自分の感覚情報が、
創り出したものだ」
と、わかっています。

そのうえで、
さまざまな行動を、
とることを、
試してみたりしているです。

しかしながら、
「自分の感覚情報が、
すべて創り出している」
ということにおいては、
実は、
この普段の日常的現実、
日常意識の見る風景においても、
事情は、
まったく同じなのです。

この覚醒時の、
まわりの風景や物にしろ、
皆、
脳や感覚がつくり出した、
情報の世界、
任意の構成風景であることは、
まったく同じで、
あるからです。

そして、
そのようなことが、
明晰夢での知覚的実感から、
まざまざと、
納得できるわけなのです。

その感覚(世界表象)の任意性を、
否定することが、
できないのです。

「この風景も、
自分で創り出している、
感覚情報である」
ことが、
実感的に、
気づかれawarenessてしまうのです。

そして、
それは、
映画『マトリックス』において、
主人公ネオたちが、
マトリックスのつくり出す、
仮想世界のなかで、
その仮想性を意識して、
行動しているのと、
同じような感覚でも、
あるのです。

私たちも、
この現実世界においても、
任意の感覚情報(世界表象)の中を、
生きている、
というわけなのです。

それらを理解しつつ、
行動していくように、
なっていくというわけです。

そして、
それは、
生きる上で、
私たちに、
新しい種類の自由度を、
もたらすことにも、
つながっていくのです。

チベット密教においては、
おそらく、
世界の空性を、
実感的に理解するために、
夢ヨーガを行なうのでしょうが、
そのように、
私たちは、
明晰夢の眼差し(光線)を通して、
目の前の世界を、
より流動的で、
非実体的なものとして、
とらえるように、
なっていくのです。

映画『マトリックス』の世界を
地で行くような事態が、
実際に起こって来ることに、
なってくるわけなのです。

そのような点で、
この明晰夢の実践(実験)は、
私たちの、
意識拡張の探求において、
とても興味深いものとして、
位置づけることが、
できるわけなのです。


※気づきや統合、変性意識状態(ASC)への
より総合的な方法論については、拙著↓
『砂絵Ⅰ 現代的エクスタシィの技法』
をご覧下さい。


Sleep-Patterns-Lucid-Dreaming-Part-1-Dr.-terry-Willard

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ゲシュタルト療法【基礎編】
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ゲシュタルト療法【応用編】
「セッション(ワーク)の実際」

【PART2 Standard】
気づきと変性意識の技法 基礎編
変性意識状態(ASC)とは
「英雄の旅」とは
体験的心理療法
NLP 普及・効果・課題
禅と日本的霊性
野生と自然

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気づきと変性意識の技法 上級編
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気づき・自己想起・至高体験 目標とプロセス


さて、当サイトでは、
人間の意識や存在の、
さまざまな拡張された体験領域を、
取り扱っています。

最近では、
マインドフルネス的な気づきと、
グルジェフの自己想起について、
扱いました。
気づきawarenessと自己想起self-remembering
自己想起self-rememberingの効能

また、マズローの
至高体験や自己実現の考えについても、
見てみました。
「至高体験」の効能と、自己実現
アイデンティティの極致としての至高体験
「完全なる体験」の因子と、マズロー

関連領域としては、
登山における山頂体験について、
卓越した登山家、
ラインホルト・メスナーの洞察を、
参考にしてみました。
登山体験 その意識拡張と変容

これらが示す、
数々の体験領域は、
私たちの生Beingの、
より拡張された次元を、
垣間見せてくれる、
貴重な領域ともいえます。

私たちの生には、
現代社会が、通常了解している以上の、
さまざまな潜在能力があり、
創造性、意識拡張の領域においても、
より大きなひろがりの可能性を、
持っているからです。
その一端は、
拙著の中でも、
多くの考察をめぐらせました。
内容紹介『砂絵Ⅰ: 現代的エクスタシィの技法』

ところで、一方、
私たちは、
日々の生活を生きつつ、
それほど特別な達成を持たなくとも
さまざまに閃光的で、
刺激的な、
強度の体験を得ながら、
日々を成長、生成Becomingしているとも、
いえます。

今回は、
人生の中における、
そのような大きな目標と、
日々のプロセスとの関係を、
どうとらえるかについて、
少し考えてみたいと思います。

そこでは、
マズローの言葉が、
ヒントとなります。

ところで、
マズローは、
欲求の五段階仮説で、
有名でもありますが、
その下位の
「基本的欲求」
「基本的価値」
を追求することが、
必ずしも、
途中経過としての価値しか、
持たないのというわけではないことを、
至高体験との関係で、
指摘しています。

目標とプロセスとの、
生命Beingと生成Becomingとの、
多様な姿を語ります。

「…かれに関するかぎり、
特定の期間中
階層のうちの
どのような欲求に支配されていようとも、
生命lifeそのものと同じ意味の
絶対的、究極的な価値なのである。
だからして、
これらの基本的欲求
あるいは基本的価値というものは、
目標としても、
また単独の終局目標に達する階梯としても、
とり扱われるのである。」

「なるほど単一の究極的価値
あるいは人生目標といったものの
あることはたしかであるが、
われわれは複雑に連関しあった
価値の階層的、発達的体系をもつこともまた、
たしかに正しいのである。」

「これはまた、
生命Beingと生成Becomingとの間の
明らかに対照的な逆説を解くのに
役立つ。
なるほど、
人間は絶えず究極に向かって精進しており、
それはいずれにしても
別種の生成であり、
成長であるといえる。
まるで、われわれは
つねに到達できない状況に
達しようと努めなければならない宿命に
あるかのようである。
だが、幸い、
こんにちではこれが正しくないこと、
あるいは少なくとも唯一の真理でないことを、
知っている。」

「それを統一する別の真理があるのである。
われわれは一時的な絶対的生命によって、
つまり、至高経験peak-experienceによって、
よい生成が再三、再四報いられるのである。
基本的欲求の満足が達せられることが、
われわれに多くの至高経験を与えてくれる。
しかもその一つ一つが無限の喜びであり、
それ自体完全なものであり、
みずから生き甲斐を感ずる以外
なにも求めようとしない。」

「これは天上が
どこか生涯のはるか彼岸にあるとの考え方を
否定しているようなものである。
いわば天上は生涯にわたり
われわれを待っていて、
一時的にいつでも入りこみ、
われわれが日常の努力の生活に帰るまで
楽しもうと身構えているようである。
そしてひとたびわれわれがそれにひたると、
絶えず思いを新たにし、
この記憶を大切にして、
逆境の際には
心の支えともなるのである。」

「そればかりでない。
刻一刻の成長の過程が、
それ自体完全な意味において、
本質的に報いられる喜ばしいものである。
それらは山頂の至高体験でなくとも、
少なくとも山麓の経験であり、
まったくの自己正当性をもつ喜びの曙光であり、
生命の一瞬である。
生命Beingと生成Becomingとは
矛盾するものでも、
たがいに排反するものでもない。
接近と到達とは
ともにそれ自体報酬なのである。」
(『完全なる人間』
上田吉一訳、誠信書房)

さて、
マズローの言葉を見てみましたが、
探求のプロセス自体の中に、
達成の至福が、
すでにいくらかは含まれている、
というわけなのです。

そうではないと、
たしかに人は、
動機を失いがちになってしまう
ともいえます。

しかし、
筆者が見た多くの事例からも、
実際のところは、
至高体験を含有する、
さまざまな強度な体験が、
人生には、
侵入して来るものなのです。

それとはわかりにくい、
多様な姿や形態で、
至高体験は、
私たちの生のうちに、
含まれているものなのです。
「山頂」にいなくとも、
それに連なる「山麓の経験」は、
非常に多くあるのです。

要は、
気づきawarenessを、
磨いていくことで、
それらを掘り起こし、
育てていくことなのです。

そのようなヴィジョンや熱意、
体験に開かれている姿勢が、
心身の探求を進める上でも、
とても重要なことであるといえるです。


※気づきや統合、変性意識状態(ASC)への
より総合的な方法論については、拙著↓
『砂絵Ⅰ 現代的エクスタシィの技法』
をご覧下さい。




【PART1 Basic】ゲシュタルト療法
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変性意識状態(ASC)とは
「英雄の旅」とは
体験的心理療法
NLP 普及・効果・課題
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自己想起 self-remembering の効能


さて、以前、
世間一般や心理療法の現場で、
漠然と語られている、
気づきawarenessという心理状態を、
構造的に理解するために、
G・I・グルジェフの、
自己想起self-remembering
という気づきの実践技法を、
さまざまに見てみました。
気づきawarenessと自己想起self-remembering

マインドフルネスが、
語られるようになってきた昨今、
特に重要なテーマと、
考えられたからです。

そこでは、
変性意識状態(ASC)の研究で有名な、
チャールズ・タート博士の著書、
『覚醒のメカニズム』(吉田豊訳、コスモスライブラリー)
をもとに、
諸々を考えみました。

今回は、
グルジェフの弟子としても著名な、
ウスペンスキーの著書、
『奇蹟を求めて』(浅井雅志訳、平河出版社)から、
グルジェフの言葉や、
ウスペンスキーの洞察を取り上げ、
自己想起self-rememberingの、
大きな潜在力について、
考えてみたいと思います。

ところで、
それに少しでも取り組むと分かるように、
自己想起self-rememberingは、
非常に困難であると同時に、
極めて重要な実践であり、
人生を、
決定的に違う光りのもとに、
照らし出すものとなっています。

さきのタート博士は語ります。
「ウスペンスキーの『奇蹟を求めて』を読んだ結果、
私が初めて自己想起を実践した時、
これは自分が必要としている
何かきわめて重要なことだと
すぐにわかった。」
(前掲書)

また、
ウスペンスキーも語ります。
「G(グルジェフ)の言ったこと、
私自身が考えたこと、
また特に自己想起の試みが
私に示したことすべてから、
私はこれまで科学も哲学も出合ったことのない
全く新しい問題に直面しているのだということを
間もなく納得したのである。」
(前掲書)

ウスペンスキーの言葉は、
すでに、100年前のものですが、
この間、人類はまったく進化していないので、
事態はまったく変わっていないのです。

グルジェフは語ります。
「人生全体、人間存在全体、
人間の盲目性全体は
これに基づいているのだ。
人が自分は自分を想起することができない
ということを本当に知れば、
彼はそれだけで
彼の存在(ビーイング)の理解に
近づいているのだ。」
前掲書)

ところで、
筆者自身は、
拙著『砂絵Ⅰ: 現代的エクスタシィの技法』
の中でも記したように、
個人的には、
「自分の自意識を外側から見る」
というような変性意識的体験により、
自分の日常意識の、
「無明性(眠り)」を突きつけられた結果、
この自己想起の重要性に、
気づいていったという、
経緯があります。
内容紹介『砂絵Ⅰ: 現代的エクスタシィの技法』


◆自己想起の実態

さて、
この自己想起self-rememberingですが、
ウスペンスキーの本の中では、
弟子たちが、
自己観察の宿題に対して、
さまざまな回答する中で、
グルジェフが語ったことにあります。

「誰も私が指摘した
最も重要なことに気づいていない。
つまり、誰一人、君たちは
自分を想起 remember yourselvesしていない
ということに気づいていないのだ
〔彼はここの部分を特に強調した〕。
君たちは自分を感じて feel yourselvesいない。
自分を意識 conscious of yourselvesしていないのだ。
君たちの中では、
〈それ it が話し〉
〈それ it が考え〉
〈それ it が笑う〉のと同様、
〈それ it が観察する〉のだ。
君たちは、
私 I が観察し、
私 I が気づき、
私 I が見るとは感じていない。
すべてはいまだに、
〈気づかれ〉
〈見られ〉ている。
……自己を本当に観察するためには
何よりもまず
自分を想起しなければならない。
〔彼は再びこの語を強調した〕。
自己を観察するとき
自分を想起 remember yourselvesしようと
してみなさい。」
(前掲書)

自己想起self-rememberingは、
普通に、現代社会で生活する中では、
決して教わることのない、
独特な意識の働かせ方です。

自己観察の宿題を、指示する中で、
グルジェフは
私たちが、
自分自身だと思い。
自分たちの自明の道具(特性)だと思っている、
この「意識」は、
決して確固として、
いつもここに在るわけではない、
私たちの存在を満たしているわけではない、
と指摘していたのです。
それを観察するようにと、
示唆していたのです。

「私の言っているのは、
意識が再び戻って来たとき初めて、
それが長い間不在だったことに気づき、
それが消え去った瞬間と
再び現れた瞬間を見つけるか、
あるいは思い出すことができるということだ。」

「自分の中で、
意識の出現と消滅を観察すれば、
君は必然的に、現時点では、
見もせず認識もしていない一つの事実を
見ることになるだろう。
その事実というのは、
意識を持っている瞬間というものは非常に短く、
またそれらの瞬間瞬間は、
機械の完全に無意識的かつ機械的な働きの
長いインターヴァルによって
隔てられているということだ。」
(前掲書)

ウスペンスキーは、
実際に、自己想起をトライした印象を
次のように語ります。

「自分自身を想起すること、
あるいは自分を意識していること、
自分に、
私は歩いている、
私はしていると
いいきかせること、
そしてとぎとれることなく
この私を感じ続けること、
こういった試みは
思考を停止させるというのが
私の最初の印象である。
私が私を感じていたとき、
私は考えることも話すこともできず、
感覚さえ鈍くなった。
それにまたこの方法では、
ほんのわずかの間しか
自分を想起することはできなかった。」
(前掲書)

そして、
ウスペンスキーは、
とりあえず見出した定義として、
次のように語ります。

「私は、
自己想起self-rememberingの特徴的な点である、
注意の分割ということを
話しているのである。
私は自分に
それを次のような方法で説明した。
何かを観察するとき
私の注意は観察するものに向けられる。
これは片方だけに
矢印が向いている線で示される。

 私―→観察されている現象

私が同時に自己を想起しようとすると、
私の注意は観察されているものと
私自身の両方に向けられる。
第二の矢印が線に現われる。

 私←→観察されている現象

このことを明確にしたとき、
問題は
何か他のものに向ける注意を
弱めたり消したりしないままで
自分自身に注意を向けることにある、
ということに気づいた。

さらに
この〈何か他のもの〉は
私の外部にあると同様、
私の内部にもありうるのであった。」

「注意の
そのような分割の最初の試みが
私にその可能性を示してくれた。
同時に私は二つのことに
はっきり気づいた。」

「第一に、
この方法がもたらす自己想起は
〈自己を感じること self-feeling〉や
〈自己分析 self-analysis〉とは
何の共通点もないことがわかった。
それは奇妙に親しい趣のある
新しくて興味ある状態だった。」

「第二に、
自己想起の瞬間は、
まれにではあるが生活の中で
たしかに起こることに気づいた。
このような瞬間を
慎重に生みだすことによってのみ
新しさの感覚を
生むことができるのである。
(中略)
私は、
自分の人生の一番古い記憶
―私の場合は非常に幼少時のものであった―
は自己想起の瞬間 moments of self-remembering
であったことが
はっきりわかった。
このことに気づくと
他の多くのことがはっきりしてきた。
つまり私は、
自分を想起した過去の瞬間だけを
本当に覚えているということが
わかったのである。
他のものについては、
それらが起こった
ということだけしか知らない。
私には
それらを完全によみがえらせrevive、
再びそれらを経験することは
できない。
しかし自己を想起した瞬間は
生きてaliveおり、
またいかなる意味でも
現在presentと違っていなかった。」

「私はまだ
結論に至ることを
恐れていた。
しかし、すでに自分が
おそろしく大きな発見の敷居の上に
立っていることに気づいていた。」
(前掲書)

そして、

「これらはすべて
最初の頃の認識であった。
後になって注意を分割することが
できるようになったとき、
自己想起は、
自然な形で、
つまりおのずから、
非常にまれな、
例外的な状況でしか現れないような
すばらしい感覚を生み出すことが
わかった。」
(前掲書)

自己想起の能力は、
訓練によって、
変容していくのです。

ところで、
筆者自身も、
人生の最初期の記憶は、
自己想起self-rememberingと思しきものでした。
それは、一人で、
公園の砂場で遊んでいる時のもので、
その状況はまったく覚えていませんが、
何かを求めて、注意を、
視界のない(遠くの)どこかに、
向けている時のものでした。
そして、これが、
今も記憶として残っている理由は、
風景の内容のせいではなく、
「遠くに注意を向けている自分の存在」
というものを、
強烈に感じ取っていたためであったのです。

さて、
以前の記事にも引いた、
タート博士の言葉を、
再び見てみましょう。

「人々が
『感じること、見ること、聞くこと』を
初めて試みる時、
彼らは、しばしば、
ある種の微妙な透明さ―
その瞬間の
現実により敏感で、
より存在しているという感じ―
を体験する。
それは、合意的意識では味わうことができず、
また、事実、
言葉では適切に述べることができない、
そういう種類の透明さである。
たとえば私は、
それを『透明さ』と呼ぶことにさえ
自分がいささかためらいを感じているのに
気づく。
と言うのは、その言葉は
(あるいは、それに関するかぎりでは、
いかなる特定の言葉も)
それ(透明さ)が安定した、
変わらない体験であることを
含意しているからである。
それはそうではない
―バリエーションがある―のだが、
しかしそのことは、
あなたが
この種の自己想起を実践すれば、
自分で発見するであろう。」
(前掲書)


さて、ところで、
ゲシュタルト療法では、
「気づきの連続体 awareness continuum」といって、
刻々の自己の状態に、
気づいてawarenessいくことを、
重要な実践として行なっていきます。

エクササイズもありますが、
エクササイズ自体は、
あくまでもイメージをつかむためのもので、
本番は、
日々の暮らしの中で、
これを、
いつも行なっていくことにあります。
気づきの3つの領域 エクササイズ

この連続的な実践は、
きちんと深めていくと、
「透明さ」
「その瞬間の
現実により敏感で、
より存在しているという感じ」
に近づいていくものでもあります。
それは、
セッション(ワーク)を深めると同時に、
普段の統合感を、
進めていくものであるのです。

そして、
つまりは、
この気づきawarenessの連続的な実践に、
自己想起の要素を持ち込むことは、
私たちの気づきの範囲をひろげ、
その統合的な効果を、
より倍化させていくことでも
あるのです。

そのような点からも、
この自己想起self-rememberingは、
注目すべき実践と、
なっているのです。


※気づきや統合、変性意識状態(ASC)への
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登山体験 その意識拡張と変容


さて、以前、
方法論として極めて重要な、
気づきと自己想起について、
取り上げました。
気づきawarenessと自己想起self-remembering

また、その流れで、
即興表現と自己想起との関係についても、
考えてみました。
キース・ジャレットの、覚醒と熱望

今回は、その関連として、
登山体験というものを通して垣間見られる、
意識拡張や気づき、
変容の諸相について、
見てみたいと思います。
登山と瞑想は、
さまざまなレベルで、
元来、近似した要素を持っていますが、
登山と瞑想
ここでは、特に、
その覚醒体験や至高体験の側面について、
考えてみたいと思います。

ところで、
イタリアの登山家、
ラインホルト・メスナーといえば、
人類史上初めて、
八千メートル峰14座すべてに、
単独無酸素で登頂した登山家として、
知られています。

今回は、
彼の著書『死の地帯』(尾崎鋻治訳、山と渓谷社)から、
その興味深い言葉をいくつか、
拾っていってみたいと思います。

というのも、メスナーは、
優れた登山家であるばかりでなく、
体験を通した、生の哲学者といった面持もあり、
その体験や洞察を言葉にする、
卓越した才能を、
持ってもいるからです。
そのため、拙著『砂絵Ⅰ』でも、
彼の言葉を何度か引きました。
内容紹介 『砂絵Ⅰ: 現代的エクスタシィの技法』

さて、ところで、
メスナーは、
この本の前半で、
登山家が遭遇する、
極限的体験(滑落、臨死、瀕死等)の中で経験した、
さまざまな意識拡張的な体験報告を、
取り上げています。

彼自身が、
その経験者でもあるのですが、
そのような体験領域の中では、
私たちは、
日常意識から離れ、
フロー体験や、
臨死体験で報告されるような、
不思議な意識拡張的体験を、
経験しがちとなっているからです。

それらは、
私たちが元来持っている、
潜在能力が、
危機的状況の中で、
不意に現れたものとも、
いえるものです。

メスナーは、
そのような広大な潜在能力が、
私たちのうちに在ることに、
注意を促していくのです。

そして、
困難で苛烈な登山体験が、
人を惹きつけていく、
その核心部分に、
私たちの存在や意識を、
深いレベルで覚醒させ、
解放していく秘密があることを、
示唆していくのです。

実際に、彼の言葉を、
見てみましょう。

「私は今でも
八千メートル峰登頂への究極の動機が
何であるのか、
自分でもわからない。
ただ、一度頂上へ登ってしまうと、
また降りるのがとてもいやになるのだ。
面倒だからというだけではない。
私にとっては、
下降によって
私の中に
虚しさがひろがるからである
―失楽園―
それは成功の意識によって
満たされることはない。
頂上に到達したときに
すでにまったく別種の虚しさ、
私の全存在をとらえる
解放的な虚しさを
私は何度も経験した。」
(前掲書)

メスナーは、
山頂において、
ある種の意識拡張を、
経験していたのです。

「私はエベレストの頂上から
下山しようとしたとき、
なかなか降りる気になれなかった。
(中略)
どうしてかはわからないが、
もっと長くいられるものならいたい、
永久にだってそこにいたいと思った。」

「八千メートル峰の上に
そのまま座りつづけたら
どうなんだろうなと、
私はときどき考えた。
登頂の隠された意味は
頂上にとどまることではないだろうか。」

「無限の、
なにもない空間の中心である頂に
私は座っていた。
はるか他の谷々に
乳色の靄が沈んでいた。
私のまわりの地平線が、
私の中にある空虚さと
同じように膨らんできた。
すると私の深い呼吸が
自然に凝縮して、
純粋の幻視的な輪となった。
なんともいいようのない
ほがらかな放下感とともに
私のこの調和状態、
一種のニルワナ―
涅槃から目覚めた。」
(前掲書)

そして、
彼は、山頂体験そのものが、
至高体験peak-experienceのように、
ある種の変容を、
人にもたらすことに、
思いをめぐらせます。

「ヘルマン・ブールが
ナンガ・パルバードの山頂から
生還したのは、
登頂したからである。
もしも最高点を目前に失敗していたなら、
あのように超人的な下山は
できなかったろう。
だから私にいわせれば、
彼が生還したことこそが、
彼が登頂した証拠なのである。
彼はあの夢の点に触れたからこそ、
時期を失せず、
その点から離れることができたのである。」

「人に踏まれることのなかったこの世界で、
私を支配するものは、
一方では雲や谷、
深さや広がりの現実的知覚であるが、
他方では、
自然が演出するその劇とは
一見ほとんど関係がないような、
精神的感銘と内的照明(悟り)である。
私は八千メートル峰から
再び低地にもどったとき、
精神的に
生まれ変わったように思ったことが
何度もあった。
だから私が
高所での体験から得た認識を、
私は錯乱や幻覚ではなく、
深い真実だと思っている。」
(前掲書)

そして、
つまりは、

「高く登れば登るほど、
ますます自分が透明に、
くっきりと見えてくる。
感覚が研ぎ澄まされる。
彼があれほど情熱を寄せた頂が、
具体的な形で彼のものとなる。
彼は一種の光明点の中へ入り、
涅槃の中に
消え去ることができる。」

「初めてのいくつかの大きな遠征の後で、
私は自分の人生がひろがったのを感じたが、
同時により思慮深くもなった。
三つ目の八千メートル峰である
ヒドゥン・ピークが私に鎮静作用を与えた後、
涅槃とは何であるかが
ようやくわかりかけてきたと思った。
つまり私は
生を超えるものの息吹を
吸ったのである。
エベレストの頂上では
一種の精神的オルガスムを体験した。
それは時間と空間のない全有意識における
感情的振動である。
そのとき私の理性は
完全にシャットアウトされていた。」
(前掲書)

さて、
ところで、
メスナーは、
彼自身のさまざまな極限状態における、
実体験から、
このようなことを引き起こす、
私たちの存在の、
秘められた組成について、
仮説を考えていきます。

「まもなく三十年になる
私の登山家生活で体験した数々の幻視は、
私の自己理解に本質的に寄与した。
あるときは
私は意識点としてだけ存在したり、
またあるときは
強い充実感にあふれたりした。
そういうときには、
悟性が特にそんなふうに働きかけなくても、
知が認識になるのである。
悟性はその認識を記録する。
すると一瞬その認識は
合理的に把握できるように見えるが、
それは一瞬だけのことであって、
二度と呼び戻すことはできない。」

「私の経験によれば、
人間は、外的人間と内的人間とからなっている。
外的人間―身体的・知的領域―は
誰にでもかなりよくわかる部分である。
しかし内的人間―精神的領域、
それは意識下であり、
まだよく解明されていない次元である
(私はこれを精密素材領域と呼んでいる)―は、
そこへ通じる方法を知らない限り、
誰にもわからない。
(中略)
どの肉体も、
すべてがそれからできている
元の素材を自分の中に持っている。
だからどの人間も万有を分け持っている。
万有は無限だから、
人間は無限を分け持っている。
道具としての感覚器官と、
記録装置としての意識の助けを借りて、
人間は意識的に明確に
自分自身を経験する(知る)ことができる。
(中略)
精神的な、
私のいう精密素材的な人間には
限界がないから、
精神的人間の経験能力には限界がない。」

「死の地帯の体験は
―いろいろと議論された死の経験と同じく―
新しい意識領域へいたる階梯の
重要なステップのひとつであろう。」
(前掲書)


さて、以上、
登山にまつわる、
ラインホルト・メスナーの言葉を見て来ましたが、
これらの言葉は、
登山に限定されない、
さまざまな生の場面に、
適用可能な洞察となっていることが、
類推できると思われます。

このような至高体験や、
体験領域を持つものは、
私たちの人生の中で、
多様に存在するからです。

そのような意味において、
メスナーの洞察や示唆は、
私たちの人生で、
さまざまに役立っていく、
刺激的(覚醒的)なものと、
なっているのです。

最後に、彼が、
本の冒頭に記した言葉を、
引いておきましょう。

これなども、
この「登山」の言葉を、
各人の取り組み事項に置き換えることで、
その野生的創造の可能性を、
引き出す枠組みに、
なっていくものです。


登山―それはひとつの可能性
登山―それは冒険
登山―それは積極的な自然体験
登山―それは創造的にして遊技的なスポーツ
登山―それは行為において存在を意識化する
登山―それは死の挑戦に抵抗するなかでの悟り
登山―それは天から地上への移行
登山―それは此岸と彼岸との架け橋
登山―それはより高い意識段階を求めること
登山―それはひとつの可能性
(前掲書)


※気づきや統合、変性意識状態(ASC)への
より総合的な方法論については、拙著↓
『砂絵Ⅰ 現代的エクスタシィの技法』
をご覧下さい。



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キース・ジャレットの、覚醒と熱望


さて、前回、
G・I・グルジェフのいう、
自己想起self-rememberingを取り上げ、
気づきawarenessと、
そのあるべき姿について、
考えてみました。
気づきawarenessと自己想起self-remembering

今回は、
その続きで
気づきawarenessや、
自己想起self-remembering、
覚醒awakenessについて、
また少し見ていきたいと思います。

ところで、
グルジェフ Gurdjieff については、
ミュージシャンの中に、
信奉者が多いのですが、
特に、
ピアニストのキース・ジャレットや、
キング・クリムゾンのロバート・フリップなど、
即興演奏を重視するミュージシャンに、
その信奉者が多いことは、
注目すべきことでもあります。

実は、それは、
即興表現というものに内在した、
必然的な事態でもあるからです。

さて、
ところで、
世の優れた即興演奏の中には、
あたかも、
その演奏(音楽)が、
慣性的な時間に逆らい、
時間の流れに逆行して、
今ここの空間を切り拓き、
時空を創出するかのような印象を、
受けるものがあります。

その音楽の中で、
私たちは、
時間の水平的な流れに対して
(私たちは普段それに流されているわけですが)
あたかも、その上に立つかのように、
垂直的な在り方をするかのようにも、
感じられたりするものです。

存在(時間)を対象化する、
「存在論的な印象」を、
受けるのです。

存在論的な感覚も、
存在に対して、
あたかも、
その上位に立つかのような、
メタ的な、
垂直的な印象を与えるものだからです。

かつて、批評家の間章が、
エリック・ドルフィー Eric Dolphyに
感じ取ったのも、
おそらく、
そのような垂直的な印象だと、
考えられます。

ドルフィーの軽やかさは、
反慣性的で、
反重力的な性質のものです。

そして、これは、
自己想起self-rememberingの持つ、
覚醒感awakenessと、
即興演奏との、
ある種の親和性でも、
あるのです。

今回は、
そのような親和性を、
明確な方法論として位置づけている、
キース・ジャレットKeith Jarrettの言葉を引いて、
この内実を、
見ていきたいと思います。

その著書『インナービューズ』(山下邦彦訳、太田出版)
における、彼の言葉は、
とても示唆に富んでいます。

そこで、
ジャレットは、
気づきや覚醒、熱望(欲望)、
演奏や経験について、
大変興味深い考えや洞察を、
数々示しているのです。

そこで、
彼が語っている覚醒awakeness
というのは、
当然、自己想起self-rememberingに近い、
存在論的な状態のことを、
指していると思われます。

それは、
前回引いた、
タート博士の言葉によれば、
「ある種の透明さ」
「その瞬間の現実に、
より敏感で、
より存在しているという感じ」
としても、
表現されているようなものです。

「人々が
『感じること、見ること、聞くこと』を
初めて試みる時、
彼らは、しばしば、
ある種の微妙な透明さ―
その瞬間の現実に、
より敏感で、
より存在しているという感じ―
を体験する。
それは、
合意的意識では味わうことができず、
また、事実、
言葉では適切に述べることができない、
そういう種類の透明さである。」
(タート『覚醒のメカニズム』〔原題:waking up〕
吉田豊訳、コスモス・ライブラリー)

さて、
キース・ジャレットは語ります。

「実は、ぼく自身、
自分のことを音楽家だというふうには、
考えていない。
どういうことかって言うと、
ぼくは自分の演奏を聴いていて
ほんとうは音楽が問題なのではない
ということがよくわかるんだ。
ぼくにとって、音楽というのは、
目覚めた状態、覚醒したawake状態に
自分を置き、
その知覚、意識awareness、覚醒awakenessを
認知し続けることに
かかわったものなんだ。」

「ぼくにとって、音楽のすべての形式は、
それ自体は、なんの意味もない。
その音楽を演奏している人間が
覚醒した状態にいるからこそ
(仮面の表情の奥で覚醒しているからこそ)、
その音楽は意味を持ってくるんだ。
演奏している人間が覚醒しているなら、
その人間の演奏するあらゆる音楽が
重要になってくる。
この覚醒こそ、最も重要なものなんだ。」

「自分を覚醒した状態にするための
ひとつの方法は、
できるだけ自然のままので、
自発的な状態でいることだ。
きみが自発的な状態でいれば、
自分のくだらないアイディアと
良いアイディアの区別が
よく聞こえてくる。
なにもかも準備した状態では、
そのような経験を持つことは
けっしてないだろう。」

「ぼくにとって、“欲望(want)”というのは、
覚醒した状態、目覚めた状態にいることであり、
きれいな音を出すとか、
耳に心地よい快適な音を出すとか
ということではない。」

「ミニマリズムによって弾かれる1音と、
覚醒した状態にある誰かによって
弾かれる1音との間には、
信じられないほどの違いがある。
覚醒した状態にある人間は、
眠った状態におちいりたくない。
かれはそのひとつの音を、
可能な限りのあらゆる方法で弾いて、
覚醒した状態を
持続するよう努力するだろう。
この時彼は、聴衆から
緊張を取り除こうとしているのではない。
むしろ、緊張の存在に
気がつくようにしているのだ。」

「とにかく、
彼は音楽を聞くためにやって来たのだから、
ぼくは音楽で対処する。
『きみにはある期待がある』
これはぼくが彼に語りかけているわけ。
『きみは期待している。
しかし、その期待は
過去にもとづいているもので、
現在にもとづいたものではない。
きみがそういう期待をもっていることを
否定はしない。   
でもぼくは期待以上のものをあげよう。
きみに“ 今”をあげよう。
きみが自分の期待をのぞきこむことのできる
鏡をあげよう』」

「こういったことが、
ぼく自身、
自分のことを音楽家だというふうには、
考えていないという理由なんだ。
(たとえばトリックのようなものは)
音楽上の興味としてはあるかもしれない。
しかし、人生はまた別のものだ。
ぼくはなんとか
その中間に位置したいと思っている。
ぼくはたしかに音楽をやっているけれど、
それは音楽的理由だけのために
やっているのではない、ということなんだ。
でも、ぼくはこういうことを
教えようとしているのではない。
経験しようとしているんだ。
この経験こそが、
コミュニケーションだ。」

「自分が何を弾いているのかということも
たしかに重要だけれど、
もっと重要なことは、
『これはどこから来ているのか?』
『今、こう弾きたいという衝動は
どこから来たのか?』
ということだ。」
(前掲書)


さて、以上、
キース・ジャレットの言葉を
見てみましたが、
通常の音楽家とは、
演奏に求めている事柄が、
少し違うことが分かるかと
思われます。

また、
グルジェフについても、
決して、生半可な理解で、
言及しているのではないことも、
分かります。

そして、
このような彼の言葉が、
彼の音楽を聴くに際して、
(多くの場合そうであるように)
邪魔にならないばかりか、
かえって、
覚醒的awakenessなものにする、
という点も、
興味深いことであるのです。



※気づきや、変性意識状 態(ASC)への
より総合的な方法論については、拙著↓
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気づきawarenessと自己想起self-remembering

さて、
ゲシュタルト療法においては、
気づきawarenessの力について、
特に重視しています。

気づきの3つの領域 エクササイズ


ゲシュタルト療法の創始者、
フリッツ・パールズは語ります。

 「『気づく』ことは、クライエントに
自分は感じることができるのだ、
動くことができるのだ、
考えることができるのだということを
自覚させることになる。
『気づく』ということは、
知的で意識的なことではない。
言葉や記憶による『~であった』という状態から、
まさに今しつつある経験へのシフトである。
『気づく』ことは意識に何かを投じてくれる」

「『気づき』は常に、現在に起こるものであり、
行動への可能性をひらくものである。
決まりきったことや習慣は学習された機能であり、
それを変えるには
常に新しい気づきが与えられることが必要である。
何かを変えるには別の方法や考え、
ふるまいの可能性がなければ
変えようということすら考えられない。
『気づき』がなければ
新しい選択の可能性すら思い付かない」
(パールズ『ゲシュタルト療法』倉戸ヨシヤ訳、ナカニシヤ出版)

拙著やサイトの、
別の個所でも述べているように、
気づきawarenessは、
通常の私たちの心に対して、
少しメタ(上位)レベルの機能とも、
いえるものなのです。
内容紹介『砂絵Ⅰ: 現代的エクスタシィの技法』

さて、しかし、
この気づきですが、
「気づきawareness」という言葉は、
日常的な言葉な分だけに、
その状態が、
カバーしている帯域は非常に幅広く、
実践している人たちの間でも、
その状態(含意)が、
きちんと特定できていないという、
難点があります。

最近、日本においても、
マインドフルネスや、
ヴィパサナー瞑想も、
大分、メジャーになって来て、
気づきawarenessの重要性が、
知られるようになって来ていますが、
それでもいくらか、
わかりにくい要素が多いようです。

ここでは、
「気づきawarenessの先にあるものが何なのか」
と補助線を引くことで、
その途中段階にある、
「気づきの状態」を特定し、
それを訓練し、
育てていく実践と勘所について、
考えていきたいと思います。


◆気づき・自己想起・客観意識

そのため、ここでは、
気づきawarenessの状態の、
より先にある状態として、
ロジアの秘教的な思想家、
G・I・グルジェフが唱えた、
「自己想起self-remembering」
というものについて、
取り上げてみたいと思います。

グルジェフ自身は、
スーフィー系の、
秘教的なスクール出身のため、
その修行システムの体系には、
なんとも判断しがたい、
不思議な宇宙論が含まれているのですが、
それを脇に置いて、
その実践的な心理学を取り出すだけでも、
心理療法的な見地からも、
充分示唆に富む内容となっているのです。

変性意識状態(ASC)という言葉を有名にした、
アメリカの心理学者で、
意識の諸状態の研究家、
チャールズ・タート博士は、
そのようなグルジェフの実践システムについて、
心理学的な知見から、
『覚醒のメカニズム』(吉田豊訳、コスモス・ライブラリー)という、
興味深い本をまとめています。

今回は、
そこで描かれている、
自己想起self-rememberingの、
特性や原理・構造を見ていくことで、
気づきawarenessに必要な状態(強度)が、
どのような状態であるのかについて、
見ていきたいと思います。

それというのも、
気づきawarenessは、
訓練の果てに成熟していくと、
だんだんと、
自己想起self-remembering
の状態に近づいて来るからです。

逆にいうと、
自己想起self-remembering
と、まったくかけ離れている、
気づきawarenessは、
まだ、非常に微弱な段階にある、
幼い、気づきawarenessの状態である、
ということでもあるのです。

ところで、
自己想起self-rememberingとは、
その名の通り、
「自分のことを思い出している状態」
のことです。

重要なポイントは、
ただ思い出すだけではなく、
普段の日常生活の中で、
何かを(没頭的に)行なっている時に、
それを行ないつつ、
「このことを行なっているのは私」
と、自分の存在自身に、
気づいているということなのです。

つまり、生活の中で、
つねに、
自分の存在に、
今ここで、
ずっと気づいているawareness
という状態なのです。

たとえば、
この文章を読みつつ、
読んでいる自分自身の存在にも、
気づいていることです。
「読んでいる内容」をくみ取りながら、
「読んでいる私(自分)の存在」にも、
気づいていることです。

ウスペンスキーは、
注意力を、
対象と自分自身に分割する、
といいましたが、
そのような状態です。

実際に、
行なってみると分かるように、
この状態を、
持続的に維持していくことは、
至難の業です。

そのような自己想起self-rememberingが、
気づきawarenessの先にあることの意味が、
分かるかと思います。

実際、
自己想起self-rememberingに習熟すると、
気づきawarenessの状態も、
ずっと練度と力を増したものに、
なっていくのです。

ところで、
この自己想起の体験内容
(人生を一変させる、
めざましい覚醒感と豊かさ)を、
表現するのも、
至難の業です。
しかし、
これは自己想起を説明しようとする、
すべての人が、
逢着する地点なのです。

自己想起について、
さまざまに解説した後、
タート博士は述べています。

「私はこれらの言葉に満足していない。
けれども私は、自己想起のなんらかの体験をした
他の誰かには、かなりよく
これらの言葉の意が伝わることを知っている。」
(前掲書)

「気づきawareness」も、
そのような伝達の難しい側面を持っていることは、
分かるかと思われます。
自己想起は、
それがより強まったものでもあるのです。

ここからも、
気づきと自己想起の関係が、
類推されます。


◆自己想起の困難

自己想起はまた、
実践が難しいものです。
短時間、自己想起できても、
私たちはすぐにその実践を、
忘れてしまいます。

その難しさのひとつの要因は、
力とエネルギーに属することにもあります。

タート博士は述べています。

「自己想起の初期の難しさを理解するのに
役立つ類比がある。
われわれの注意力は筋肉―
われわれの心的機能が
あまりに自動化してしまっているので、
自分の側のなんの努力もなしに
われわれの注意を
その自動的な通路に沿って
いともたやすく運んでくれるため、
ほとんど使われることのない、
そういう筋肉―
のようなものである。
今あなたはそのたるんだ筋肉を
意図的な注意のために
使い始めているのだが、
しかし意図的な努力に慣れていないので、
それはすぐに
疲れてしまうのである。」
(前掲書)

また、慣性によってすぐ自動化する、
私たちの心の普段のふるまいに合わないからだとも、
いえます。
グルジェフは、
心の自動化を防ぐため(常に目覚めるため)、
自己想起を重視したので、
当然といえば当然なわけです。

「困難は、
必要とされる注意力と
努力の連続性を
維持することにある。
私の経験では、
自己想起は自動的にはなりえない。
あなたは常に、
それを意志的に行うことに、
意図的で意識的なわずかな努力と注意を
当てなければならないのである。」
(前掲書)


◆自己想起の存在論的な強度

たとえば、
タート博士は、以下の文にあるように、
自己想起の実践で起こる感覚を、
「透明さ」
「より存在しているという感じ」
と呼んでいますが、
多くの人が、
自己想起の中で、
そのような、濃密化する存在感を、
感じ取るのです。

「人々が
『感じること、見ること、聞くこと』を
初めて試みる時、
彼らは、しばしば、ある種の微妙な透明さ―
その瞬間の現実により敏感で、
より存在しているという感じ―
を体験する。
それは、合意的意識では味わうことができず、
また、事実、
言葉では適切に述べることができない、
そういう種類の透明さである。
たとえば私は、
それを『透明さ』と呼ぶことにさえ
自分がいささかためらいを感じているのに
気づく。
と言うのは、その言葉は
(あるいは、それに関するかぎりでは、
いかなる特定の言葉も)
それ(透明さ)が安定した、
変わらない体験であることを
含意しているからである。
それはそうではない―バリエーションがある―のだが、
しかしそのことは、
あなたがこの種の自己想起を実践すれば、
自分で発見するであろう。」

これは、
ある種のマインドフルネスで、
人が、はじめのうち、
新鮮に体験する領域と、
近いものでもあります。

ちなみに、ここで、
「合意的意識」と呼ばれているのは、
既成の社会の集合的合意によって、
催眠をかけられている、
普段の私たちの日常意識のことです。
「合意的トランス」とも、
呼ばれたりしています。

催眠の専門家でもあるタート博士は、
グルジェフと同じように、
私たちの日常意識とは、
社会集団が、成員に押しつけたい、
合意的な信念(ビリーフ)によって、
催眠をかけられている状態であると、
喝破しているのです。

そして、
その催眠を解くには、
自己が同一化している、
さまざまな自動的な自我状態に、
刻々気づく、自己想起の状態が、
必要であるとしているわけです。

自己想起が育つことで、
私たちは、
自分の自動化に気づき、
そのパターンを中断し、
より意識的な統合を、
なしていくことが、
できるわけなのです。


◆自己想起の構造・原理・効能

さて、そのような、
私たちの催眠にかけられた、
複数の自我状態(副人格)と、
自己想起self-rememberingの、
構造的関係を、
次に見てみましょう。

ゲシュタルト療法における、
気づきawarenessと、
複数の自我を扱う、
ワーク(セッション)のアプローチと、
大変近いことが分かると思います。

「基本的に、自己想起は、
とりわけ、任意のいずれかの時の
あなたの意識の特定の中身と同一化せず、
あなたの全体性の跡を
つけていくことができる、
そういう意識の一側面を
創り出すことを伴う。
それは、合意的トランスからの
部分的ないし完全な覚醒である。」

また、
「自己観察」と対比しつつ、
自己想起の特性を、
以下のように述べます。

「自己想起でも
同じ内容の世界および体験を
観察することができるが、しかし
観察のレベルまたは源泉が異なる。
注意を分割し、それによって、
両腕両脚中の感覚のような何か他のものに
同時に注意を留めながら、
通常よりもずっとよく観察いられるようにすべく
行使される意図的な意志は、
普通の心の外側のレベルで作用する機能を
創り出す。
あなたは起こりつつあることに心を奪われない。
あなたが―
『独立して』という用語が
通常用いられているよりも
はるかに大きな意味で―
独立して存在する、
そういう仕方があるのだ。」
(前掲書)

ここでも、
「普通の心の外側のレベルで作用する機能」
「あなたは起こりつつあることに心を奪われない」
「独立して存在する」
と、自己想起のつくる、
心的機能の新しい支点(中心)が、
私たちの自動化を超克する機能として、
指摘されています。

「自己想起とは、
われわれの分離した諸機能を
より統一された全体へと
まとめ上げることをさす用語である。
それは、
あなたという存在の(理想的には)全体、
あるいは、少なくとも
その全体のいくつかの側面が、
意識の詳細と同時に
心に留められるような仕方での、
意識の意図的な拡大を伴う。
それは、
われわれの知的な知識はもちろん、
われわれの身体、われわれの本能、われわれの感情を
想起することであり、
それによって
われわれの三つの脳の発達と機能の統合を
促進するのである。
このより広い範囲に及ぶ注意は、
われわれが体験の詳細に熱中し、
それらの詳細および
そのような熱中に伴う
自動化した機能と
同一化することを防いでくれる。
通常の自動化した同一化と
条件づけのパターンの外側に
意図的な意識の中心を
創り出すことによって、
われわれは、より多く目覚め、
より少なくトランス状態に陥っている自己―
主人のための土台―
を創り出すことができ、
それによって
われわれはより良く自分自身を知り、
より効果的に機能することが
できるのである。」
(前掲書)

さて、
ここでは、
自己想起の狙いでもある、
「意識の意図的な拡大」が、
指摘されています。

私たちは、
そのような意識の拡張を通して、
分裂と自動化を超え、
より統合した存在に、
近づいていくのです。

このような構造にも、
ゲシュタルト療法や、
当スペースが記している、
方法論との共通点が、
うかがえるかと思います。

実際、ゲシュタルト療法に、
グルジェフの観点を持ち込むことは、
大変、益の大きなことなのです。

また、
このような構造的連関で見ていくと、
気づきawarenessと言われている状態に、
自己想起self-rememberingと同じく、
どのような強度が無ければならないのか、という、

前段(冒頭)の論点も、
より見えやすくなって来るのです。

そのような意味でも、
この自己想起self-rememberingの視点は、
気づきawarenessを考える上でも、
大変、参考になるものとも、
なっているのです。

また、興味深いことは、
グルジェフ自身は、
この自己想起の成長の先に、
「客観意識」という、
次の状態があることも、
示唆しているという点です。

自己想起は、
まだまだ不安定な状態ですが、
それが確固として、
安定した状態があるとしているのです。

そのような観点(考え)も、
本書で扱っている、
意識の階層構造の仮説と、
通ずるものがあり、
意識の海図を構成する上での、
また、実践を進める上での、
興味深いヒントと、なるものなのです。
映画『攻殻機動隊』ゴーストGhostの変性意識
「聖霊」の階層その3 意識の振動レベル


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アイデンティティの極致としての至高体験

さて、前回、
自己実現に影響する、
至高体験peak-experienceの
さまざまな特性について、
見てみました。
「至高経験」の効能と、自己実現

今回は、
アイデンティティ(自己同一性)の、
極致として現れる、
至高体験の姿について、
見てみたいと思います。

通常、私たちは、
「自分とは、誰であるのか」と、
自己の存在/体験について、
つねに、確信と不確信の間を、
揺れ動いています。

それは、
私たちの日常意識や自我が、
構造的に持っている不十分さを、
反映しているためと、
考えられます。

しかし、
至高体験(至高経験)peak-experienceにおいては、
その構造的欠陥が、
いっとき、消し去られます。

マズローは述べています。

「人びとが至高経験におかれているとき、
最も同一性identityを経験し、
現実の自己に近づいており、
最も個有の状態である
というのがわたくしの感じなので、
これは純粋、無垢のデータを提供してくれる
とくに重要な源泉であると思われるのである。」
(『完全なる人間』上田吉一訳、誠信書房)

それらを描写する、
マズローの言葉を、
いくつかまた、
拾っていってみましょう。

「至高経験にある人は、
他の場合以上に精神の統一
(合一、全体、一体)を感ずる。
かれはまた(観察者から見ても)
いろいろのかたちで
(以下に述べるように)
一段と統合しているようにみえる。
たとえば、分離分裂が少なく、
自分に対して闘うことよりも
むしろ平和な状態にあり、
経験する自己と
観る自己との間にずれが少なく、
かれのすべての部分的機能が
たがいに巧妙に、
齟齬なく体制化せられ、
それが集中的、調和的、効率的である、など。
以下、統合および
その基礎となる条件について、
違った観点から述べてゆきたい。」

「かれが一段と純粋で
単一の存在になるにつれ、
世界と渾然一体と
深くつながることができるようになり、
以前には自己でないものとも
融合するようになる。
たとえば、愛人は、
たがいに緊密になって、
二人の人間というよりはむしろ一体となり、
我―汝の一元論は可能になり、
創造者は創造している作品と一つになる。(中略)
つまり、同一性identity、自立性autonomy、
自我性selffoodの最高度の到達は、
同時にみずからそれ自体を超越し、
自己を超えてすすむのである。
その際、個人は
比較的無我になることができる。」

「至高経験における個人は、
普通、自分がその力の絶頂にいると
感じられるのであって、
すべてのかれの能力は、
最善かつ最高度に
発揮せられているのである。
ロジャーズはいみじくもいっている。
かれは『完全に機能するfull-functioning』のを感ずると。
かれは、他のときと比べて、
知性を感じ、認知力に優れ、
才気に富み、力強く、
好意的であることを感ずる。
かれは最善の状態にあり、
調子をかため、
最高の状態におかれている。(中略)
かれはもはや自分と闘い、
自分を抑えようとして
無駄な努力を重ねようとはしない。(中略)
普通の状態では、
われわれの能力の一部は行為に用いられ、
また一部は、この能力を抑えるために費やされる。
ところがいまや、
浪費するところがないのである。」
(前掲書)

ちなみに、
このような葛藤の消滅感などは、
ゲシュタルト療法のセッション後に
私たちが、しばしば感じる、
強烈な高揚感の、
重要な原理・構造的理由でもあるのです。

続けて、
彼の言葉を見ていくと…

「完全に機能するfull-functioningという状態を、
わずかばかり違った面から見ると、
人が最善の状態にあるときは、
労せずに容易にはたらくということである。
他日努力し、緊張し、苦闘したことがらも、
その場合、なんの努力も、骨折りも、
苦労もなしに
『おのずと生ずるcomes of itself 』のである。
それとともに、
すべてのことが『ぴったりとclicks 』と、
あるいは『整然is in the groove 』と、
あるいは『力いっぱい in overdrive 』に
おこなわれるとき、
よどみなく、易々と、労せずして、
完全にはたらく状態は、
往々優美感や洗練された外観を
呈するといっても
過言ではないのである。」

「ある人は、至高経験においては、
他の場合以上に、自分を
活動や認知の責任ある能動的、
創造的主体であると感ずるのである。
かれは、
(人に動かされたり、決定されたりする
無力で、依存的、受動的で、弱々しく、
隷属的であるよりは)
根本的に運動の主体であり、
自己決定者であると感ずる。
自分は自制して、
責任を完全にはたし、
断固とした決意と、
他の場合にみられないような
『自由な意志 free will 』でもって、
自己の運命を開拓している、
と感ずるのである。

「かれはいまや次の状態から
極めて自由な立場におかれている。
つまり、障害、抑制、
警戒心、恐怖、疑惑、
統制、遠慮、自己批判、制止である。」

「かれは自発的で、表現に富み、
天真爛漫に振舞う。
(悪意がなく、純朴で、正直、率直、
純真で、あどけなく、飾り気もなく、
開放的で、気どらない)
また自然で(単純で、滑脱、敏活で、
素直、誠実で、とり繕わず、
特定の意味からいっても素朴で、実直)
こだわりがなく、
自己を自由に表出する
(自動的で、直情的、反射的、
『本能的』で、天衣無縫、
自己意識がなく、虚心、無自覚)
のである。」

「かれは、したがって、
特定の意味からして『創造的』である。
かれの認識や行為は、
強い自信や確信に支えられて、
その本質が問題性をもった場面、
あるいは問題でない場面に対し、
『彼岸out there』の立場乃至要請から、(中略)
つくりあげてゆくことが
できるのである。(中略)
当意即妙、
無より生ずるもので、
予想できるものでなく、
新奇で斬新な、
陳腐でも通り一ぺんでもない、
教わることのない
非慣習的のものである。」

「このことはすべて、
独自性、個性、特異性の極致にある
ということができる。(中略)
至高経験の際には
ことさら純粋に異るのである。(中略)
至高経験においては、
かれらのひととなりは
一層顕著になるのである。」

「至高経験においては、
個人は最もいまここhere-nowの存在であり、
いろいろの意味からして、
過去や未来から最も自由であり、
経験に対して最も
『開かれているall there』。」

「いまや、人はより一段と
純粋に精神的なものとなり、
世界の法則のもとに生きる
世界内存在の意味は薄れるのである。
つまり、かれは相違があるかぎりでは、
非精神的な法則よりも、
精神内法則によって
決定される点が多くなるのである。」

「至高経験において、
人は動機をもたなくなる。
(あるいは欲しないようになる)
とりわけ、欠乏動機の見地から見て
そうである。
この同じ理論領域において、
最高の、最もまともな同一性identityを、
無為、無欲、無私として、換言すれば、
普通の欲求や衝動を超越したものとしてとらえても、
同様である。
かれはまさにかれである。
喜びは達せられたのであり、
喜びを求める努力は一時的な終わりを
とげているのである。」

「至高経験を伝える表現方法や伝達方法は、
詩的、神秘的、叙事詩的になりやすい。」

「すべての至高経験は、
デーヴィド・エム・レヴィの意味における
『行為の完了 completions-of-the-act 』として、
あるいはゲシタルト心理学者のいう閉鎖closureとして、
ライヒ学派の例でいえば、完全なるオーガズムの型として、
あるいはまた全体的解発、カタルシス、
カルミネーション、クライマックス、
成就、空虚、終結として、
効果的に理解できるかもしれない。」

「ある種の遊戯性は、
B価値をもっていると
わたくしは非常に強く感ずるのである。(中略)
重要なことは、それが至高経験に際して
最も多く報告されていることであり、
(人の内面からも、外界から見られるところからも)
また、報告している人以外の研究者によっても
見られることである。(中略)
このB遊戯性を述べることは非常にむずかしいが、
たしかになんらかの敵意を超えた、
宇宙的で神のような、
よいユーモアの特性をもつものである。
これは容易に、幸福の喜び、
みち溢れる陽気さ、
あるいは愉しさと呼ぶことができよう。」

「人びとは、至高経験の間およびその後で、
著しく幸福、幸運、恩寵を感ずる。
『わたくしは分不相応だ』というのが
珍しくない反応である。
至高経験は企図せられるものでも、
計画にしたがってもたらされるものでもでもない。
それらは偶然におこるものである。
われわれは
『喜びでもっておどろく surprise by joy 』
のである。
思いもよらないという不意の驚きの反応、
快よい『知ることのショック shock of recognition』は
非常に多いのである。」
(前掲書)


…………………………………………

さて、
アイデンティティの極致としての、
至高体験の姿について、
さまざまに見てみましたが、
この姿は、
個を超出する要素を持ち、
自己同一性(アイデンティティ)ということを、
考える中では、
ある意味、
両義的な要素ともなるわけです。

マズローは、
それを「逆説」と呼び、
以下のように語っています。

「同一性identityの目標とするところ
(自己実現、自立性、個性化、
ホルネイの現実自己、真実性等)は、
同時に、それ自体究極の目標であるとともに、
また、過渡的な目標、経路のならわし、
同一性identityの超越にいたる行路の一段階
であるように思われる。
このことは、
そのはたらきがそれ自体を消してゆく、
ということもできる。」

このような洞察が、
後に、マズローの研究を、
自己実現のテーマから、
自己超越のテーマへと、
移させたことがわかります。

つまり、
私たちは、
究極の自己を求めるがゆえに、
図らずも、
自己を失っていく(超え出ていく)
というプロセスを、
たどっていくことになるのです。

そして、しかし、
その結果、
自己を失う(超え出る)がゆえに、
私たちは、
再び、真の自己を発見(逢着)していく、
といったことにも、
なっていくわけなのです。

そして、その点が、
至高体験が、
私たちの自己同一性identityが持つ、
不確実感を、
克服する要素にも、
なっているわけなのです。

そして、
このあたりの事情は、
変性意識状態(ASC)をめぐる、
さまざまな体験領域においても、
同様に、
重要な問題となって来る事柄でも、
あるのです。

変性意識状態(ASC)においては、
私たちの見知った日常意識が、
さまざまに相対化されて(超え出られて)いくからです。

そのため、
心理変容と変性意識状態(ASC)を扱った、
拙著『砂絵Ⅰ: 現代的エクスタシィの技法』においても、
これらの事柄は、
重要なテーマ(行きて帰りし旅)として、
焦点化されて来ることになったのでした。
内容紹介『砂絵Ⅰ: 現代的エクスタシィの技法』



Abraham-Maslow


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「至高体験」の効能と、自己実現


さて、前回、
いささか使い古された感のある、
マズローの自己実現self-actualization
という概念を取り上げ、
それが、
下位の欲求実現のあとにのみ、
ピラミッドの頂点のように、
現れるわけではないことについて、
見てみました。
「完全なる体験」の因子と、マズロー

今回は、
マズローの、別の有名な概念である、
至高体験peak-experience
について取り上げ、
その瞬間的な体験が、
自己実現に作用する、その構造的関係を、
見ていきたいと思います。


◆自己実現の再定義

ところで、
マズロー自身は、
通俗的なイメージにあるような、
「自己実現のモデル」が、
積み木のような静的なモデルとして、
とらえられてしまうことを、
危惧してもいました。

そして、
さまざまな形で、
人生に現れる、
至高体験(至高経験)peak-experienceの体験が、
人の自己実現を、
促進していく要素を持つことについて、
自己実現の再定義として、
記しています。

「換言すると、
だれでも何らかの至高経験においては、
自己実現する個人に見られる特徴を
多く示すのである。
つまり、しばらくの間、
かれらは自己実現者になるのである。
われわれは望むなら、
一過性の性格変化と考えてよいのであって、
情緒―認識―表現状態はまるで違う。
これらは
かれの最も幸福で感動的な瞬間であるばかりでなく、
また最高の成熟、個性化、充実の瞬間―
一言でいえば、
かれのもっとも健康な瞬間―でもある。」

「このことは、
われわれがその静的、類型学的欠陥を一掃し、
極くわずかの人びとが六〇歳になって入ることのできる
悉無律all-or-noneの神殿としないように、
自己実現を再規定することを可能にする。
われわれはこれを挿話として、
あるいは人を奮起させる事柄として、
規定することができるのである。
そこでは、人の力はとくに有効に、
また非常に快的なかたちでもって結集されるだろうし、
かれは一層統合せられ、分裂が少なく、
経験に開かれ、特異的で、
まったくのところ表現豊かで、
自発的で、完全に機能し、
創造に富み、ユーモラスで自我超越的で、
自己の低次欲求より独立する
等々になるのである。
かれはこれらの挿話において、
真に自己自身になり、
完全にかれの可能性を実現し、
かれの生命の核心に接するようになるのである。」

「われわれが
自己実現する人びとと呼んで区別するものは、
平均人よりもはるかに何度も、
又強く、完全に、
これらの挿話的事態が生ずると
みられることである。
このことは、
自己実現が悉無律的な事柄ではなく、
むしろ程度や頻度の問題であり、
したがって、適当な研究手段に乗せ得ることを
示すのである。
われわれはもはや、
大部分の時間、自己を充実できる極くわずかの被験者を
研究することに限られる必要はない。
理論的にいって、少なくとも、
自己実現の挿話としてどのような生活歴を
研究してもよいのである。」
(『完全なる人間』上田吉一訳、誠信書房)

ここでは、
至高体験(至高経験)と、
自己実現との関係、
また、至高体験が、
自己実現に作用するあり様が、
語られています。


◆マズローの狙うところ

ところで、
マズローは、今では、
自己実現や至高体験などの概念で、
知られていますが、
彼の研究の元々の来歴は、
精神分析のような、
欠乏deficiencyした欲求(動機)によってのみ、
構成される人間像というものに、
彼が違和感を感じたからでした。
そこからでは、
創造的な人間像が、
まったく描けないからでした。

人間の存在状態の、
多様な帯域を網羅するには、
観察される、
肯定的で、創造的な要素も、
加えることが必要だと考えたからでした。

そこで、彼は、
欠乏deficiencyを軸とした、
D動機 D-motivation だけで構成される人間像ではなく、
生命 being や生成 becoming の成長欲求を核とした、
B動機 B-motivationというものを、
考えていくようになったのでした。

誰の人生においても、
挿話的に現れる、
創造的で肯定的な体験領域―至高体験や、
また、それらを含む体系として
より包括的な心理学を、
構想するようになったのでした。

彼は語ります。

「これは、
『積極的心理学』あるいは
未来の『予防心理学』に関する一章であって、
完全に機能する健康な人間を取り扱い、
ただ通常の病気である人のみを
取り扱おうとするのではない。
したがって、
「平均人の精神病理学」としての心理学に
対立するものではなく、
それを超え、原理的にいって、
病気も健康も、
また、欠乏も生成も生命も
ともに含める総括的、包括的な体系の中で、
すべてその発見を具体化できるのである。
わたくしは
それを生命心理学Being-psychologyと呼んでいる。
というのは、
それが手段よりもむしろ目的に関係しているからである。
すなわち、最終経験、最終価値、最終認識、
達人people as endsというものに
関与しているためである。
ところがこんにちの心理学の研究するところは、
大抵、所有することよりも所有しないことに、
成就よりも努力に、
満足よりも欲求不満に、
喜びに達したことよりも喜びを求めることに、
そこにあることよりもそこに達しようと努めることに
おかれているのである」
(前掲書)


◆至高体験peak-experienceの諸相

さて、次に、
彼が注目し、事例を収集した、
至高体験(至高経験)peak-experienceについて、
見てみましょう。

通常訳語に使われている、
「至高」という言葉は、
何か宗教的で特別な感じがありますが、
実際は、
身近にあるハイな体験の中でも、
特にその強度が強いものといったものです。

「B愛情B-loveの経験、親としての経験、
神秘的、大洋的、自然的経験、美的認知、創造的瞬間、
治療的あるいは知的洞察、オーガズム経験、
特定の身体運動の成就などにおける
これら基本的な認識事態を、
単一の記述でもって
概括しようとこころみるものである。
これらの、
あるいはこれ以外の最高の幸福と充実の瞬間について、
わたくしは『至高経験』と呼ぼうと思う」(前掲書)

彼が、
至高体験のものとして挙げる、
さまざまな特徴を、
ひろってみましょう。

「B認識B-cognitionでは、
経験乃至対象は、
関係からもあるべき有用性からも、
便宜からも、目的から離れた全体として、
完全な一体として見られやすい。
あたかも宇宙におけるすべてであるかのように、
宇宙と同じ意味での生命のすべてであるかのように
見られるのである。
これは、
大部分の人間の認識経験である
D認識とは対照的である。」

「B認識のあるところ、
認識の対象にはもっぱら、
またすっかり傾倒される。
これは「全体的注意」
―シャハテルもまたそうみている―
と呼んでもよいかもしれない。
ここでわたくしが言おうとしていることは、
魅惑せられること、
あるいはすっかり没頭することの意味に
非常に近いのである。
このような熱中においては、
図は図ばかりになり、
地は事実上消えてしまうか、
少なくとも重視はされない。
それはまるで、当分の間、
図は他のものすべてから切り離されたようであり、
世界が忘れ去られたようでもあり、
暫くの間、認識の対象が
生命のすべてになったかのようである。」

「そのときには、かれは直ちに、
自然がそのまま、
それ自体のために存在するように見ることができ、
決して人間の目的の遊戯場としては
見ないのである」

「わたしが見出したところでは、
自己実現する人間の正常な知覚や、
平均人の時折の至高経験にあっては、
認知はどちらかといえば、
自我超越的、自己滅却的で、
無我であり得ることなのである。
それは、不動、非人格的、無欲、無私で、
求めずして超然たるものである。
自我中心的ではなく、対象中心である。
つまり認知的な経験は、
自我にもとづいているのではなく、
中心点を対象におき
その周辺に形作っていくことができるのである。
それはみずからとかけはなれ、
観察者に頼らない
なんらかの実在を見ているかのようである。
美的経験や愛情経験では、
対象に極度にまで没入し、
『集中する』ので、
まったく実際のところ、
自己は消えてしまうばかりである。」

「至高経験は自己合法性、
自己正当性の瞬間として感ぜられる。
それとともに個有の本質的価値を荷うものである。
つまり、至高経験はそれ自体目的であり、
手段の経験よりも
むしろ目的の経験と呼べるものである。
それは、非常に価値の高い経験であり、
啓発されることが大きいので、
これを正当化しようとすることさえ
その品位と価値を傷つけると
感ぜられるのである。」

「わたくしの研究してきた普通の至高経験では、
すべて時間や空間について
非常に著しい混乱が見られる。
これらの瞬間には、
人は主観的に時間や空間の外に
おかれているというのが正しいであろう」

「至高経験は、
善であり、望ましいばかりで、
決して悪だとか、望ましくないものとしては
経験せられないのである。
経験は本質的に正当なものである。
経験は完全で完成したものであり、
それ以外をなんら必要としない。
経験はそれ自体充分のものである。
本質的に、必然的で不可避のものである。
それはまさにあるべく姿である。
それは畏怖と驚嘆と驚愕と卑下、
それに敬服と高揚と敬虔でもってさえ
反応させれるのである。
この経験に対する人の反応を述べるのに、
神聖ということばも時折使われている。
それは生命の意味からして
喜ばしく、『痛快なものamusing 』である。」

「至高経験においては、
現実そのものの性格をさらに明確に見ることができ、
またその本質が
より深く見透されるものだとの命題を認めたい。」

「至高経験は、
この観点から見ると、
絶対性が強く、それほど相対的ではない。
(中略)それは比較的達観し、
人の利害を超越しているというだけではない。
それらはまた、
みずからは『彼岸』にあるかのように、
人間臭を脱し、
自己の人生を超えて
永続する現実を見つめているかのように、
認知し、反応するのである。」

「至高経験は、純粋の満足、
純粋の表現、純粋の高揚
あるいは喜びと考えてよい。
だがやはり
それは『世上における』ことであるから、
フロイトの『快楽原理』と『現実性原理』の
一種の融合を示すのである。
したがって、それはさらに、
心的機能の高い水準において、
普通の二分法的考え方を
解決した一例ともいえるものである。
したがって、われわれは、
このような経験をもつ人びとには
無意識に対する親近性と開放性、
無意識を比較的おそれないことといった
ある種の『浸透性』が
共通に見出される、と考えてよい。」
(前掲書)


◆至高体験の効能

さて、上記のような、
至高体験が、
人の心理的側面に、
大きな影響を与えることは、
容易に想像することができると思います。

マズローは、
その人格変容(転換)への影響を、
以下のように記します。

「1 至高経験は、厳密な意味で、
徴候symptomsを取り除くという
治療的効果を持つことができ、
また事実もっている。
わたくしは少なくとも、
神秘的経験あるいは大洋的経験をもつ二つの報告
―ひとつは心理学者から、いま一つは人類学者から―
手にしているが、
それらは非常に深いもので、
ある種の神経症的徴候を
その後永久にとり除くほどである。
このような転換経験は、
もちろん人間の歴史においては
数多く記録せられているが、
わたくしの知るかぎりでは
決して心理学者あるいは精神医学者の
注目のまととなってはいないのである。

2 人の自分についての見解を、
健康な方向に変えることができる。

3 他人についての見解や、かれらとの関係を、
さまざまに変えることができる。

4 多少永続的に、世界観なり、その一面なり、
あるいはその部分なりを変えることができる。

5 人間を解放して、
創造性、自発性、表現力、個性を
高めることができる。

6 人は、その経験を
非常に重要で望ましい出来事として記憶し、
それを繰り返そうとする。

7 人は、たとえそれが
冴えない平凡な苦痛の多いものであったり、
不満にみちたものであったりしても、
美、興奮、正直、遊興、善、真、有意義といったものの存在が
示されている以上、
人生は一般に
価値あるものと感じられることが多いのである。」
(前掲書)


……………………………

さて、以上、
マズローの言葉を通して、
自己実現と、
それに影響する至高体験の関係を、
見てみましたが、
その構造的関連が、
理解されたかと思います。

ところで、実際、
至高体験とは、
誰においても、
起こって来るものです。
ここで挙げているような、
極端な形ではなくとも、
もっと穏やかな形で、
多様な姿で存在しています。

そして、
その可能な因子としての心理特性は、
頂点的な体験だけでなく、
日々のさまざまな感覚体験の中に、
混じりこんでいるものなのです。

私たちは、
心理的投影を通して、
ちょっと事件や生活の出来事の中に、
芸術体験やスポーツ体験の中に、
それらの萌芽を、
日々感じ取っているものでもあります。

また、心理療法やその他の、
直に心身を取り扱う実践を重ねていくと、
心身の流動化が、
段々と増していき、
至高体験なども、
より経験しやすくなっていくのです。

拙著『砂絵Ⅰ: 現代的エクスタシィの技法』においては、
心身の流動化や、
変性意識状態(ASC)が、
私たちを導く、
さまざまな生の肯定的様相について、
とり扱ってみました。
内容紹介『砂絵Ⅰ: 現代的エクスタシィの技法』

そして、
実際のところ、
このような創造性が、
自己のうちに、
潜在的に在るものとして、
知っておくことは、
人生の取り組みの中で、
私たちを、
より大きな可能性の中に、
置いていくことでもあるのです。

そのような意味においても、
マズローの視点は、
現在でも、
未だ示唆の多いものと、
いえるのです。



 

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